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 「再版」の効用

「夢焼け」という言葉を先週、初めて知りました(讀賣新聞「編集手帳」2010年10月29日)。吉野弘さんの詩にあるというのですが、辞書にもないこの言葉をどうやって詩人が思いついたか、といえば、「あるとき、どこかの文選工が活字を拾い違え/私の詩の表題『夕焼け』を『夢焼け』と誤植したから」なのだそうです。編集手帳子によると、「二つの字形は似ていないが、『夢』は部首『夕』に属する文字で、印刷所の活字収納箱に隣り合って置かれていたことから生じたミスらしい」というのですが、「夢焼け」という語感、ちょっと粋な誤植と言えるかもしれません。

 それで、ふと思い出したことがあります。26年前の出来事です。その頃、作家とともに日本各地を旅する雑誌連載を担当していたのですが、ある時、水上勉さんと石川県をめぐるシリーズ企画をやり、そのうちの1回で「暁烏敏と凉風学舎 石川県松任市」という文章を書いていただきました。暁烏敏(あけがらすはや)というのは、明治から昭和にかけて仏教の改革運動に奔走し、多くの信奉者を生んだ真宗大谷派の僧侶・宗教家で、石和鷹氏の『地獄は一定すみかぞかし 小説暁烏敏』という作品(1997年、新潮社)などが後に書かれています。その暁烏ゆかりの地である松任市を、水上さんとともに探訪するということで、現地では彼の晩年を支えた秘書役の女性やお孫さんにも取材しました。

 ところが雑誌の見本ができ、社内配布されたところで、騒動が持ち上がりました。水上さんの文章とは別に、カラーグラビア3頁がつくという記事構成だったのですが、その写真キャプションの「暁烏」が「焼鳥」になっていると、ある人が発見したのです。慌てて、印刷所から校了紙を引き上げ、調べました。すると、最終段階で「暁烏」の2文字の修正を指示していたところが、なぜか、誤って「焼鳥」と直されていたのです。どうしてそんなことが起きたのか、にわかには理解できないことでした。すると、ちょうどその直前のページ(まったく別企画なのですが)の写真キャプションに、たまたま「焼鳥」の2文字の訂正が入っていたことが判明しました。そこで、関係者一同思い当たったのです。おそらく校了紙を見て最終的な文字校正をしていた印刷所の担当者が、「焼鳥」の2文字の修正を終えた直後に「暁烏」の文字指定を見て、ついそこに「焼鳥」と打ち込んだのではなかろうか、と。つまり、これも「隣り合って置かれていたことから生じたミスらしい」と。

 経緯はともかく、結果的には大誤植に違いありません。大慌てで水上さん、取材したご遺族にお詫びの連絡をしました。水上さんは「そうか、暁烏が焼鳥になったか」と電話口で笑ってくださいましたが、松任市方面には面目ないばかりです。次号に訂正記事を出すことで諒解をいただきましたが、痛恨の号はそのまま出回ってしまいました。

 さて偶然なのですが、ちょうど先週は、友人から「極めつけの誤植を募集いたします」というメールが届いたところでした。近く「気にするな、誤植は仕事の向こう傷」というコラムを書く予定なので「ユーモア溢れる、または心胆寒からしめる事例」を教えてほしい、という依頼でした。彼が例として挙げてきたのは、(1)かつて岩波書店の奥付で、発行人を「岩波雑二郎」にした(正しくは雄二郎)、(2)同じく岩波書店で、ギリシャ悲劇の「アンティゴネー」を「アンコティゴネー」にした、(3)筑摩書房では、カバー背の社名が「筑房摩書」になっていた、(4)きわめつけは「汝、姦淫するなかれ」を「汝、姦淫せよ」とした聖書、などでした。ちなみに(4)について補足しますと、これは1631年、英国でのお話です。出エジプト記の「モーセの十戒」の第七条の否定詞notが抜け落ちたために生れた史上最大の誤植で、The Wicked Bible つまり『姦淫聖書(邪悪聖書)』とされて、いまや超お宝になっているそうです(世界に11部残っているという説があります)。

 いずれも「向こう傷」どころか「致命傷」的な誤植かと思われますが、ともかくこの類の話は無数にあります。グーテンベルク聖書にして多数の誤植があるそうですから、印刷の歴史は、すなわち誤植の歴史でもあります。「死屍累々」と言ってもいいでしょう。日本の印刷所がとくに神経を使うのは言うまでもなく皇室関係の記事ですが、戦前は「天皇陛下」を「天皇階下」と誤植したために出版停止処分を受けた出版社もあったそうですし、最近では「大正天皇」を「大正洗脳」として発売中止になった雑誌、「皇太子」の「太」が「大」になっていることに気づいて刷り直した(そのため発売延期になった)女性週刊誌の例などが記憶に新しいところです。私たちが日頃お世話になっている印刷所では、校正紙に紫色の「皇室関係原稿」というラベルが貼られて、ややものものしく、関係者の注意を喚起する仕組みになっています。

 それほどではなくとも、他の記事の場合も編集者、校閲者、印刷所は目を皿のようにしてチェックに努めます。それでも不可抗力というか、防ぎきれないのが誤植というものです。Wikipediaの「誤植」によりますと、「殴られて重体の老人死ぬ」が「殴られて重体の老人死ね」で出てしまった新聞見出しのようなブラックな事例や、訳者名の「川本三郎=翻訳」が「川本三郎=誤訳」となっていた“ご愛嬌もの”(ご当人にはお気の毒ですが)まで硬軟とりまぜの“傑作集”が挙がっています。

 ちなみに、私の名前は「通和(みちかず)」なのですが、「通知」あるいは「道和」と間違えられることがしばしばあります。高校時代、名簿で名前を読み上げる際に「つうち」と3年間思い違いしたうえに音読みで言い続けた教師もいましたし、某有名雑誌の編集長経験者で(とても親しい仲なのに)、ずっと私宛ての郵便物やメールを、すべて「道和」で押し通してくる人もいます。評論家の四方田犬彦さんは本来「丈彦」というペンネームだったのですが、ある時「犬彦」と誤植されて、そちらに合わせることにしたそうです。こういう“英断”のきっかけを作ったケースもあるわけです。以前、エッセイで読みましたが、作家の倉本聰さんは「聰」が「聡」となって届く郵便物は、そのまま開封しないで捨てることにしていたそうですが、あるとき、「聡」どころか「恥」とあるのを見て、さすがに言葉を失ったといいます。

 さて、『時刻表2万キロ』はじめ、数々の鉄道紀行の名作をものした宮脇俊三さんですが、私にとっては以前に勤めていた中央公論社の尊敬する大先輩でもあって、とても懐かしい方です。その宮脇さんは、1951年に結婚なさった奥様と、65年に離婚されました。そして、66年9月、会社の同僚女性を新たな伴侶に迎えられます。このあたりの事情は、もちろん私も直接には知りません。ただ、この2度目の結婚披露宴の話は、少しご本人から聞いたことがあります。

 その前年は、2月に宮脇さんが陣頭指揮をとった『日本の歴史』(全26巻)シリーズの刊行が始まり、第1巻の井上光貞「神話から歴史へ」がいきなり100万部に到達しました。『世界の歴史』(60年)、「中公新書」(62年)に続く大型企画が立て続けに大成功となり、宮脇さんは破竹の勢いでした。出版社ではこうしてヒット作が出て、再版、三版と版を重ねていくことが何よりの慶事です。そして版を重ねる度に、初版などで防ぎきれなかった誤植の類も修正されますので、何度も版を重ねた本は信頼性が高まり、尊重されます(初版本を珍重するコレクターの価値基準は別ですが)。

 さて、その宮脇さんの2度目の結婚披露宴でのことですが、以下は宮脇さんご自身が結婚式の記念写真に付けた文章(『旅』2000年9月号「宮脇俊三の世界」)をお読みいただければと思います。
 
〈1966年9月結婚。2人とも再婚。仲人の嶋中鵬二中央公論社長のスピーチは「再版は誤植がなくなってよろしい」であった〉
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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