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曽根英二『限界集落――吾の村なれば』
(日本経済新聞出版社)

「心の過疎」という現実

 12月28日発売の「考える人」最新号の特集は「紀行文学を読もう」です。そこで旅に思いをめぐらせて、いま自分自身が一番行きたいところはどこだろうか、と考えてみました。すると、真っ先に浮かんできたのがこの本でした。もちろん観光が目的というわけではありません。理由は後述しますが、ちょっと居ても立ってもいられないような気分に駆られて、未読のままだったこの本を手に取りました。

 著者は、香川県・豊島(てしま)の産業廃棄物不法投棄問題で1997年に菊池寛賞を受賞した岡山・山陽放送の元報道部記者。いわゆる「限界集落」の状況を「わが事」として感じとるために、3年間で計190日間、現地に足を運んだというこの作品で、本年度の毎日出版文化賞を受けました。その直前には、NHKスペシャル「無縁社会」が第58回菊池寛賞を受賞していますので、この秋は、現代社会の断面を丁寧な取材で描いたルポルタージュ作品が、続けて大きな賞を受けることになりました。かたや人が流出して次第に疲弊していく地方の集落の実態を追い、かたや人間関係が希薄化し、地縁、血縁、あるいは企業社会での人と人との絆が失われていく日本人の孤独な姿を描いていますが、そこに共通するキーワードは「心の過疎」なのではないか、と考えさせられました。

 最初に「限界集落」という言葉を知ったのは、2004年10月に起きた新潟県中越地震の時です。村に通じるすべての道路が土砂崩れなどの被害で寸断され、孤立化した村の住民が避難することになった山古志村の映像とともに、この言葉を初めて耳にしました。学術用語か行政用語か、その時はよく分かりませんでしたが、単刀直入の、いずれにせよ凄い言葉だとショックを受けました。住民の2人に1人が65歳以上の高齢者で、集落の機能が著しく低下し、もはや限界状態にある集落。このままではいずれ近いうちに消滅していく運命にある集落、とのことでした。

 社会学者の大野晃さん(現・長野大学教授)が最初に「限界集落」という概念を生み出したのは、1980年代末のことだそうです。日本全体がバブル経済に狂奔していた頃です。「過疎」という言葉が高度成長期の日本に現れ、地方の山村や離島から若者が次々に都会へ労働力として流出し、各地で急激な人口減少が起きていることを、私たちは社会問題としてよく聞いていました。しかしそれは、国の経済発展のためにはある程度やむを得ないというふうに、どこか突き放して見るような、また言葉自体に麻痺して不感症になっているようなところがありました。ところが、私たちが慣れっこになっている間に、現実はさらに深刻化していました。過疎をはるかに通り越して、もうあとがないところまで追いつめられた「崖っぷちの村」がいくつも生まれているのだと聞いて、さすがに衝撃を受けました。

 そういう集落がいま全国で7878ヵ所(2007年、国土交通省)存在しています。中国地方が一番多く、中でも岡山県が全国で最悪の「限界集落顕在県(447ヵ所)」で、次が広島県だといいます。岡山県は、私が17歳まで過ごした場所ですが、自分が知っているのはのどかで恵まれた瀬戸内沿岸のイメージが中心です。一年で雨の日が全国最少のことから「晴れの国」を謳い文句にしている同じ県内の、北部の山間地域のことはほとんど意識に上りませんでした。ここに描かれた中国山地の山里、岡山と鳥取とを結ぶJR伯備線のそのあたりは、かつて蒸気機関車の撮影名所としてSLファンが全国から押し寄せた阿哲峡の近くだという知識がわずかにあるくらい。「居ても立ってもいられない」という気分になったのは、そういう個人的な死角を衝かれた思いがあったからです。

「中山間(ちゅうさんかん)地域」という専門用語があります。都市でも平地でもない農業地域の総称ですが、日本は国土の69%がこれに当たり、限界集落の問題は、離島とともにここに集中しています。こうした地域の疲弊の現状を、1960年代から2000年代までの時間軸に沿って解説した作野広和准教授(島根大学教育学部)のチャートが紹介されています。

「人の空洞化」→「土地の空洞化」→「ムラの空洞化」→「ムラの消滅」

 これを前から順に言い換えれば、「過疎化」→「耕作放棄(減反)」→「社会的空白地域化(集落機能の極小化)」→「人口空白地域(廃村)」となります。これに対応してどういう政治行政が行なわれたかというと、それぞれに対症療法が打たれてきたものの、「傷口を押さえるだけで抜本的な改革にはならない」対策ばかりでした。そして、事態はもはや待ったなしで「ムラの消滅」を直視せざるを得ないところまできていると指摘します。さらに続けて作野氏は、「もちろん、(村の消滅の危機は)産業構造とか地域構造の変化とか、それが引き金です。しかし問題は何か? 過疎地域や中山間地域の本質的な問題は何かというと、『心の過疎』ではないかと。つまり、その地域に住むことの誇りを失っていることが大きい。中山間地域に行くと、おじいさんがワシの地域は何もないと自信を持っておっしゃる。都会の人が行って『すごいですね』と言っても、地域の人は『だめなんだ』とおっしゃる。だったら自己否定していることになる」

 地方行政の問題点とともに、自助自立に必要な住民の心のあり方が大切だ、というわけでしょう。一方で都会に住む人たちからは逆の極端な意見を私も聞いたことがあります。「過疎地域が過疎化することは時の流れだし、むしろいいことだ。無理して限界集落を維持しようとするよりは、人を大都市に集めたほうが経済は効率的にまわる」と。つまり、「都会は○」で「田舎は×」という価値観が、都市住民にも地方の人たちにもふかく浸透していて、それが日本社会の惰性となっている限りは、事態が根本的に変わることはないと思われます。

 ただその一方で、この密着取材のルポルタージュを読みながら感じたのは、ほのかな希望の手がかりでもありました。最初に登場するのは、昨年で80歳と76歳を迎えた老夫婦です。身を寄せ合うようにして二人で山里に暮らすご夫婦は、昨年を最後に、ついに米作りを断念しました。「吾(わ)のこともできませんのに、なにが田んぼなど作れましょうか」――「もったいなくても、作りたくても田んぼを荒らすしかない」と先延ばしにしていた決断をしなければならない日が訪れました。これが限界集落のいまを端的に表わす証言です。けれども、このご主人は1968年に第11回農民文学賞を受けた作家でもあります。10年ほど前から目が不自由になり、光すら感じなくなったという境遇にありますが、彼は取材者を前に村の生き証人として、その来歴や人々の営み、そして山里の自然や季節の微妙な移ろいを語彙豊かに、時にユーモラスに語って聞かせます。寄り添う奥さんとのやりとりもなごやかで、彼らの人としての尊厳と矜持を強く感じさせます。「木枯らしにおびえて寒し過疎の村」――国の減反政策が始まった翌年の1971年に即興で詠んだ句だそうですが、この人が全盲になってなお、「お宮に登れるのもひょっとすると今日限り、今年限りかもしれない」と思いながら、たった3軒だけの氏子による秋祭りを執り行なっている姿には、崇高さすら感じます。

 また「卒業の無き百姓の吾(わ)が好き 節高の手 勲章と見る」と歌う別の集落の農家の主婦は、「農業一筋で、一生懸命働いてきたけえな、もう農業いうものが身についとるけえな、これで土の底へ入るけえな。うれしい」と語ります。そして、こんな生き生きとした女性の近所には、都会からの新規就農の人たちが、それまでの安定した生活に終止符を打ってまで加わってきています。その昔、行政とも当時のJAとも敵対しながら、勇気をふるってピオーネというぶどうの品種を入れた先駆者たちの努力によって、限界集落への転落を食い止めたばかりか、いまや「ピオーネ日本一」をめざす一大産地に変身しつつある、この集落の元気な様子が報告されます。他の村では、蔓牛(つるうし)という「和牛復活」に人生を賭ける畜産農家の話も登場します。

 学校の閉校。郵政民営化によるサービス停止。病院・救急医療・介護、防災の不安。買い物や交通の不便な事情。集落を成立させるためのあらゆる機能が負のスパイラルに陥ってしまった山里の現実を立て直すのは容易なことではありません。学校の閉校式をもって定年退職する校長先生の述懐は胸に迫ります。「学校がなくなった村がね、これからどんどん寂れていくだろうと思います。人が住まなくなる。少なくとも子どもたちを持つ若い夫婦はね、町に住むようになる。……いまおる若者はおるにしても、その次の世代がいるという保証はありません。特に農業が生活の糧にならない状況ですから。……必然的に限界集落になってくるでしょうね。限界集落どころか、村がなくなっていく」

 象徴的に言えば、限界集落とは「子どもの笑い声や、赤ん坊の泣き声が聞こえない村」です。その厳しい現実を前に、誇りを失わず「等身大の意志で動き、自立すること」によって苦境を乗り越えていけるのかどうか。なしくずし的な村の消滅の危機は、孤独な「無縁死」が年間3万2000人にのぼるという事実と決して無関係ではないと思えてなりません。
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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