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船曳由美『一〇〇年前の女の子』(講談社)

母の言葉を語るということ

 明治42年(1909)、群馬県館林、栃木県足利というふたつの町の間にある栃木県足利郡筑波村大字高松という小さな村に生まれたひとりの女性の物語です。彼女の名前は寺崎テイ。すでに一世紀を生きてきたこの女性は、いま東京世田谷の老人ホームで手厚い介護を受けながら暮らしていますが、米寿を過ぎたころから、それまで「重い石で心の奥に封印しているかのように黙して語らなかった故郷の高松村や自分の生い立ちの話を、ことあるごとに語り始めました。そうした思い出話を娘である著者が聞き取り、それらの記憶の断片を丹念につなぎ上げてまとめたのが、この本です。

 ココ・シャネルやマリ・キュリーの評伝ではありません。書名を見ただけで誰もが争って手に取る本とは言えないでしょう。私もある理由がなければ、目を通してみようという気になったかどうか、自信はありません。ところが、非常に面白い本でした。まず何よりも、健気にひたむきに生きてきた女性の一代記として感動的でした。

 上州名物はカミナリ、カラッ風、カカア天下。そのカミナリさまが落ちた日に、テイは誕生します。ところが、自分の里方に帰ってテイを産んだ実母は、結局そのまま婚家に戻ることはありませんでした。赤ん坊だけが、「わずかの産着とおむつの包みを付けて、生後一カ月で寺崎の家へ送り届けられ」てきたのです。テイは以後、二度と「おっ母さん」に会うことはありません。寺崎の家のヤスおばあさんにおぶわれながら、もらい乳をして生きのび、やがて「二歳にもならないころからあちらに預けられ、こちらに里子に出され」、五歳の時、貧農の家へ養女にやられます。そこで朝早くから牛馬のように働かされ、辛く孤独な少女期を過ごします。しかし小学校に上がる直前に、再び寺崎の家に戻り、大正5年の春、村から一里離れた尋常小学校まで通うことになります。学校はテイにとって避難所であり、解放区のようなものでした。
 
〈校庭を見ると、窓近くにヤッちゃんが立っている。ヤッちゃんは、少し年上の顔見知りの女の子であった。小学二年でもう学校を下がり、羽刈の村の菓子屋に年季奉公に出されていた。小学校に二年間行ったといっても、ほとんど休ませられていて、字を覚えるヒマもなかったろう。ヤッちゃんは赤ん坊を背負って、ねんねこばんてんを着て、子守のように、髪を手ぬぐいで包んでいた。そして赤ん坊を起こさないように、先生の朗読をジッと聞いているのであった。わたなべせんせいは、文字を書くときも、黒板の窓寄りの端に大きく書かれた。ヤッちゃんは、背のびをして黒板を見てから、棒切れで、地面にその字を書いていた。……テイは養女に行っていたときのことを思った。あのままだったら、たぶん、同じように、こういう子守に出されていたのではないか……〉
 
 寺崎の家には、働き者の継母が嫁いできていて、家はテイの妹が継ぐ、という取り決めが成立しています。継母は妹たちにテイのことを「お姉ちゃん」ではなく、テイちゃんと呼ばせることを主張して譲りませんでした。テイは、心のどこかに「いつかまた養女に出されるのではないか」という恐れを抱きながら、勉強に精を出し、家の仕事を一生懸命に手伝い、実母を知らない淋しさ、哀しさに耐えながら成長していきます。やがて足利高等女学校に進み、16歳で東京に出て、独りで生きようとするテイの逞しさ、その過程で彼女を守り続けるヤスおばあさんの物語には興味が尽きません。

 ただ、この作品をユニークにしているのは、単にこれが『次郎物語』の少女版ではなく、当時の時代背景、村びとの暮らしぶりや野良仕事の様子、四季折々の行事、寺崎家を行きかいする印象的な人々の姿などが、少女の目を通してしっかり描き出されているからです。暦を追えば、八十八夜の茶摘み、井戸替え、田植えと草取り、おカイコさま、お盆様、お月見と秋のお彼岸、稲の穫り入れ、すす払い、もちつき、大晦日、お正月、ぼんぼ焼き、嫁の里帰り、節分、お花見……と続き、村には越中富山の薬売り、小間物屋、盲目の「ごぜさん」たちや物乞いの親子もやってきます。

 テイに刻印されたそれらの原風景が、驚くほどに鮮やかです。上州に吹く空っ風のうなり、虫の泣き声、草花のたたずまい、ヤスおばあさんのひと言ひと言。どれもが生き生きとしています。さらに著者は、地誌にもあたり、郷土史家を訪ね、民俗史を調べ、母親の「記憶」の客観的な補強や検証を怠りません。その結果、記憶はより具体的に、より象徴的な形をとって現れています。

 村のお盆では、お盆様といってご先祖様をお迎えする儀式が粛々と行なわれていました。きれいに墓掃除をして、立派な盆棚を作り、ふだんは仏壇の中に納めている歴代のご先祖様のお位牌を、そこにきれいにふいて並べます。そして、いよいよ盆の入りです。
 
〈テイを先頭に子どもたちが提灯をさげて、大人といっしょにお墓まで迎えにいく。……お墓の前で線香を上げる。そしてくるりと背を向けてしゃがむ。すると、お盆様が墓石の中からソロソロと出てきて、めいめいの背中に乗られるのだ。大人も子どもも両手を後ろに回し、お盆様を背負う恰好をする。……
 家の前ではイワおっ母さんが迎え火をたいて待っている。
 そのあと、みんなで盆棚の前に行き、坐って拝む。おばあさんが背中に、小さく声をかけた。
 ――下(お)りらっしゃい
 お盆様はめいめいの背中からするすると下りて、こんどは盆棚に上がられるのである〉
 
 暮らしはつましくとも、こういう時空間に生きる人たちが、ついこの間まで日本のあちこちにはいたのでしょう。そういう「在りし日」の感触、そしておそらくは地霊とともに村の中に充満していたであろう土と人のエネルギーが、身体感覚として伝わってきます。それが、この本のもうひとつの魅力です。
 
〈馬ほど利口でかわいい動物はいないという。昔は高松でもよく馬を飼っていた。しかし、日清、日露と戦争がはじまるたびに、どの家も馬を召し上げられた。
 前の日から馬が好きなものを、それこそ餅までついていっぱい食べさせて、ひき手の男たちと馬が中仙道を一列になって歩いていく。別れてから村へ帰る道で、男たちは全員、顔中グシャグシャにして泣いた。男が男泣きに泣くのは、こういうふうに馬と別れたときだな、と誰もがいったという。
 何日かたってから村の男衆が聞いてきた。
 ――あの馬は将校さんが乗るんでねえゾ、雪のシベリヤに送られて、軍の荷物曳きだとヨー
 ――そりやァ、そうだ、百姓の野馬なんか、そんなもんだ……
 村中、ガッカリして、それから馬を飼う家がめっきり減ってしまったのだそうだ〉
 
 村の生活になじみ深い動物たちとの思い出、利根川べりの掘っ立て小屋で川音を聞きながら眠る「水場のコウさん」、毎冬「火の用心」の夜回りで得た金を、遊郭で一気に蕩尽してしまう「照やん」。テイの非凡な感性がとらえる愉快な思い出も数々あります。

 この文章の初めに、ある理由があってこの本を読んだ、と書きました。実は、著者である船曳さんを編集者の先輩としてよく存じ上げていたからです。平凡社の伝説的な雑誌「太陽」に創刊時から関わり、その後はダンテ『神曲』、プルースト『失われた時を求めて』、ジョイス『ユリシーズ』『若い藝術家の肖像』、『完訳ファーブル昆虫記』(いずれも集英社)の新訳出版を手がけてこられたベテラン編集者です。今回の本づくりでも、表紙絵から各章のタイトルに至るまで、全体がとても丁寧に作られています。加えて、編集者=著者の意地を感じた点もいくつかありました。

(1) 使われている写真が1点だけです。あえて文章の力で勝負しようとしています(こういう勝気さは母親譲りかもしれません)。「太陽」というビジュアル雑誌を手がけてきた人であるにもかかわらず(あるいは、そうであるからこそ)、写真では伝えきれない「背後の世界」を描きたいという意欲の現われだと理解しました。1点使われた写真は、巻末に置かれた17歳の寺崎テイの肖像写真です。一巻を締めくくる上で効果的です。
(2) 「一〇〇年前の女の子」の題字の「一〇〇」だけが描(か)き文字になっています。1909年から2010年までの歳月の重さを表そうとすれば、肉筆にするしかなかったのでしょう。この作品への思いの深さが感じられました。
(3) 字の大きさです。「はじめに」と「あとがき」以外の本文は大き目の活字が選ばれています。ゆったりとした村の暮らし、四季のうつろい、そして少女の語り口を表現するには、「これでなければならない」という思いがあったのでしょう。

 老いて、弱っていく親をかたわらにおいた時、「人生で、この人は何を感じ、何を学び、どのような思いで生きてきたのだろうか」「いま、その魂は何を見、何を聞き、どこへ向かおうとしているのだろうか」とは、ふと誰しもが思うことです。しかし、それを形にするということ、つまり「口寄せ」となって、彼らの言葉を、彼らになりかわって語るということは、決してたやすいことではありません。実際は往々にして、機会は失われていくものです。その意味でも貴重な仕事であると思うのです。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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