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和田芳恵『筑摩書房の三十年 1940―1970』
(筑摩書房)
永江朗『筑摩書房 それからの四十年 1970-2010』
(筑摩書房)

70歳の履歴書

 1940年に創業された筑摩書房は、昨年6月18日で70周年を迎えました。先月半ばにそのお祝いの会が開かれ、その際の引き出物としてこの2冊が配られました。それが今月半ばに筑摩選書として発売され、一般読者も読むことができるようになりました。社史がリレー形式で書き継がれるというのは珍しくありませんが(新潮社もそうです)、筑摩書房の場合は、1978年に会社更生法の適用申請をして倒産する、という大きな分岐点がありましたので、2冊の性格はかなり異なるものになっています。

 まず作家の和田芳恵さんの手になる『筑摩書房の三十年』は、創業30周年にあたる1970年に非売品として配布され、長らく社史の名著として語り継がれてきたものです。古田晁と臼井吉見という松本中学校以来の同級生二人が、「出版をやろう」という青雲の志を抱いたところから始まり、お互いに手を携えて、小さな会社を守り育てていく道のりが活写されています。古田から「出版社らしい屋号」を考えろと言われて、臼井は郷里である南信一帯の呼称にちなんで「筑摩書房」と名づけます。

 とはいえ、屋号を決め看板は掲げたにせよ、出版のことは何も知らないズブの素人が、志と情熱だけを頼りにいきなり起業するわけです。ましてや1940年といえば、日本が太平洋戦争に突入する前夜です。すでに統制経済が敷かれて用紙事情は悪化し、紙の割当てという名目で思想の統制も始まっていました。そんな時期に出版業に手を出すこと自体、無謀だと言われても仕方ありません。

 それでも何とか乗り出していけたのは、古田のおおらかな人間的魅力、臼井の企画力、それに古田の実家の財力という後ろ盾があったからです。会社設立の挨拶状を出した半年後に、大した準備もなしに、いきなり『中野重治随筆抄』、宇野浩二『文藝三昧』、中村光夫『フロオベルとモウパッサン』の3冊を刊行するのですから、ただ事ではありません。これで「なんとなく、筑摩書房の方向が決まる」と見定めた、ラインナップの絶妙さは見事という他ありません。

 原価計算も知らず、どのようにして本を作ればいいか見当もつかず、定価は本屋に並んでいる新刊書を見て適当につけたという危なっかしさ。一方で、装幀は青山二郎に頼むなど、「少しでも金をかけたほうが効果があがるという場合は、決して出し惜しみをしない」という古田の方針。怖いもの知らずの無手勝流は、業界のお歴々を驚かせます。「金に糸目をつけず、売れようが売れまいがお構いなしに、一級品を出版する」会社の出現は、「出版界の驚異の的になった」とあります。

「出版社の財産は出版目録である」とはしばしば言われるところですが、戦中戦後の苦難の時期に、和辻哲郎、唐木順三、中島敦、太宰治、上林暁、永井荷風、柳田國男、田辺元、林達夫、吉川幸次郎、椎名麟三、宮本百合子といった錚々たる顔ぶれの単行本を手がけ、社の「背骨」になる企画をということで『ポオル・ヴァレリイ全集』に挑み、戦後はいち早く臼井吉見編集長のもとで総合雑誌『展望』を刊行するなど、「いい本」を出すことに果敢にチャレンジしていく会社のバイタリティは、和田芳恵さんの筆によって、実に生き生きと描かれています。「出版屋というものは、こんなに毎晩呑まないといけないものですか」と尋ねる妻に、「おれも、はじめる前は知らなかったが、そういうもんだ」と答える古田の様子など、人柄を彷彿とさせて愉快です。

 私が古田晁という名前を初めて知ったのは、中村光夫さんが「東京新聞」夕刊に連載していた「憂しと見し世」(後に筑摩書房刊)を、学生時代に楽しみに読んでいたからです(1974年3月6日~6月15日)。古田晁はその前年の10月30日に亡くなっていますので、中村さんがこの文学回想記の筆を執ったきっかけは、『フロオベルとモウパッサン』以来、親しく付き合ってきた古田の死にあったと思われます。「あれが古田なのかな」と、火葬場の煙突から晴れた秋の夕空にのぼっていく煙を、ぼんやり見ている場面が冒頭にくるからです。

 初対面のとき、古田というこの社長はどうも「自分の作品を読んでいないらしい」と察しますが、「ともかく筑摩書房から本を出されたことを、後悔なさるような仕事は絶対しませんから」と言い、「筑摩書房というこの世にまだ存在しない本屋の名を、ひどく愛着と自信をこめて発音するのが、記憶に残りました」とあります。

 こせこせしたところが少しもなく、「あの古田君は、見どころがある」(落合太郎)、「古田は人相がいいから信用ができる」(辰野隆)と初対面で相手を惚れ込ませる人柄。『筑摩書房の三十年』の執筆を依頼された和田さんの反応にも、それが窺えます。「古田晁という人は、意あって言葉がたりないようだが、言葉がたりないためにかえって意を通じる妙なところがある。私は、これはお引受するより仕方があるまいと即座に覚悟した」と。

 古田自身が「惚れたら最後、とことんまでやりぬく」という、その後の社風を体現する人物であったことは言うまでもありません。

 さて、『筑摩書房 それからの四十年』は、その会社が戦後の全盛期を経て、次第に苦境に追い込まれていく60年代から(少し時間を遡って)書き起こされています。それは筑摩書房を支えてきた文学全集・個人全集が次第に先細りになり、会社を維持するためには新たな方策を考えなければならない時期でした。1966年、古田の後を受けて2代目社長に竹之内静雄が就任します。そして彼の指揮の下で、経営の多角化・総合出版社化路線が模索され、さまざまな試みが行われます。しかし、決定打を見出せないばかりか、それが裏目となって、徐々に資金面で苦境に立たされることになります。竹之内社長は1972年に辞任し、古田が亡くなるのは翌年のことです。

 そこから倒産までは約5年ですが、このあたりの内情というのはよく分かります。危機は迫りつつあるというのに、組織的な惰性から脱し切れず、経営規模の見直しや経営体質の改善に本気で取り組もうとしなかったこと。製造業でありながら生産部門(編集)と営業部門との連携がなく、企画の吟味から最終的な販売・宣伝戦略まで、それぞれがバラバラに昔ながらのやり方を墨守して、市場の変化に対応できなかったこと。そこから負のスパイラルが始まり、社内的な停滞感、堕落、腐敗が生れてきます。大なり小なりこの国の古い出版社が克服しなければならなかった難題が、この会社に集中的に、あたかも縮図のように現れたと言えるでしょう。

 やがて資金繰りでいよいよ追い詰められ、目先のキャッシュフロー欲しさに、苦し紛れに行われたのが「紙型再販」という禁じ手でした。同じ紙型(印刷するときの元版)を流用して、あたかも新しい別の本であるかのように仕立てて読者に売りつけようとするやり口です。永江さんの糾弾は、そこを厳しく衝いています。
 
〈新世紀に入ると、食品偽装事件があちこちで発覚しましたが、紙型再販も似たようなものです。しかも、これは巧妙でした。古田時代に築いた筑摩書房のブランドと、それを背景にした有利な取引条件を悪用したのです。もっとも、読者は出版社よりも賢く、紙型再販にそっぽを向きました。そのため返品率は上昇し続け、とうとう会社更生法の適用申請となったのです。天罰覿面〉
 
 ここで指摘されているポイントはふたつあります。ひとつは「なぜ筑摩は倒産したのか?」という理由です。当時の論調の多くを見ると、筑摩は良心的出版を堅持しようと努めてきたが、世の中が低俗志向になったためにそれでは立ち行かなくなり、ついに倒産に追い込まれた、という見方が主流でした。しかし、これは的を射ていません。真相は上記のような紙型再販の作り過ぎや、商品の無理な送り込みによる返品増などで、一気に返品額が膨れ上がったためでした。つまり、明らかに経営の失敗であり、人災だということです。読者が活字離れを起こしたからでも、低俗になったからでもなく、環境に原因を求めるのは誤りだ、ということです。

 次に倒産は避けられていたかもしれない、ということです。会社更生法というのは、ふつう債務を圧縮するための法律であって、「最低でも三割カットぐらいが当時は常識」だったといいます。ところが、資産と負債のバランスを見ながらその圧縮幅を検討していくと、最終的に「更生計画はこの負債の債務カットを行わず、一〇〇%弁済する」という異例の結論に至ったというのです。これを言い換えれば、キャッシュフローが不足した上に、銀行や取次からの追加融資が受けられないのに慌てた経営陣が、「更生法申請に飛びこんだ」というのが真相です。つまり、「黒字倒産ではないが、限りなくそれに近い状態だった」わけで、必死で融資先を探せば倒産を免れていた可能性があるということです。

 しかし、本書のためにその過程をつぶさに調べた永江さんの結論は、「倒産して良かった」のひと言です。もちろん、そのために払った犠牲は大きく、多数の人が迷惑を被ったことを忘れるわけにはいきませんが、それでも「幸いにして倒産した。倒産したから一から出直すことができた」として、「倒産の真実を書くのはつらかったけれども、倒産をのりこえて再生していくプロセスを振り返るのは、じつに気持ちのいいものでした」と述べています。

 そこからの新しい物語は、「筑摩」から「ちくま」レーベルへの表記の変化が象徴するように、文庫・新書を柱にしたブランド戦略の転換が図られ、併せて全社的な体質改善が行われていくプロセスです。ここには知人が何人も登場してきて、彼らが倒産を機に必死で取り組んできたリストラクチャリング(本来の意味での「再構築」)の実態が詳しく描かれています。

 私がこの世界に入ったのは、筑摩書房倒産のまさにその年でした。友人たちは入社4ヶ月目にしてその事態に直面しました。それだけに、その夏のことや、それから以降の推移については比較的知っているほうかな、と思っていました。同時に、それを「鳥の目」から、あるいは「虫の目」から、大きな物語(社史)としてまとめ上げるのは至難の業であろうとも思っていました。

 永江さんは、それを見事にやってのけたと思います。そして、出版界の未来図を考える上でも、この本、いやこの2冊から学ぶべきことは少なくないと感じています。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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