Kangaeruhito HTML Mail Magazine 434
 
 よだが来た!

 3月11日、午後2時46分。東北から関東まで広い地域を襲った巨大地震は、国内観測史上最大規模のM9.0でした。発生後6日経った現在も、被害の全容や犠牲者の数は捕捉できそうもありません。それどころか、「戦後65年経過した中で最も厳しい危機」(菅総理大臣)と言えるほどの国家的大打撃であることが日を追うごとに明らかになってきています。それほどまでに凄まじい自然の猛威でした。

 地震勃発時、私は来客を送り出した後、会社の本館4階にある部屋で人と立ち話をしていました。そこにいつにない激しい揺れが来て、部屋のドアを開けると、廊下に置かれた3台のコピー機がフロアを横滑りしていました。部屋の中では、デスクやキャビネットに積み上げていた本や資料の類が次々となぎ倒されて、すべて床に散乱しました。「関東大震災級の地震にも耐えられる」という、堅固さにおいては定評のある防災ビルですので、周りの人たちも比較的落ち着いていました。ただ、余震というには強烈な揺れがいつまでも波状的に続き、これがさらに大きな地震の予兆なのかどうか、予測のつかないところが不気味でした。

 ニュース速報で状況を把握し、ともかく家族や同僚の安否の確認が急がれました。それから、仕事相手とのアポのキャンセル、各方面への連絡、そして部屋の片付けが一段落した後は、どうやって帰宅するかが難題でした。徒歩帰宅をいち早く決行した人、車で迎えに来た家族と一緒に帰った人、会社に泊ることにした人、さまざまでした。私は終電ギリギリまで待って、運転を再開した公共交通機関を乗り継ぎながら、できる限り家の近くまでたどり着き、あとは歩いて帰宅しました。先日、東京マラソンで走った第一京浜を、まさかこんな夜中にテクテク歩くことになろうとは予想もしませんでした。

 一夜明けて見たテレビ映像はさらに衝撃的でした。「言葉を失う」は文章を扱う人間のご法度ですが、津波が襲いかかるさまを見た瞬間は、まさにそうとしか言いようがありませんでした。海から押し寄せるおびただしい水の塊が防潮堤を越え、車や家屋を押し流し、川を遡って集落を呑み、次々と家屋を圧壊していきます。この寄せ方も容赦ないものでしたが、やがて沖に向かって引き始めた水の速さにも驚きました。

 そして、朝を迎えた被災地の変わり果てた姿が映し出されると、思わず避難所で不安な一夜を過ごした人々のことが偲ばれ、「言葉がない」という、これまた芸のない文句しか浮かんできませんでした。それから、久々に取り出したのが、吉村昭さんの『三陸海岸大津波』(原題『海の壁』、中公文庫)でした。

 三陸海岸に対して愛着をもつ筆者が、1896(明治29)年6月15日、1933(昭和8)年3月3日、1960(昭和35)年5月21日に来た津波の凄まじさを、生き証人の話や当時の子どもたちの作文などをまじえながら描いた歴史小説です。出てくる地名や生々しい描写が、先ほど見たばかりの映像に重なってきます。
 
〈「津波か?」という言葉が、「津波だ!」という言葉として近隣にひろがっていった。
 たちまち村内は、騒然となった。家々からとび出した人々は、闇の中を裏山にむかって走り出した。人の体に押されて倒れる者、だれかれとなく大人にしがみつく子供たち、土の上を這う病人、腰の力が失われて坐りこむ者など、せまい路上は人の体でひしめき合った。
 その頃、黒々とそそり立った津波の第一波は、水しぶきを吹き散らしながら海上を疾風のようなすさまじい速度で迫っていた。
 湾口の岩に激突した津波は、一層たけり狂ったように海岸へ突進してきた。逃げる途中でふりむいた或る男は、海上に黒々とした連なる峰のようなものが、飛沫をあげて迫るのを見たという。
 津波は、岸に近づくにつれて高々とせり上り、部落におそいかかった。岸にもやわれていた船の群がせり上ると、走るように部落に突っこんでゆく。家の屋根が夜空に舞い上り、家は将棋倒しに倒壊してゆく〉
 
 津波は高波と違って、海全体が時速20~30キロの速さで押し寄せてくるのですから、まさに「海の壁」が「のっこ、のっこと」やって来るような恐ろしさです。テレビ映像は少し高いところから撮影されたものなので、見え方はどうしても客観的です。そんな話をある映画関係者にしたところ、逆に「海の壁」をCG合成で正確に作って見せたとしても、観客はかえって嘘くさいと感じるかもしれない、と言われました。誰も経験していないことだけに、「まさかそんな……」と思われるだろうというのです。津波の高さの測定はきわめて困難なようですが、過去の大惨事では10~20メートルくらいのレベルだったとされます。水面が「モクモクと盛り上って」3~5階建てくらいの高さで迫ってくるわけです。取るものも取りあえず、早く高いところへ避難する以外に、逃れる術はありません。

 津波の直前には、その前兆と見られる奇妙な現象が起こったというのが、過去の事例ではほぼ共通しています。前例を見ないような大漁や「夜になると青白い怪しげな火が沖合に出現した」という謎の発光現象、井戸水の減・渇水、潮流の変化などです。今回がどうだったのかは分かりませんが、来襲時に「ドーン、ドーン」という「遠雷或は大砲の砲撃音のような音響」はあったのでしょうか。

 かつて三陸地方では津波のことを「よだ」と呼んでいたそうです。巨大な水の塊が一大轟音とともに寄せてきた恐ろしさは、「よだが来た!」という表現によくにじみ出ている気がします。そして吉村さんは結びの章を次のように書き出します。
 
〈津波は、自然現象である。ということは、今後も果てしなく反復されることを意味している。
 海底地震の頻発する場所を沖にひかえ、しかも南米大陸の地震津波の余波を受ける位置にある三陸沿岸は、リアス式海岸という津波を受けるのに最も適した地形をしていて、本質的に津波の最大災害地としての条件を十分すぎるほど備えているといっていい。津波は、今後も三陸沿岸を襲い、その都度災害をあたえるにちがいない〉
 
 医師の診断のように冷静な分析です。しかし、そうした土地柄であるにもかかわらず、住民はまたそこで生活を始めます。「風光も美しく、祖先の築いた土地」は、「たとえどのような理由があろうとも、はなれることなどできようはずもなかった」とあります。そして人々は、災害防止のための努力を重ねます。ギネス級の高い防潮堤の建設、避難道路の整備、避難所・警報器の設置、避難訓練の実施……。しかし残念なことに、こうした営為には一切お構いなしに、想定規模をはるかに超えた、想像を絶する津波が襲ってきました。

 おそらく今後は、国を挙げて最大限の努力をしたとしても、これだけの深い傷痕を復旧するのは容易なことではないでしょう。被害は三陸地方のみならず、福島県の長い海岸線にも及び、さらには国民生活全体を巻き込んで拡大しつつあります。

 日本列島の右半身が大きな損傷を受けたような痛みです。原子力発電所の問題を含めて、未曾有の国難に直面したと言っても過言ではないでしょう。これを克服するには国民全員が痛みを分かち合いながら、戦後復興にも匹敵する規模の国家再建プロジェクトを進めるしかないでしょう。

 しかしながら、阪神淡路大震災を経験した精神科医の中井久夫さんがおっしゃっています。「過去に津波があり、集落が丸ごと壊滅した例もある。それでも人間が住んできた。まだ先は見えないが、集団として、社会として、立ち直ることは間違いない」 (朝日新聞3月15日)

 この震災によって多くの方の尊い命が失われました。深い哀悼の意を捧げ、ご冥福をお祈りするとともに、被災された皆様に心よりお見舞い申し上げます。願わくば、一日も早く復興に向けた足がかりが得られますように。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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