Kangaeruhito HTML Mail Magazine 416
 

レイ・ブラッドベリ『華氏451度』(早川書房)

“生きる力”の糧

 いま江戸川橋の印刷博物館で「世界のブックデザイン2009-10」という展覧会が開かれています。毎年3月にドイツのライプツィヒで開催されている「世界で最も美しい本コンクール」の入選図書をはじめ、日本、ドイツ、オランダ、スイス、フランス、中国、オーストラリアの各国で開かれているブック・デザイン・コンクールで選出された「最も美しい」書籍約240点が集められた企画展です。実際に本を手に取り、文字を読み、ページを繰りながら感触を確かめられる楽しい催しで、今年で9回目を迎えています。

 今回も、いろいろな個性の面白い書物と出会うことができました。その中で、思わず足を止めた一冊に、これがありました。ペーパーバック版166ページの本を240%に拡大して判型42×26cmとし、さらにそれをシルクスクリーンで生まれ変わらせたという「複製本」でした。スイスからの出品作で、原本となったのが、レイ・ブラッドベリの1953年のSF長編小説『華氏451度』でした。よく知られているように、タイトルの「華氏451度」とは紙が自然発火する温度のことで、摂氏に換算すれば233度くらいになります。この物語が描く近未来の世界では、一切の本が、人類によからぬ影響を与えるという理由で、読むことも所有することも禁じられています。そして物語の主人公は「焚書官」という職業に従事する男で、彼は本を見つけると片っ端から燃やしてしまうという任務を帯びています。任務は情け容赦なく、素早く、徹底的に遂行されます。

 そういう焚書をテーマにしたシンボリックな作品を、敢えてこの時期を選び、入念な手作業でリメイクすることにした版元、さらにはそれを「最も美しい本」として選出した審査員たちの思惑は何でしょう。おそらく、さまざまな電子書籍端末が登場し、「電子書籍元年」と言われるほどに書物を取り巻く大きな環境変化が起きているいまだからこそ、少し遊びの精神をまじえながら、われわれにとって書物の持つ意味を捉え直してみようと試みたのだと思います。ちなみに値段は300ユーロ(約34000円)、限定40部となっていました。

 それで久々にブラッドベリの名作『華氏451度』を手にしました。この作品との出会いは、実は映画「華氏451」のほうが先でした。日本で映画が公開された1967年は、前年に『ミクロの決死圏』というSF傑作映画が封切られていて、フランソワ・トリュフォー監督のこの作品も楽しみにしていました。ところが、いま覚えているのはひどくガッカリしたという印象だけで、映像もほとんど浮かんできません。ですから、70年代の半ばにハヤカワ文庫で読もうとしたのは、その失望感の裏返しでした。そして、今度は裏切られることはありませんでした。ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた近未来世界にも通じる、全体主義的な管理社会のアレゴリーが、非常にリアルな形で迫ってきました。執筆当時、アメリカを吹き荒れていたマッカーシズム、“赤狩り”の嵐に反発したブラッドベリが、言論を弾圧し統制する権力の危険性を、SFの手法によって告発した小説というふうに理解しました。

 ところが今回読んでみると、この作品はより「書物の本質論」をめぐる「書物の書物」であることに気がつきました。大きなテーマなのでとても書き尽くせませんが、「本」とは何か、「本を読む」とは何か、本を「読む」「読まない」によって人はどう変わるのか――等々を、愚直なまでに考察したメタ書物論だと知りました。

 主人公は、ある時、奇妙な少女と出会います。彼女は言います。「こんな話を聞いたんだけど、ほんとうかしら? ずっとむかし、火事をあつかうお役人の仕事は、火をつけるのじゃなくて、消すことだったんですってね」と。つまり、家屋がまだ完全な耐火建築になる以前は、主人公の属する役所の使命は、火をかきたて本を焼き尽くすのではなく、火を防ぐことだったのではないか、と彼女は囁いたのです。これを耳にとめたところから、主人公の何かが変わり始めます。やがて密告者の通報によって駆けつけた現場で、本を屋根裏に隠し持っていた老女と出会います。そして、この場を離れるくらいなら、本と一緒に焼かれたほうがいい、という老女の姿に衝撃を受けます。彼女は書物の山にひざまずく“殉教者”そのものでした。

 というわけで、最初の少女は「焚書官」という仕事の来歴を主人公に“知識”として授けることによって、彼に“考える”ことを教えます。「なぜ」という疑問を発すること、自分の生を“生きる”ことに目覚めさせます。そして老女は、本の価値が「永遠」の相に触れるものであることを身をもって示し、たとえ異端の罪に問われ、生きながら業火に焼かれようとも、それは間違った方向に進んだ世界に「聖なるろうそくをともすことになる」と訴えます。つまり彼女たちは生きた「本」であり、「本」というイデアの化身だと言うことができます。主人公は、こうして次第に好奇心と誘惑に駆られてついに本を盗み読み、書物とは世界の本質や核心に迫るための“気孔”のようなものだと理解します。物語は男が本を焼き払う側から、本を守る側へと身を転じ、やがて権力に歯向かい、最後は書物の知的遺産を継承するグループに加担していくという展開になります。

 そこで重要な役割を担うのは、権力の追跡を受けることになった主人公を迎え入れる人たちです。見かけは浮浪者に過ぎないけれども、実はひとりひとりが古典的名著を何か暗記しているという「異界」の集団です。自分はプラトンだ、という老人の隣には、スウィフトが、ダーウィンが、アインシュタインが、ガンジーが並んでいます。彼らはすぐれた書物を頭の中に収め、自分たちの知識がやがて必要とされる時まで潜伏を続けるつもりだと語ります。「頭のなかは、それぞれ図書館だ」という彼らは書物を身体化した存在です。まるで口伝を業とした古代の語り部のような彼らは、社会の周縁に点在しながら、ゆるやかなシンジケートを形成して暮らしています。

 ふと思い出すのは、米原万里さんの『オリガ・モリソヴナの反語法』(集英社)の中のエピソードです。本もラジオも手紙もないラーゲリ(強制収容所)に閉じ込められた女囚たちが、過酷な重労働、不潔不衛生、貧弱な食事に耐えつつも、毎晩楽しみにしていたのは、それぞれが記憶にあった本を思い起こし、声に出して補い合いながら、「かつて読んだ小説やエッセイや詩を次々に『読破』」することで、ついには『戦争と平和』や『白鯨』のような大長編までを「ほとんど字句通りに再現」してしまうという話です。「夜毎の朗読会は、ただでさえ少ない睡眠時間を大幅に侵食したはずなのに、不思議なことが起こった。女たちに肌の艶や目の輝きが戻ってきた」というのです。

 いま私たちはオーウェルやブラッドベリが描いたようなディストピアに生きているわけではありません。ましてやラーゲリは過去の遺物であるというのが一般的な認識かもしれません。自分たちは自由を謳歌し、これほど繁栄を享受しているではないか、というわけです。しかし、優れた文学作品の恐ろしいところは、そういう私たちにも突き刺さるさまざまな寓意をそこに描きこんでいる点です。本が禁じられた代わりに、耳にぴったり装着できる「海の貝」と呼ばれる超小型ラジオを支給され、そこへ四六時中流されてくるお仕着せの情報の海にどっぷり浸っている人々。部屋には壁一面に大型テレビスクリーンが取り付けられ、絶え間なく提供されるヴァーチャルな世界に没入していれば、面白おかしく幸福に暮せる社会。まるでテーマパークのように仕組まれた、至れり尽くせりの楽しい毎日。しかしこれは見方を変えれば、「間違えた方向に進んだまま後戻りできなくなった奇形生物。進化のベクトルが消滅して、歴史の薄明の中にあてもなく立ちすくんでいる孤児的生物。時の溺れ谷」(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』)の世界に違いありません。そしてそれは、実は私たちの社会の足元にもすでに広がっている深淵なのかもしれません。

 本が与えてくれる“生きる力”にどこまでわれわれが自覚的であり得るか。書物の復権をめざしたブラッベリの物語は、その意味できわめて正統的であり、またすぐれて現代的でもあります。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
Copyright 2010 SHINCHOSHA (C) All Rights Reserved