Kangaeruhito HTML Mail Magazine 443
 

中井久夫『災害がほんとうに襲った時』(みすず書房)

黄色い水仙

 東日本大震災が起こった直後のメールマガジン(No.434)で、精神科医の中井久夫さんの談話の一部を紹介しました。阪神淡路大震災を経験した中井さんに、「いま、私たちは何をすればいいのだろうか」と指針を求めた新聞記事からの引用でした。実は、地震の当日に、私が真っ先に思い出した文章のひとつが、氏の“阪神淡路”体験記である「災害がほんとうに襲った時」でした。16年前の大地震発生直後からの50日間、息つく間もなく精神科救急にあたった医師、看護婦らの手記を集めた本(『1995年1月・神戸』)に、中井さんご自身が寄せた一文です。当時、神戸大学医学部教授として現場の司令塔となった氏の記録を読み返せば、そこから得るものは少なくないはず……と思ってはみたものの、本は書庫の奥深くに紛れ込んでおり、簡単に取り出すわけにはいきませんでした。

 ところがあの日、東京の自宅が震度5の揺れに見舞われ、書棚から崩れ落ちたたくさんの本の中から、偶然その一冊を取り上げた人がいました。彼女はすぐに読み返しました。そして一気に読了するとともに、この「かけがえのない記録」の意義を再認識しました。次に「これを今回の震災の支援活動にあたっている人々に届けることはできないか」と考え、ただちに著者、版元の諒解を得て、この中井さんの手記を自らのホームページ上に無償公開しました。ノンフィクション作家の最相葉月さんです。

 本書はその「災害がほんとうに襲った時」を再編集し、併せて新たな論稿「東日本巨大災害のテレビをみつつ」を加えて、緊急出版したものです。しばらくぶりに読み返してみると、最相さんが直感した通り、これはいま被災地で救援活動の最前線にある医師や病院関係者に役立つ実践的な知見の宝庫です。さらには、これからボランティアとして応援に行こうとしている人たちにとっても、いろいろ具体的なイメージを得る最良のテキストのひとつです。災害の規模も内容も異なっていますし、今回はさらに、原発の事故処理問題がいまなお不確定要因として残されています。そういう意味で単純に比較できるような話ではありませんが、突然襲ってきた巨大災害を内部で経験した当事者と、外部からそれを見ている人たちとの認識の乖離について、中井さんが指摘する問題は依然として本質を衝くものです。それは「時間がたつにつれて起こるもっとも大きな食い違いかもしれない」とあります。

 ちなみに「考える人」の次号(7月4日発売)では、仙台市宮城野区に入った兵庫県の精神科医たちの活動ぶりを、最相さんにレポートしていただく予定です。救援者として内部に入った医師たちが直面した状況と、そこで阪神淡路の経験がどのように活かされたかという考察は、最相さんの報告を待ちたいと思います。

 さて巨大災害は日本人というものを改めて理解する機会ともなりました。海外メディアが感嘆した日本人の秩序感覚、勤勉さ、倫理観などは、たしかに私たちの予想すら超えるものでした。パニックになって混乱することもなく、「店や空き家の略奪行為がなく、どさくさにまぎれた犯罪もない国」のイメージは、神戸から16年経っても変りませんでした。もとより皆無であった、というわけではないでしょう。さりとて、礼節を忘れない東北人像というのがメディアの作った幻想だ、というのも明らかな暴論です。少なくともエリアス・カネッティが『群衆と権力』でいうような「『液状化』して『群集』と化し、個人ではまったく考えられないような掠奪、暴行、放火などを行う」光景は、今回も見られませんでした。コミュニティが崩壊していなかったことが最大の要因だと思います。神戸の時は、それが奇跡のように言われましたが、今回は当然視されているようです。中井さんは中根千枝氏が『未開の顔・文明の顔』(中公文庫)で紹介した、戦地で略奪暴行のたぐいをしなかった日本兵の話をあげながら「勇敢で規律正しいのが東北兵」であり、「日本人を代表しているのは今は東北人である」と評しているほどです。

 また、とかく日本人は集団指向だと言われますが、それは「事の半面」であって、「いきなり状況の中に一人投げ込まれて真価を発揮する人間が存在している」という見解を、中井さんは実感をこめて語っています。「われわれの精神科においては……大部分のスタッフは教授である私の意見に異議を唱え、指示に不適当であると答え、代案を提出することがいつでもできる人たちであった。私はまさにそのことをかねがねひそかに誇りに思っていた」。

 ドイツの精神医学全書の「捕虜の精神医学」の項には、ドイツ軍は指揮官を失うと組織が崩壊したのに対して、日本軍においてはリーダーが不在になれば、その次は誰、その次は誰とただちに代行する者が現れて、ついに組織が崩壊することはなかった、とあるそうです。

 しかし、こうした「日本の組織の有機性」というすぐれた特徴や、過酷な条件下においても献身的に職務をこなす「無名の人」たちがいる一方で、第2次世界大戦で露呈した日本軍の弱点――ロジスティックス(兵站)の概念の欠如――が何ら変っていないことが、神戸の事例で指摘されています。「飲まず食わずでも持ち場を放棄しない日本人の責任感にもたれかかって補給を軽視した五〇年前の日本軍の欠陥は形を変えて生き残っていた」と。今回、その点は解消されていたのでしょうか。

 本書にはさまざまな金言と思われる指針がたくさん散りばめられています。

「有効なことをなしえたものは、すべて、自分でその時点で最良と思う行動を自己の責任において行ったものであった」――現場の状況は目まぐるしく変化します。「独断専行」を恐れず、「何ができるかを考えてそれをなせ」というのが、災害時の一般原則になる、という教訓です。

「総じて、役所の中でも、規律を墨守する者と現場のニーズに応えようとする者との暗闘があった。非常にすぐれた公務員たちに私たちは陰に陽に助けられた」、「災害においては柔かい頭はますます柔かく、硬い頭はますます硬くなることが一般法則なのであろう」――ともあります。スイスの捜索犬を狂犬病検査のために二週間検疫所にとめおこうという現実離れした発想をする人と、時々刻々に最優先事項が変化していく状況を前に「現実と相渉る」ことを使命ととらえた人との差が、くっきりと見えるのもこういう時です。

「来る途中、神戸の地図を頭にたたき込み、神戸について書いた本を何でもいいから読んできてくれることも重要である」――ボランティアに参加する人たちにとって、聞きなれない地名が次々と飛びかう現場にあって、「道案内に現地のスタッフがとられる時間は予想外に大きい」という指摘です。同時に、「官公庁や大学、研究機関などの調査団やマスコミ」に対して、内心では願い下げにしてくれと叫びたくなるのは、「同じことを聞かれ、すこしずつ違うアンケートを何枚も書かされるから」だという証言もあります。「官公庁の視察が事務方を困らせるのには食事の用意もある」と。

 前に「災害がほんとうに襲った時」を読んで以来、心にとめていることがひとつあります。精神科医で作家の加賀乙彦さんが震災直後に神戸を訪れた際の逸話です。加賀さんは一ボランティアとして現地に入るのですが、その時に中井さんのリクエストに応えて「多量の花を背負い子にかついで」行きました。「近所の花屋さんという花屋さんでいっぱい買って持って行きました」と加賀さんからも直接聞きました。その黄色を主体としたチューリップなどの花々は、病院内各所の一般科ナース・ステーション前に配られ、好評を博したといいます。花は「心理的にあたためる」効果があるので、被災地に行く時は花を携えて、ということを私も学びました。

 加賀さんとは別に、福井県のある精神科医が大量の水仙の花をかついで来て喜ばれたということもあったそうです。また焼け野原と化した神戸市長田区菅原市場に、天皇皇后両陛下がお立ち寄りになられた際、皇后陛下が皇居の水仙の花を瓦礫の上に供えて、黙祷された姿をニュース映像で見た思い出があります。その後、この地域には「すいせん通り」ができ、公園は「すがはらすいせん公園」となって、皇后陛下の水仙の花束が公園の一角にはモニュメントとして残されているそうです。水仙の花は、まさに神戸復興の象徴になったわけです。

 4月27日、被災地を見舞われた両陛下が仙台市を訪れた時のエピソードは、すでにご存じの方も多いかと思います。避難所の体育館で、ある女性が皇后陛下に、津波で流された自宅跡に咲いていた水仙の花束を差し出しました。「お荷物になるでしょうが……」という女性に、「頂戴してもいいですか」とお持ち帰りになられ、帰京後、自衛隊機から降りられる時にも、その黄色い花は皇后陛下の手にしっかり握られていたという話です。女性は「この水仙のように私たちも頑張りますとお伝えすれば、いくらかでもほっとしていただけるかと思って……」と語っていました。

 16年前の神戸では、「皇后陛下が皇居の水仙を持って見舞いに来られたように、瓦礫に合う色は黄色しかなかった。私も黄色のマフラーをしていた。その年の園芸学会に呼ばれてゆくと、『今年はなぜかヒマワリがよく売れる不思議な年です』とのことであった」と、中井さんは伝えています。そしてこれに続けて、「日本の政治家のために遺憾なのは、両陛下にまさる、心のこもった態度を示せた訪問政治家がいなかったことである」と述懐しています。この点は、今回どうだったのでしょうか。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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