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『若き日の友情――辻邦生・北杜夫往復書簡』(新潮社)

詩的青春の残したもの

 辻邦生さん、北杜夫さんの2人の作家が旧制松本高校で出会って以来、深い友情で結ばれていることはよく知られています。私のように、ふたりの作品に親しむようになった最初のきっかけが『どくとるマンボウ青春記』(1968年)であった者にとっては、北杜夫の内面世界にしっかりと座を占めている辻邦生という存在には「初登場」の時点から興味をかきたてられたものです。

「もとは自然科学が好きであったはずの私は、旧制高校生活のあいだに、およそこの世の役に立ちそうもない文学とやらの魔薬に誘きつけられ、高校も後半となるころには、本当に心の底の悩み、もしくは趣味を同じくした会話を交しあえた友人は、たいてい文科の生徒であった」(『どくとるマンボウ青春記』)という北さんには、「もとは先輩」のTという貴重な友人、すなわち辻邦生氏がいました。

「彼は私が入学した年に落第してきて同輩となり、ひとときだけ寮にもいたが、旧制高校の馬鹿騒ぎをすでに精神的に卒業しており、やがて浅間の下宿に隠棲して瞑想にふけってばかりいた。……外見はやさ男で下宿にひきこもっているものの、頭の切れる理論派の一方の旗頭として、松高生の間で隠然たる存在として知られていた。……歳月と共にますます隠棲し、学校にはちっとも出ず、いよいよ難解な瞑想にふけったものだから、またもや落第し、私が卒業したときにはついに後輩になってしまった」(『どくとるマンボウ青春記』)

『若き日の友情――辻邦生・北杜夫往復書簡』には、1948年3月10日から61年5月15日までの、ふたりの間で交わされた161通が収録されています。最初の手紙は、辻さんが22歳、北さんが20歳の時のもの。松本高校を卒業して東北大学医学部をめざす北さんから、出席日数不足で落第してもう1年松本高校に留まることになった辻さんに宛てた友の身を案じる封書です。それに対する辻さんの返信には「僕のリーベ(註・ドイツ語で「恋人」の意)。つまらない心配をかけてしまつたね。周囲の人たちの方がかへつて驚いてくれてゐるけれど僕にはそんなにショックぢやなかつた」とあり、「試験はどうだつた? 北の国の人々は? 自然は?」と続き、「キリーロフのやうな辻邦生」から「ムイシュキンのやうなわが愛する斎藤宗吉大兄」へとあります。

 この間まで同じ高校生活を送っていたふたりが物理的に離れることになり、「手紙のやりとりが唯一のなぐさめ」(『どくとるマンボウ青春記』)となります。翌年、辻さんは東京大学文学部仏蘭西文学科に入学しますが、東京・仙台の間で往復書簡は続きます。その後、仏文科の大学院に進んだ辻さんは結婚し、57年に佐保子夫人と共にパリへ留学します。やがてそこに、この本のハイライトともいえる事件が起こります。58年11月、精神科医になっていた北さんがマグロ調査船の船医として、シンガポール、スエズを経て、ヨーロッパへと向かうことになるのです。パリに住む辻夫妻へ宛てた手紙が、寄港地から次々と送られてきます。そしてパリでの劇的な再会。これは、その後大ベストセラーとなった『どくとるマンボウ航海記』に詳しく描かれた通りです。やがて航海から戻った北さんは『航海記』の大ヒットで時の人となり、また60年、「夜と霧の隅で」によって芥川賞を受賞します。辻さんは61年に帰国、翌年に発表した初長編『廻廊にて』で近代文学賞を受賞し、新進作家としての地歩を固めます。こうして書簡のやり取りが慰藉だった、ふたりの文学的青春はひとつの終焉を迎えます。

 このように、ふたりがともに文学を志した時期に離ればなれになったこと、そして当時は通信手段が電話すら一般的でなく、手紙か葉書に頼らざるを得なかったことなど、生活環境、時代背景が奇跡のように味方してできたのがこの本だといえるでしょう。加えて、度重なる引越しにもかかわらず、それらが161通も残っていました。お互いにとって、これらの書簡がいかにかけがえのないものであったかを如実に示す事実です。

 それにしても、発見された161通の日付、差出場所、宛先、郵便局の消印、さらにはこの間に3回行なわれている郵便料金の改定(封書が5円→8円→10円、葉書が2円→2円→5円)などに注目しながら年代順に整理していったというのは、まったく気の遠くなるような作業です。しかし、その地道な努力のおかげで、きわめて稀有な感動をもたらしてくれる本が生まれました。お互いのユーモラスな身辺雑記もありますが、目を引くのは文学に対するそれぞれの思いを述べ合いながら、自らの進むべき道を手探りしていく姿です。信頼、敬愛に支えられた励ましと批評が行き交っています。

「丁度いま『狂詩』読み了へたところ。第一部の素晴しさには圧倒された。第二部は(僕には)詩が稀薄なやうに思はれます。が、僕はこの作品を前にして、何といふよろこびを感じたことか」「文体の確立されてゆく君の緊張は、僕には何かたのしい。特に君が平生言葉にするリフレインのやうなフレーズを、ところどころで見出すとき、甘美なやさしい抱擁感を、それらに感じだす。いつくしみに似た親近感とでも云ひませうか」(1950年10月7日)。初期の秀作を次々と発表する北さんの活躍を見守りつつ、辻さんが細やかに配慮のある指摘を加えています。

「とにかく、辻のものは、僕のなんかに比べて、ずっと根元的なもので、日本文学により必要なもの、あるいはそれをやりとげる能力を暗示するものがあることはたしかだ。僕のものではやはり『幽霊』だけだという気が今する。ただ、僕は非力なりに、十年、小説をすこしずつずっとかいてきて、それによってよりダメになったりダラクしたりしている点もあるけれど、他の部分で少しずつうまくなってきて、職人的な器用さはところどころあるように思う。辻は小説が少いから、部分々々にこれから直してゆくべきぎこちなさがまだあるかも知れない。こんなことをかくのは不遜なんだけど、しいて云えばそう云えると思う。それから、僕は辻とちがってうまく意図をいえないのだが、少し普通の小説には、あるだらしなさ、あるいはムダが必要で、会話なんかでも、意味のない会話の挿入によって他の部分がより生きてきたり、へんなコツみたいなものがあるらしい。辻にむかっていうのはシャカにセッポウだけど、結局、辻が(小説の場合は)硬軟とりまぜ、愚作を沢山つくるつもりで、沢山かくことはいいことだと思う。ちょうど多産の時期に当っているらしいから、なるたけ沢山つくって下さい」(1960年10月14日)と、なかなか実作に向かおうとしない辻さんを「その気にさせよう」と北さんが背中を押します。一方で辻さんは、文壇的成功とともに多忙となり、精神的な疲れを訴えるようになった友に対して、「宗吉は今のように『詩』の失われている時代の『詩人』です」と心をこめた「北杜夫論」を何回かにわたって書いて励まします。

 ふたりが文学的壮年期を迎えたところで行われた対談集『若き日と文学と』(1970年)と違って、青春まっただ中で交わされたきわめて私的な言葉の世界に本当に入っていけるだろうか、と少し恐れを感じていたのもいつしか忘れて、読んでよかったという素直な思いが湧いてくる本でした。こういう交友があり得たという事実を知っただけでもよかったと感じます。

 いまは文明の力によって、いろいろなことが簡便化されていますが、この時代はパリと東京の間、本が船便で届くまでにゆうにひと月を要していました。けれども、その間に送った側も待つ側もいろいろなことを考えています。期待と不安を膨らませながら、相手との「対話」を重ねます。瞬く間にスピーディに処理されない、この過程にこそ何か貴重なものがあったのではないか。ゆるやかな時間の流れこそが価値なのではないか、と、二人の思索の深まりの中に思います。現代はあまりに目的的で、あまりに性急に結論を求めすぎているのであって、もっとスローでもいいのではないか、と。

「パリにいると、いかにも人間らしい『時間』のテンポのなかで暮すことができる」「人間らしい仕事をするには、この時間を忘れたような、静かなパリは実にいい」(1959年10月19日)、「宗吉も知ってのように、このパリという町は、万事、ゆっくりしている。この町は静かに止どまることを知っている町だ。ヴァレリが20年も沈黙して何も書かなかったということも、プルーストのような男があのようなおどろくべき小説を書きつづけえたということも、この静けさ――活動の中にある空白感――の中にいてはじめて理解できる」(1960年1月31日)というふうに繰り返される、辻さんの言葉は示唆的です。北さんに小説への着手を促されてなお、「今しばらくは、無名で、のんきに、自分の好きなことをしていた方がいいという気になった」「とも角あと数年修業時代につづく遍歴時代を下さい。それから、相携えて、いい仕事が続けられると思うから」(1959年6月22日)と応じます。

 魂の成長においては、じっくりと時間をかけて熟成させるほかない何かがあるはず。認識の歩みのためには、立ち止まり、悩み、模索する時間をこそ手放してはいけない――そんなことまで考えさせられる本でした。

 全体の中では脇役なのですが、辻佐保子さんが夫に続けて綴っている文章も印象的でした。とりわけ、精神的に落ち込んでいる北さんを夫妻で激励している様子はそうでした。一足先に夫が帰国し、自分はしばらくパリに残るという時、「さて、辻先生が帰りましたら、またもとのように仲よくしてあげてくださるよう、お願い致します」(1961年1月16日)は、この往復書簡集の終盤に現れる言葉です。辻さんが99年夏に亡くなっているだけに、胸に迫ります。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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