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黒岩比佐子『パンとペン』(講談社)

古書を古読せず、雑書を雑読せず

 最近、もっとも感銘を受けた1冊です。早く紹介しなければ、と思っていた矢先に、まさか追悼の一文を書くことになろうとは……。

 著者・黒岩比佐子さんは11月17日、膵臓がんのため亡くなりました。52歳。『「食道楽」の人 村井弦斎』(岩波書店、2004年サントリー学芸賞受賞)、『編集者 国木田独歩の時代』(角川選書、2008年角川財団学芸賞受賞)をはじめ、約10年の間に書かれた著作は10冊。すべてに共通していたのは、誠実で丁寧な仕事ぶり、執筆対象への真摯なまなざしと愛情、綿密な取材、丹念な資料の蒐集と考察、生き生きとした細部の描写、作品全体から漂ってくる温かさ、たくまざるユーモアなどでした。そしてこれらの特質を支えていたのは、自分のやりたいことをきちんとやり遂げようという、ある種の頑固さ、ひたむきさ、文筆家としての覚悟でした。時流には乗らず、人の真似や二番煎じはしないで、「誰もやりそうにないことや、儲からないのに労力はかかりそうなことを、できるだけやっていきたい」というのが、彼女の選んだスタイルでした。それを文字通り、労を惜しまず、実に楽しげにやってのけました。

 遺作となったこの本は、「日本社会主義運動の父」と呼ばれる堺利彦の半生と、大逆事件に始まる社会主義の「冬の時代」を、堺がどのようにして乗り切りながら、寄る辺なき同志を守り、運動再興の「時機の到来」に備えていたかという、従来ほとんどスポットの当らなかった歴史の裏面を鮮やかに蘇らせた傑作ノンフィクションです。今年は大逆事件からちょうど100年(韓国併合からも100年)ということで、事件をめぐるいろいろな著作物が刊行されていますが、幸徳秋水や大杉栄らに比べて、堺利彦というのは名のみ高くて印象の希薄な存在です。日露戦争開戦の前年、無二の親友である幸徳秋水とともに平民社を創設し、「平民新聞」を発行して戦時下で反戦の論陣を張ったことは有名ですが、彼が大逆事件のさ中に「売文社」という人を食ったような名前の会社を興し、8年3ヶ月もの間、そこを拠点としながら多彩な面々をここに結集し、時代を先取りする卓抜な発想で「文筆代理業」を幅広く手がけていたことはほとんど知られていません。また人情家で面倒見が良く、ユーモアに溢れた堺の人間的魅力についても同様でした。あちこちに散逸していた文章や、各種の証言、具体的なエピソードを綿密に積み上げた、この著者ならではの“発掘作業”によって初めて浮き彫りにされたといっても過言ではありません。

 堺利彦という人物は実に多彩な顔を持っていました。社会主義者で投獄された第一号、愛妻家で女性解放運動に取り組んだフェミニスト、エミール・ゾラからジャック・ロンドンまで海外文学の優れた紹介者にして翻訳の名手、言文一致体の推進者、もともとは小説家志望という文章の達人、そして2度の暗殺未遂事件に遭遇し、関東大震災では大杉栄とともに陸軍に命を狙われた男。また、生涯に5回も投獄されながら「楽天囚人」と自称し、ヨタ話と皮肉が交錯する機関紙「へちまの花」を編集し、『猫の首つり』などの風変わりなタイトルの本を書いて「日本一のユーモリスト」と命名された男。いつも温顔と剽軽味を絶やすことなく、同志や後輩の信頼が厚かった人徳者。

 著者はそういう人間堺利彦の本領がもっとも「遺憾なく発揮された」時期として、売文社時代の彼に注目します。「大正デモクラシー」という言葉が象徴する明るい大正期のイメージとは裏腹に、1910年から1919年にかけては、社会主義者に対する尾行、監視、検閲、言論弾圧は過酷をきわめました。この「冬の時代」が、ほぼ売文社の8年3ヶ月の活動期間と重なります。堺は、自分の生活のためには「必ずしも売文社を必要としなかった」(荒畑寒村)にもかかわらず、「血気盛んな青年たちの暴発を抑えつつ、仕事を与えて生活の面倒をみよう」としてこの会社を創設します。そして、これを「ささやかな砦」としながら、まさに討ち入り前の大石内蔵助のように、“猫をかぶって”時機の到来をひたすら待ちました。こうした役割を、いったい堺以外の誰が果たせただろうか、と著者は指摘します。

 大逆事件は、明治が大正に変わる2年前の1910年に起きました。幸徳秋水ら12人を絞首刑とし、社会主義者を一網打尽にしようとしたこの事件は、いまでは「このなかの多くの者は無実か、不敬罪ですむべきところ」であり、「捏造された証拠や証言によって死刑に処せられた」という事実が明らかにされています。事件当時、獄中にいたために連座を免れた堺は、死刑執行後の同志たちの遺体を引き取り、荼毘に伏し、遺品を分配し、犠牲者の後始末の一切を引き受けます。やがて1ヶ月余をかけて遺家族を慰問する旅に出た堺は、東京から京都、岡山、熊本、福岡、高知、兵庫、大阪、和歌山、三重と回り、各地で十四の家族を訪ねたといいます。「行春の若葉の底に生残る」――高知で幸徳秋水の墓に詣でた時に、堺が読んだ句だと言われています。

 一方で、「犠牲者たちの志を無駄にしないことを胸に誓った」堺は、亡くなった同志を弔いつつ、新しい花を咲かせる準備を進めます。その大きな器が売文社でした。幸いにも自らは難を逃れた堺は、大逆事件を契機に自分のやるべきことを定め、その後決してぶれることはありませんでした。しかも、それを誠実に、どんな時もユーモアを忘れず、「命がけの道楽」と称しながらやり遂げました。

 売文社とは、そもそも名前自体がふざけていますが、シンボルマークは「食パンに万年筆が突き刺さった」絵柄です。慶應はペンマーク、開成学園はペンと剣ですが、こちらはパンとペンで、「ペンを以てパンを求むる」というわけです。いまの編集プロダクションや翻訳会社の先駆けのような業務内容で、各種の原稿製作、外国語の和訳、和文の外国語訳、演説・講義などの草案作成、文章と名のつくもの一切の「立案、代作、及び添削」といった具合に、実に多岐にわたる仕事を引き受けます。これらを大杉栄(語学の天才でした)や高畠素之(日本初の『資本論』の完訳者)や山川均、荒畑寒村という個性派揃いが請け負ったというのですから、それ自体がユーモラスです。世界各国の旅行案内記『世界通』は、「そろいもそろって国外一歩も踏み出したことのない者ばかりでこさえた」(山川均)といいますが、政府からパスポートを下付されない彼らですから致し方ありません。しかし仕事ぶりは評価されて次第に事業は発展し、「安田記念」に名を残す「日本競馬の父」の著書を受注した際には、「天覧」に供するために白羽二重特別装幀の本を2部こしらえることになったそうです。「本を受け取った宮内省では、それが大逆事件の残党の社会主義者らの手で作られたものだとは、夢にも思わなかっただろう」とあります。

 いまの箇所もそうですが、さりげない記述の背景には、膨大な資料の森に分け入り、それを丁寧に読み解きながら歩んでいく著者の姿が想像されます。黒岩さんのブログ「古書の森日記」をまとめた『古書の森 逍遙』(工作舎)の中には、面白いエピソードが紹介されています。この7、8年は毎週のように古書展に通って「マニアが見向きもしない雑書・雑本のたぐい」を「いとおしくてたまらず、つい拾い上げてレジ」まで運んでいたという黒岩さんですが、ある日、驚くべきことが待ち受けていました。
 
〈「がらくた市」で、我が目を疑うようなものを見つけたのだ。地下出版されて、ほとんど出回っていないはずの本である。2100円で買うことができた。ちなみに、帰宅して「日本の古本屋」で検索すると2冊ヒットして、値段はそれぞれ8万9000円と5万5000円。しかも、私が買った本には署名と日付があって、その名前を検索すると、夭折した作家だということまでわかった。……ついていた値段から考えて、古書店の方も気づかなかったのだろうが、外側にまったく別の著者の本の表紙を被せて、カモフラージュしてあったのだ。奥付を見たときに、おかしいと気づいて、目次を見てアッと息を飲んだ次第。信じられないことに、ちょうど今月、私はその本が出てくる原稿を書いていたのである! もし、1カ月前の古書展だったとしたら、この本を偶然手に取っても、何も気づかずに買わないで帰っていたことだろう〉
 
 これがクロポトキン著、幸徳秋水訳『麺麭の略取』の偽装本であったといういきさつは、本書の279ページに出てきます。こういう逸話を読んでいると、売文社時代の堺が、決して単価の高くない小さな仕事でも、一切手を抜かないで取り組んでいたという話と、資料に格闘する黒岩さんの姿がダブってきます。堺の人柄に、著者が愛情を注ぐわけが理解できるような気がします。売文社が堺なくして成立しなかったとすれば、人間堺利彦と売文社の全体像を「いま」に生き返らせるという難事業も、この著者なくしては不可能であったと思います。

「古書を古読せず、雑書を雑読せず」(金原明善)――黒岩さんは、ある時この言葉に出会い、「我が意を得た」と思ったそうです。まさにそういう地道な努力、小さな“発見”を積み重ねながら、忘れられた人物や埋もれた史実に新たな生命を吹き込み、それらを現在に蘇らせてくれたのだと思います。黒岩さんに感謝し、心よりご冥福をお祈りいたします。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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