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 失われた日記を求めて

 一昨日の新聞でご覧になった方も多いかと思いますが、作家の故・福永武彦さん(1918~79)が戦後の45~47年にかけて記した3冊の日記が、60年以上の時を隔てて初公開されました。福永武彦といっても、いまの若い人にはなじみのうすい存在になっているかもしれませんが、新潮文庫にはいまなお代表作『草の花』『忘却の河』『愛の試み』の3作が入っていますし、長男で作家の池澤夏樹さんの活躍ぶりは「考える人」の読者には改めて説明するまでもないかと思います。

 さて、その日記の一部は7日発売の「新潮」10月号に掲載されました。一読して、衝撃を受ける内容でした。日記が書かれたのは福永さんが本格的なデビューをする前の時期にあたりますが、敗戦から間もない45年9月1日、疎開していた北海道・帯広に妻(澄子・詩人の原條あき子。後に離婚)と生まれたばかりの池澤さんを残して、単身東京へ向うところから書き起こされます。
 
「明日、僕は遂に此所を立つて東京に嚮ふ。八月の上旬から僕の心の中で熟れてゐたものは、今こそ一つの決意として晶化された。もう切符は二十八日に買ひ、チツキは昨日発送された。今はもう後を振返るべきものはない。……僕は自由を覓めて行く。大都会に敗戦の現実を探りに。……何時の日に僕たちはまた一緒に家を持つことが出来るだらうか。日は近さうでもあれば遠さうでもある。僕たちは遠く離れても、苦しみを理解し合ひ、愛情を通はせるだらう。僕はこの二、三日の忙しい中につとめて夏樹を抱いた。その胸にもたれる重さを記憶し、無心の微笑を脳裏に刻み込むために。この微笑は、苦しい日の僕の最もよい慰めとなることだらう。夏樹よ、元気に育て」
 
 帯広から東京までは、いまの時代では想像もつかないような過酷な旅になります。座席予約もなければ、当然、車内冷房もありません。駅弁も車内販売もありません。戦後の混乱の中で生きることに必死の人たちをぎゅう詰めにした列車の旅が1日以上続きます。暑いさ中、時には駅のホームに寝泊りしながらの難儀な道中が強いられます。それでも、訪れた信州では、新しい詩作をめざすグループ「マチネ・ポエティク」同人の加藤周一、中村真一郎氏らと雑誌創刊の夢を語り合い、「何といふ元気が中村との会話から生れてくることか。雑誌の計画。さあ愈々出発だ。新しい運動を始めよう」と意欲を漲らせます。一方、焦土と化した東京の荒廃を目の当たりにすると、食べる物にも事欠く自分の「前途は茫洋として暗い」と不安を書きとめないではいられません。

 職探しの「放浪」の旅は実を結ばぬまま、日記は2冊目に移ります。46年1月3日、「新しい年が明けた。これは希望と光明との年でなければならない。僕と澄子と夏樹と、この3つの運命が少しでも好い方向に、明るい運命に、動いて行くことを望む」と記されます。しかし、実生活の困窮はさらに容赦なく彼を襲います。妻子を東京に呼びよせ、創作によって生活していきたいという望みを打ちのめすような出来事が続きます。

 3冊目の日記は47年6月18日から書き起こされます。この日、結核の診断を受け、帯広のサナトリウム(療養所)に入所するのです。帯広に戻って不本意ながらも中学校の嘱託教員の職を得、親子三人の生活が始まったばかりでした。「部屋は二人部屋に一人。夜、寝られず」。

 治癒の見通しも立たず、死の不安におびえる夫。過酷な運命の前に将来を悲観し、詮ないことと知りつつ病床の夫を責めたて、自殺をほのめかす手紙すら送ってしまう妻。絶望的な状況に対する苦悩と悲痛な心情の吐露が続きます。10月、福永は東京・清瀬の療養所に移ります。妻は2歳3ヶ月の子供を帯広の親元に預けて、夫とともに上京。なんとか自分の生活を立てながら看病に励みますが、やがて心身ともに疲れ果てます。「あと半年たてば退院できる。あと半年だけ頑張ろう、と力を尽くしては現実に裏切られる、それが数回繰り返された後、本当に疲れ果てた」――母から一度だけそう聞かされたと池澤さんは明かします(「福永日記のこと」新潮10月号)。

「歴史的アイロニーというものがある。そもそもアイロニーとは、当事者が知らないことを部外者が知っている場合にその部外者が抱く屈折した感慨の謂いである。演劇のアイロニーでは、例えば物陰に刺客が潜んでいることを観客は知っているのに主人公は知らない。歴史の場合は時間差が舞台と観客席の隔たりの代わりになる。真珠湾の日に日本国民は八月十五日を知らなかったが、後世の我々はそれを知って真珠湾攻撃の意味を考えることができる。……同じようにして、文学という分野で身を立てようとしていた武彦が目前の生活苦や病気などの困難と不安を傍らにおいて書き続けたものが、最終的に多くの読者を得たことを今ぼくたちは知っている。しかし、それがこの日記の時期から遙か先であったことも知っている。本当に苦しい時期はまだこの先なのだ。それはやはり痛ましいことだとぼくは思う」(同)
 
 日本全体が敗戦による混乱のただ中にあった時期に、先行きの知れない病気と目前の生活苦を抱え込んだ若き文学者夫婦には、この苦難の先に本当に光明があるのか、いや苦難に終わりがあるのかどうかさえ、知る術はありませんでした。福永が清瀬を去るのは、実に入所してから5年半後です。その間に、妻は離婚を提案し、夫はそれを受け入れます。帯広に残されていた池澤さんが、実の父親と再会するのは16歳になってからだといいます。

 小さなノートに細かな文字でびっしりと書き込まれた、日記の現物を見せてもらいました。面白いと思ったのは、池澤さんの見慣れた字によく似ているように思えたことです。活字で読んだ日記が想像力をかき立てたのに対し、目の前の小さなノート自体にはあまりリアリティが感じられず、いかにも福永さんらしい物語の一部であるように見えました。

 実は、池澤さんの手元にはもう1冊、別の日記のコピーがあるといいます。それは1951年12月10日から1953年3月3日までのものです。そこにはしかも、「一九四九年一月から七月迄の日記」の存在することが明記されているそうです。「僕の書いたもののうちこれが一番いいものであるかもしれない」という言葉も出てきて、「少なくともこの時期の武彦自身は自分の日記文学の価値を高く評価していた」ことがうかがわれるようです。ただし、その日記はいまだに発見されていません。福永さんの死後、不幸なことに散逸を免れなかったあまたの福永文書とともに、どこかに死蔵されていると考えられるのです。

 今回公開された日記は、3名の福永研究者が古書市場などから入手したもので、篤実な彼らの協力によって、詳細な註がほどこされ、こうして世に出すことが可能になりました。そこで池澤さんは呼びかけています。「もしも『一九四九年日記』の消息をご存じの方がいらしたら、『新潮』編集部までご一報いただけないだろうか」と。これらの日記は福永武彦、原條あき子という二人の文学者の「人生と文学」を理解する上で貴重な資料です。

 失われた日記の探索は、まだまだ続きます。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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