「ピアノのおけいこ」は、子どものけいこごとの代表といっていいくらい広く日本の家庭に浸透していますが、いうまでもなくピアノは西洋の楽器。ピアノが日本の家庭に登場しはじめたのは、明治の文明開化後、第一次世界大戦の好景気にともなって新興ブルジョワ階級が誕生した大正時代といいます。ではピアノが登場するまえ、日本のお嬢さんたちは、なにをけいこしていたのか。それは、こと=「箏」でした。箏がピアノという新参者のライバルに、抵抗もむなしく敗れていく過程には、さまざまなドラマがあったのです。

 ――という、身を乗り出したくなるような面白いエッセイを書いてくださったのは音楽評論家で思想史の専門家でもある片山杜秀さんです。「日本人はどうしてピアノが好きになったか?」は、日本のピアノ受容史であると同時に、弦と弓とを対比させながら、日本人古来の音楽的嗜好に迫る読み物です。

 さて、ピアニストが演奏するとき、そのあたまのなかにはどんなイメージがうかんでいるのでしょうか。ショパンのスケルツォ第四番は「飛び方を習得していない天使」が「岩壁に衝突し、自分で翼を繕う」様子、ベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタの終楽章は「ノアの箱舟の建造」の様子……といったのはリヒテル(ユーリー・ボリソフ著『リヒテルは語る』)だそうです。演奏家のこうした想像力をナンセンスと決めつけていいのか、というのが音楽評論家の宮澤淳一さん。

「絶対音楽」に演奏家が勝手にそんなストーリーを作ったり、詩的・絵画的なイメージを付与して語ってよいのか。……――そんな批判が聞こえてきそうである。
 しかし、これをナンセンスと決めつけるのは、賢しらな現代人の哀しい性かもしれない。

 宮澤さんによる「ピアニストの想像力」は、演奏家が音楽作品から喚起するストーリー、つまり「プログラム(標題)」の問題に迫る刺戟的なエッセイです。

 クラシックを語りながら、それが失われた恋をめぐる私小説とも読めるような比類ない評の書き手である鈴木淳史さんは、「ピアノとわたし」という文章を寄せてくださいました。音楽が嫌いだった小学生の男の子が、どのようにしてピアノと出会い、触れ、近づいては遠のいて、現在の微妙な距離にいたったか。鈴木さんのピアノ観が形成されるスリリングな過程をどうぞのぞいてみてください。