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松本健一『三島由紀夫と司馬遼太郎』(新潮社)

作家が死ぬと時代が変わる

 この11月25日で三島由紀夫が亡くなって、ちょうど40年になります。当時、私は高校2年生でしたが、1970年のあの日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で三島由紀夫が割腹自殺を遂げたと聞いた時のことは、いまだに鮮烈な記憶として残っています。全共闘運動が終息した後の「凪」のような時代空間に、突然突きつけられた鋭い日本人への問いかけでした。

 アメリカ人なら誰しも1963年11月22日――ケネディ大統領がテキサス州ダラスで凶弾に倒れた日のことを鮮明に覚えているというように、われわれの中にはそれぞれの記憶に刻まれた「三島事件」があります。「あの日、自分はどこで何をしていたか」――それを語ることがその時代を生きたひとつの証となるような、深い衝撃を日本人全体に与えた出来事でした。

 没後40年。おそらくこの秋には改めて「三島」を問い直す関連図書がいくつか刊行されると思われますが、まずは3冊――村上建夫『君たちには分からない 「楯の曾」で見た三島由紀夫』、宮下規久朗・井上隆史『三島由紀夫の愛した美術』と本書(いずれも新潮社刊)を読んでみました。そして、そのなかで特に本書を取り上げたいと思ったのは、ずっとながい間「のどに刺さった小骨」のように気になっていた疑問に、著者が真正面から挑み、鮮やかな見取り図を示してくれたからです。その意味では待望の書の出現でした。

 実は、2006年に出版された『作家が死ぬと時代が変わる――戦後日本と雑誌ジャーナリズム』(粕谷一希・日本経済新聞社)という回想録の聞き手を務めた時も、三島事件は当然ながらひとつの焦点でした。また事件の翌朝『毎日新聞』に掲載された司馬遼太郎の「異常な三島事件に接して――文学論的なその死」と題されたエッセイは、司馬遼太郎の転機をなすものとして注目しました。原稿枚数にして約9枚。朝刊1面の大半を占め、新聞としては異例の長さでした。それにもまして、書き出しが激烈でした。いま読んでも、いや、いま読むとなおさら一層の迫力を感じるほどです。
 
〈三島氏のさんたんたる死に接し、それがあまりになまなましいために、じつをいうと、こういう文章を書く気がおこらない。ただ、この死に接して精神異常者が異常を発し、かれの死の薄よごれた模倣をするのではないかということをおそれ、ただそれだけの理由のために書く〉
 
 この文章を当時のジャーナリズムはどう受け止めたのか、たくさん書かれた三島事件の論評の中でこの一文はどういう位置を占めたのか――。元『中央公論』編集長だった粕谷さんに是非確かめたい点でした。氏は歴史小説作家であった司馬にこの原稿を依頼した毎日新聞記者の慧眼を高く評価し、「この文章が、司馬さんのその後を決めたと思っている」と述べ、これによって「司馬遼太郎は警世家となり、文士から国士に変身していった」、「『坂の上の雲』などで獲得した文士としての歴史解釈を超えて、現実の日本の問題に対する指導的な言論を述べるリーダーへの転機となった一文である」と語りました。そして、三島と同世代で個人的交友もあった嶋中鵬二中央公論社社長が、事件から少したった頃に、「作家が死ぬと時代が変わるんだよ」と語った言葉を、そのまま表題に掲げることにしました。ただ残念ながら、その時にはなぜ司馬があれほど「異様な熱気」をはらむ文章を書いたのか、その背景を考察し、両者の対立構図を深化させるまでの議論には至りませんでした。

 本書はまさにその点を衝き、「三島由紀夫と司馬遼太郎」という二つの「戦後」が1970年11月25日にどのように激突し、そこで何が問われたのかを戦後日本の精神史の中に探ろうとした試みです。当時、司馬が47歳、三島は45歳でしたが、実年齢の差は1年5ヶ月しかありません。しかしながら、戦争体験の違いが両者の戦後の生き方を大きく隔て、戦争観やあるべき日本の理想像を対照的なかたちに決定づけていきます。著者は、二人の資質の違いや、折々の発言、文学的変遷の軌跡、さらには「思想というもの」に対する身の置き方の違い等々を丹念に辿りながら、戦後日本の評価をめぐって両者が対極に位置せざるを得なかった構図を鮮やかに読み解いていきます。

 そこには興味深いさまざまな知見が示されています。たとえば、司馬の『街道をゆく』全43巻をすべて読んだ筆者は、25年にわたって書き継がれたこのシリーズにおいては「天皇の物語」がほとんど無視されていることに気づきます。そして、この連載の第1回「湖西のみち」の書かれたのが三島自決直後であったという事実を発見するとともに、「近江」紀行であるにもかかわらず、そこには大化改新を行い、近江大津京をつくった天智天皇の記述が一切ないことに着目します。さらには、三島の死をはさんで5年間(68-72年)新聞連載された『坂の上の雲』には、日露戦争中に四度にわたって開かれ、天皇自らが「親臨」した御前会議の場面が一度も描かれていない、という重大な事実を指摘します。
 
〈司馬にとって日露戦争は、正岡子規や東郷平八郎の副官だった秋山真之、それに沖縄の漁師など国民一人びとりが歴史の歯車を回わした「国民の戦争」であった。それを「天皇の戦争」にしないため、乃木伝説はもちろん、天皇の発言という事実にもふれなかったのである。
『坂の上の雲』は、「国民の戦争」を描こうとした、司馬遼太郎の仮構にほかならない〉
 
 このように三島事件の衝撃は、「天皇の戦争」ではなく「国民の戦争」を描こうとしていた司馬の意思と真っ向からぶつかり、そしてその後の司馬の針路に大きな影響を及ぼします。

 三島自決の1ヶ月後に行なわれた鶴見俊輔との対談「日本人の狂と死」も興味深いものです。ここで司馬は、終戦の直前、米軍の本土上陸の際には東京に向かって進軍して迎え撃て、と命じた大本営参謀に、途中、東京からの避難民とぶつかった場合の対応を尋ねます。すると、「その人は初めて聞いたというようなぎょっとした顔で考え込んで、すぐ言いました。……『ひき殺していけ』と」。司馬は「これがわたしが思想というもの、狂気というものを尊敬しなくなった原点です」と語ります。筆者は、この逸話はおそらく司馬の創作ではないか、と見なすのですが、「それは三島事件の衝撃のなかで作成されたものなのではないか」と推論します。すなわち、三島が彼自身の「美しい天皇」像に殉ずべく、狂気を発して自決するのを見た司馬は、「戦後的なるものの擁護者たるべく、大本営参謀の『ひき殺していけ』という発言を作り出したのではないか。司馬じしんが戦後神話をつくった」のではないかと読み解くのです。三島とはいかに宿命的に対立せざるを得なかったかという構図がこうして浮き彫りにされていきます。

 司馬はやがて86年から『文藝春秋』誌上に「この国のかたち」の連載を始めます。「三島さんの刺激的でラジカルな国家論に対して、普通の世間の人々の耳目を集める形で、国家というものをソフトに静かに説く。ある意味では社会の混乱を安定化、鎮静化させる役割を担って」(粕谷一希・前掲書)いくのですが、時評的発言においては次第に、日本の行く末に対する危機感を表明するようになります。そして絶筆となった「風塵抄――日本に明日をつくるために」では、バブル経済に狂奔する日本を憂い、このままでは「亡ぶか、単に水ぶくれになってしまう。さらには、人の心を荒廃させてしまう」と痛憤の思いを隠しません。この記事が新聞に掲載された96年2月12日、司馬は腹部大動脈瘤の破裂で死去します。

 後に、作家の塩野七生さんが『朝日新聞』のインタビュー記事(「塩野七生の世界」96年6月24日夕刊)の中で、「司馬先生は、高度成長期の日本を体現した作家です。代表作の表題どおり、『坂の上の雲』を眺めながらまい進してきた日本人の思いを表現した。……バブルだって、遠くから見れば、青空に白く美しく浮かんだ、坂の上の雲だった。先生の死は象徴的でもある。実に悲壮な死に方をされましたよね。日本のことを心配されて。やはり一つの時代が、明確に終わったんだと思う」と追悼しています。

 作家が死ぬと時代が変わる、とすれば、司馬の死後、時代の気分はどのように変化し、また彼の後を受けて誰がどのような言葉を発し始めたのか、それを考えさせてくれる意味でも示唆的な力作です。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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