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後藤正治『清冽 詩人茨木のり子の肖像』
(中央公論新社)

寂寥だけが道づれ

 手元の古い手帳を調べてみると、2005年の8月でした。東海道線の熱海と小田原の間にある根府川(ねぶかわ)という小さな駅で、列車の到着を待っていました。真夏の昼下がりで他に人気もない無人駅でしたが、古い駅舎には趣があり、誘われるように待合室を覗いてみました。すると、そこに詩の一節を抜き書きした額が掛かっているのを見つけました。 

「根府川/東海道の小駅/赤いカンナの咲いている駅/たっぷり栄養のある/大きな花の向うに/いつもまっさおな海がひろがっていた……」

 茨木のり子さんの初期の代表作「根府川の海」でした。敗戦の翌日、学徒動員先の工場から、実家のある愛知県まで帰る途中、ここで見つめた光景を、その8年後に書いたという作品です。この日も、同じようにカンナの花がたくさん咲いていて、ホームに立つと目の前に相模湾の海と空が大きく開けていました。「いつだれが書いて掛けたのか、わからない」そうですが、きっと茨木さんの良き読者のひとりが飾った額なのだろうと、以前ご自宅をお訪ねした日のことを思い起こしたりました。彼女の訃報に接したのは、その半年後のことでした。

 1999年10月、詩人が73歳のときに刊行した八番目の詩集『倚(よ)りかからず』は、誰も予期しなかったような事件になりました。詩集は売れないと相場が決まっているのですが、発売ひと月後、担当編集者の机の上には、全国津々浦々、老若男女を問わず、10代から80代まで幅広い世代からの読者カードが積み重なったといいます。初版は5000部。詩集としてはかなりの刷り部数でしたが、瞬く間に版を重ねていきます。朝日新聞の「天声人語」が取り上げたこともインパクトがありました。「ここ数日、一冊の本を前に、ぼうぜんとしている。ただ、圧倒されているのだ。茨木のり子さんが七年ぶりに出した詩集『倚りかからず』(筑摩書房)である」(1999年10月16日)。増刷の連絡をする度に聞いた茨木さんの困惑したような声が、いまも担当者の記憶の隅には残っているそうです。「もうおよしになって。詩集なんてそんなに売れるものじゃないんですから……」
 
〈もはや/できあいの思想には倚りかかりたくない/もはや/できあいの宗教には倚りかかりたくない/もはや/できあいの学問には倚りかかりたくない/もはや/いかなる権威にも倚りかかりたくはない/ながく生きて/心底学んだのはそれぐらい/じぶんの耳目/じぶんの二本足のみで立っていて/なに不都合のことやある/倚りかかるとすれば/それは/椅子の背もたれだけ〉(「倚りかからず」)
 
 ついには十数万部というベストセラーになったこの詩集によって、後藤正治さんも茨木さんの読者になったと言います。さらに6年後、彼女の死去を機に、改めてこの詩集をひもとき、また他の詩集やエッセイを手にしたことから「本当の読者」としての付き合いが始まります。本書は、こうして出会った茨木のり子さんの詩や散文をたどりながら、彼女が自らの感性と向き合い、自分を律しながら、詩句を紡いでいく軌跡に寄り添おうとした文学評伝です。「清冽」とは、まさに彼女の生き方そのものです。筆者は、表現者としての彼女の潔さ、凜とした姿勢、一貫して自己と厳しく向き合い、なにものにもとらわれることなく、手ごたえのある表現を追い求めた生涯を、温かく描き出しています。

 戦中派の感性を体現した代表作「わたしが一番きれいだったとき」や、昭和天皇の記者会見に触発された「四海波静」、「木の実」、「鄙ぶりの唄」といった戦争体験の刻印された作品、自分の生きる戦後空間との関わりを意識した「あるとしの六月に」、「りゅうりぇんれんの物語」、肉親に素材を求めた「花の名」、「母の家」、「答」、母方のふるさと、また夫のルーツでもある山形県・庄内地方への思いを歌った「寒雀」、自己省察をテーマにした「魂」など彼女の本質をなすダイアローグ的な作品、そして48歳にして夫を喪い、50代に入ってから書かれた代表作「自分の感受性くらい」や、寡婦としての静かな日常を描いた「波の音」、「ふたたびは」、「さくら」などの諸作、そして生前における最後の詩集となった『倚りかからず』、活字にされたものでは最後の詩と思われる「行方不明の時間」、死後に刊行された最愛の夫との日々を描いた詩集『歳月』――等々、多岐にわたる彼女の作品に広く目を配りながら、それらを貫く茨木のり子という詩人の人格、姿勢、運命を、本書は鮮やかに浮かび上がらせています。

 また日記や散文の中の貴重な言葉に加えて、日常生活で彼女と交流のあった人々や詩人仲間などの証言も織り交ぜながら、彼女の輪郭をできるだけ均衡の取れた形で紹介しようと努めています。50歳近くなって始めた朝鮮語を、それまでの人生では考えられないほど「一心不乱」に学び、ついには韓国現代詩を62編訳出した『韓国現代詩選』を刊行するまでのプロセスも、語学教師の印象などを通して興味深く描かれています。

 こうして彼女の作品と足跡をたどる作業の中から、筆者はひとつのキーワードとして「寂寥感」という語に着目します。誰からも好かれ、家族の情愛にも恵まれた彼女が寂しいというわけではありません。ユーモアを好み、自分自身を笑う精神も彼女の持ち味でした。ただ、52歳を迎えた茨木さんは書いています。「戦後あれほど論議されながら一向に腑に落ちなかった〈自由〉の意味が、やっと今、からだで解るようになった。なんということはない『寂寥だけが道づれ』の日々が自由ということだった。この自由をなんとか使いこなしてゆきたい」と。

 またあるラジオ番組の中で、「私自身は人を励ますとか、そんなおこがましい気持で詩を書いたことは一度もありません。自分を強い人間と思ったことも一度もない。むしろ弱い、駄目な奴っていう思いがいつもありましてね……それで自分を刺激したり鼓舞する意味で詩を書いてきたところがある」とも語っています。「個」としてあり続けるための孤独。「個人の感性こそ生きる軸になるものだ」という確信。そして意志の力で「自身を律し、慎み、志を持続して」詩作に向き合おうとした姿勢。それこそが、「茨木のり子の全詩と生涯の主題」であり、彼女のメッセージでもある、と筆者は述べます。“盟友”石垣りんさんへの弔辞の中で「あなたの抱えていた深い寂寥感」と共感を吐露しているように、独りであること、「ただ己の感受性が信じうる手触りのなかで生きること」をつねに基点とした人だったと言えるでしょう。

 2006年2月19日、電話連絡に応答のないことを不審に思って訪ねた甥が、東伏見の自宅で倒れている彼女を発見。すでに死後2日が経過していました。死因はくも膜下出血および脳動脈瘤の破裂でした。夫亡き後、一人暮らしを31年近く続けてきた茨木さんは、万一に備え、遺書でも、口頭でも死後の処理の方針を明確に伝えていました。遺体はすぐ荼毘に付すこと、通夜や葬儀や偲ぶ会などは無用、詩碑その他も一切断るように。そして死後、しばらくしてから親しい人に送ってほしいと「別れの手紙」も用意されていました。日付と死因が空白で、添える写真を組み込む位置まで指定された原稿は、あくまで身ぎれいに死を迎えようとした彼女らしい最期を象徴しています。

 さらにその死から4ヵ月後、書斎の整理をしていると、整理棚の奥の片隅から茶色のクラフトボックスが発見されます。「Y」と小さく書かれてありました。Yとは夫・三浦安信さんの頭文字。夫と過ごした時間を追想した作品の存在を数人は耳にしていたそうですが、中にはその原稿が収められていました。死後の刊行を版元に希望していたところから、1周忌にあたる2007年2月に、その詩集『歳月』は出版されました。「出版されたら私のイメージは随分と変わるだろうけれども、それは別にいいの。どう読んでもらってもいい。ただ、これについてはどなたの批判も受けたくないのでね」という言葉も残されています。

 1958年に建てられた、いま見ても斬新なデザインの自宅は、甥夫婦の手によって大切に維持されています。『茨木のり子の家』(平凡社)は、主が暮らしていた歳月の余韻と、彼女の愛した静謐な空間を、あるがままに感じさせてくれる一冊です。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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