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 1923年の先人たち

「考える人」2010年夏号(特集:村上春樹ロングインタビュー)が第1回雑誌大賞グランプリ(2010年下半期)を受賞しました。2004年に始まった「本屋大賞」が小説の単行本を対象に、書店員の投票によって「売り場からベストセラーをつくる!」賞としてすっかり定着していますが、その雑誌版という狙いで新設されたものです。当初は3月28日に記者発表と授賞式を行う予定でしたが、東日本大震災の影響で今回は取り止めとなり、この日、各メディアに向けてプレスリリースが配信されました。
100誌の編集長+100名の書店員が選ぶ!「この一冊は凄かった」
Best Magazine Award『雑誌大賞』
 とあり、「雑誌およびその周辺業界のブームアップ」をめざすと書かれています。

 編集長:書店員=2:1のウェイトで総得点を算出、得点は非公開など、本屋大賞とは少し選考基準や発表方法などに違いがありますが、出版業界を現場から盛り上げていこうという趣旨は共通しています。出版不況と言われる中で、とりわけ「雑誌に元気がない」というのが通り相場になっています。これを何とかしなければいけない、という気運から誕生した賞で、初のグランプリ獲得というのは、とても名誉な出来事です。

 受賞理由には「作家と編集者が2泊3日泊り込んで、徹底的に対話し、ほかのメディアでは引き出すことが出来ない様々な話までも紹介した迫力ある誌面が、編集長・書店員双方からの高い評価を集めグランプリを獲得。『編集者と作家のあるべき付き合い方をこの1冊から改めて考えさせられた』というような声も複数あり、文芸誌のパワーを存分に感じさせた1冊であった」とあります。

 一般的に「文芸誌」というと、純文学中心の文芸誌や、エンターテインメント系の小説雑誌がイメージされますが、ここではより広い意味でこの言葉が使われているようです。「考える人」は、2002年7月の創刊以来、特集に重きをおく季刊誌としてすでに35冊を刊行してきましたが、それらの特集はいずれも文芸的な関心が基本に据えられ、読者にじっくり読んでもらうという点を大切にしながら編集されてきました。今回の受賞を機に、この基本姿勢をさらに継承・発展させながら、雑誌に可能な挑戦を続けていきたいと思います。長時間の取材に応じてくださった村上春樹さんには改めて感謝申し上げます(新潮社「考える人」HPに2010年夏号「編集部の手帖」を再録しています)。

 さて、東日本大震災の発生から間もなく3週間が経過しようとしています。地震、津波、原子力発電所の破損事故という途轍もない大規模災害の三重苦に見舞われ、被害の全体状況がいまだに把握できないばかりか、日本に今後どれほどの苦難が待ち受けているか、想像もつかない状態が続いています。

 私たちの出版業界も大きな影響を受けました。まず用紙調達の面では、石巻、八戸などに置かれていた製紙会社の主力工場がいずれも壊滅的な被害を受けたことに加え、有明や木場など東京都内の海岸沿いにあった紙の流通センターが、地震や液状化によって機能障害をきたしました。その結果、各社で印刷用紙の手配に困難が生じ、発売延期や発売中止となる書籍・雑誌が何十点も発生しました。緊急対応で何とか急場は凌げたにせよ、今後についてはかなり長期にわたって用紙供給が滞る事態が懸念されます。さらには印刷インキの主要原材料調達も非常に厳しい状況に陥っています。

 また地震直後はガソリン不足によって、納品のための輸送手段の確保が難しくなり、配送に大きな遅れが生じました。ようやくガソリン事情は好転したものの、次に計画停電の実施により、大手印刷会社は操業時間の見直しを求められていますし、埼玉県を中心にした関東の東北方面に集中している出版関係の物流倉庫も、計画停電の影響をもろに被ることになります。ほとんどの倉庫が在庫管理から伝票起票、出庫作業までコンピュータ管理で動いているからです。倉庫自体が被災し、稼動不能の状態から復旧のメドが立っていない会社もあります。

 生産と物流がこれほどの混乱に見舞われたのは戦後初めてと言われます。いままで何の不安もなく紙やインキが供給され、作れば確実に本が届けられる仕組みを「水や空気」のように当たり前と思ってきました。そのインフラにいきなり非常事態がやって来たのです。

 加えて、雑誌では広告出稿のキャンセルがあいつぎ、広告収入が大きく落ち込んでいます。日本経済全体が甚大なダメージを受けているわけですから、この先長期にわたって雑誌広告の売上げは大幅減を覚悟しなくてはならないでしょう。

 原発危機が終息に向うのかどうかにもよりますが、現状から判断する限り、計画停電が解消されるまでには相当の時間がかかると思われます。出版界の売上げに大きなマイナス影響が出るのは避けられないでしょう。被災した書店の数も夥しく、東北地方の中小・零細書店の中には、経営事情の悪化にとどめを刺す形で「閉店」を余儀なくされるところも出てくるだろうと予想されます。新学期を控えた教科書の供給に支障をきたす地域もたくさんあるでしょう。

 というように、数え上げれば悲観的な材料ばかりなのですが、ふと翻って、われわれの先人たちはこういう時にどうしていたのだろうか、と思って、1923(大正12)年9月1日の関東大震災直後の出版界の様子を調べてみました。

 まず新潮社の場合ですが、その日は竣工されて間もない「新館開きの記念会」を控えていました。そこに震災が発生しました。初代社長・佐藤義亮は、鉄筋コンクリート4階建ての新社屋の無事を確かめると、社員を鼓舞します。「私は社の屋上に立つて、猛火に包まれた全市をながめながら、文芸出版はこれで駄目になるだらうと心配する社員たちに言つた。東京はどんなことにならうとも、それが全日本にどんな影響を及ぼさうとも、文芸出版は大丈夫だ、危惧することは少しもない――と」。

 中央公論社では、7月に作家の有島武郎と「婦人公論」記者の波多野秋子の情死事件があり、嶋中雄作主幹はその人員補充のための面接をしている最中でした。できたての丸ビルに4月に越してきたばかりでした。「東京市民のだれよりも高所」の7階が上下左右に揺れ動いて、みな生きた心地がしなかったと言います。翌日、嶋中主幹は「われわれは雑誌記者だ。雑誌記者はいかなるときでも、その職場を捨てるべきでない」と言い、「雑誌がいつ出るかは別として、さっそくプランを相談しよう」と呼びかけています。そして有力な作家や評論家をじゅうたん爆撃式に訪ね歩いて、震災の印象を口述筆記で集めていきます。次号は力のこもった震災特集号が送り出されました。

 講談社は、9、10月発行予定の各雑誌を10、11月発売に順送りに遅らせ、12月号を休刊にするという処置を取りますが、社内各所には野間清治社長の檄文が掲示されました。「こういう際こそ出版業者はこの東京の状況を全国に伝えなければならぬ。このぐらいで負けてはいかん。大いに災を転じて福となすべく活動しなければならない。かかる人こそ英霊底(えいれいてい)の士というべし。この際大いに緊褌(きんこん)一番努力しよう」。ちなみに「英霊底の士」とは、他より抜きん出た人物というほどの意味だそうです。

 その意気込みで野間社長は、9月10日頃に、単行本『大正大震災大火災』の緊急出版を決断します。しかも50万部の目標を掲げました。用紙調達、印刷所の手配などでは、当然、綱渡りの連続になりますが、その一方で雑誌と書籍の混載流通の道を開き、また新聞広告の欠如を補うために、いまでいうダイレクトメール(ハガキ60万枚)を使った直接宣伝をするなど、積極果敢に新機軸を打ち出していきます。10月1日発売という超スピード出版にして、総計40万部(諸説あるようですが)の大ベストセラーとなります。
 
〈(この成功は)出版業界にもまた限り無き活力を鼓吹したのであった。……壊滅に瀕したと思われた印刷所の機械は、修理を促進せられたではないか。停頓を覚悟した取次店は活動を余儀なくされたではないか。渋滞していた相互の金融は円滑に運ばれ始めたではないか。出版事業復興の曙光は朗らかに輝き始めたではないか。……彼らは一斉に巨大なる「野間清治」の姿を望見して、自らもまた奮い立ったのであった〉(中村孝也『野間清治伝』)
 
 文藝春秋では、その年1月に創刊された「文藝春秋」が急速に部数を伸ばしていました。菊池寛はそれに気をよくしていたといいますが、そこに震災が襲ってきました。自宅兼社屋だった菊池の家は倒壊・焼失をまぬがれたものの、刷り上がったばかりの9月号が印刷所で灰になってしまいました。意気消沈した菊池は中央公論の嶋中雄作に「君、もう東京の文化はおしまいだよ。これからの文化機関は、大阪にうつるだろう。僕も近く大阪に移転しようと思っている。そのほかは何も考えておらんよ」と不機嫌そうに言ったとされます。この頃、日本の論壇には「震災天譴説」というのが流れたそうです。「地震は日本人の傲慢と思い上りを懲らすため、天が下した罰だという」説です。
 
〈日本は第一次大戦後の好景気に乗り、経済的にも外交的にも躍進して、世界の一等国になったという自負心から、謙遜とか抑制とかいう美徳を忘れて、わがまま一杯に生活しているので、天の神が反省を求めるために、地震を起したのだというのである〉(杉森久英『小説菊池寛』)
 
 菊池寛はすっかり気弱になり、生き方を改めなければと真剣に考えたフシがあります。しかし、新進作家たちの熱望もあり、周囲から説得されてやむなく東京に踏みとどまると、そこからの立ち直りはめざましく、9、10月号の2号を休んだだけで、11月号から復刊します。その編集後記に「今月号は、定価は二十五銭、乃至三十銭にするつもりだ。九、十、十一月号が一緒になつたものとして、この破格な価格を認めてほしい」と書いています。ちなみに、当時の「文藝春秋」は定価十銭です。

 このように先輩たちが逞しく勇躍していた姿には励まされます。おそらく、いま日本中の人たちが「自分にできることは何か」「それはどれだけ役に立つのか」と自問していると思います。しかし、あまりに巨大な不幸を前に、無力感に襲われるのをどうすることもできません。その時、私たちの先人が自らの本分を見据えながら、力を尽くしていた事実には勇気づけられます。

 予断を許さない緊張が続く中で、それでも生きていくための、何かしらのヒントになるような気がします。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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