Kangaeruhito HTML Mail Magazine 454
 
 被災地をまわる
 
 夏休みを取って東北・岩手に出かけました。夜のうちに盛岡へ入り、翌朝から三陸海岸沿いに被災地をまわりました。まず盛岡から陸前高田へ抜け、そこから国道45号線をひたすら北上。大船渡、釜石、大槌町、山田町、宮古、そして田老地区を駆け足でまわり、宮古から国道106号線を通って盛岡へ戻りました。かなりのロング・ドライブでしたが、地元に詳しい方の案内を得て、強行軍ながらもスムーズに日程をこなすことができました。

 ちょうどこの日は、東北各地の夏祭りのトップを切る「盛岡さんさ踊り」の初日にあたり、夜はその華やかなパレードを見物しました。和太鼓、笛の音が鳴り響く中で、「幸せを呼ぶ」という独特のかけ声(サッコラチョイワヤッセ)とともに踊り手が舞い、各連がゆっくりと進んでいきます。「ハラハラハラセー」とか「エヤーサエヤサー」という合いの手が可愛らしく、踊りの最後にペコリと深いお辞儀をするのが何ともユーモラスで、ついつい見とれてしまいました。

「東日本大震災でのご支援ありがとうございました」と書かれた横断幕や大漁旗を掲げた宮古市田老地区からの参加者には、沿道から盛んな拍手が送られていました。被害がもっとも激しかった地域から、特別な思いを抱いてここへ来ている人たちです。「万里の長城」と呼ばれた高さ10メートルの長大な防潮堤が打ち砕かれ、町がすっかり押し流された田老地区の、ついさっき見たばかりの光景が心に刺さります。しかし、そんな苦難を吹き飛ばそうとする人たちの熱気が、さんさ踊りのリズムに乗せて伝わってきます。

 翌日は、遠野市で自然農場を営んでいる友人、多田克彦さんの家を訪れました。多田さんとは、かれこれ20年近い付き合いになります。知り合ったのは、兼業農家の次男坊として生れた彼が、先祖から受け継いだ土地に牛舎と有機農業の畑を作り、多田自然農場を開設してしばらくした頃です。東京の大学を卒業後、地元の遠野市役所にUターン就職した彼は、商工観光、社会教育、農政といった畑を歩き、その間2年間、サウジアラビアで農業指導を行ったこともあります。しかし、減反などの農業政策に疑問を感じ続けていた多田さんは、1988年に役所を退職し、農業を「男子一生の事業」とすることを決意します。

 以来、さまざまな試行錯誤を繰り返してきました。価格安定のために農協(現JA)から牛乳の大量投棄を求められたのをきっかけに、農協と袂を分かつという転機もありました。こうして従来の農業のあり方を根本から問い直し、持ち前の旺盛な探究心とチャレンジ精神で、農薬も化学肥料もいっさい使わない独自の農法を確立しました。そして1992年からは「多田克彦ブランド」の乳製品の販売を開始し、いまやハム、豆腐、納豆、ジャムまで50種類を超える商品が、東京を始めとする各地で人気を呼んでいます。

 彼とは、年に1、2度必ず顔を合わせる機会があるものの、自宅を訪れるのはおよそ15年ぶりです。3月11日の大震災直後から、被災地救援のために果敢な活動を続ける様子は注視していました。久々に会って、彼の遠野弁をたっぷり聞きたいというのが今回の旅の目的です。

 幸い多田農場は被害を免れました。激しい揺れに「もうダメだ」と覚悟したそうですが、自宅裏の山から引いている沢水は生きていました。たとえ断水になっても飲み水の心配はありません。米の備蓄も1年分、野菜も漬物もあるので、食料の蓄えは十分でした。地震発生から2日後、カトリック釜石教会の親しい神父が訪ねてきました。「一刻も早く応援の手を差し伸べてほしい」という要請でした。そこで牛乳、自社製品のプリン、ヨーグルトを車に積み込み、すぐさま釜石へ向かいました。車で約30分の距離です。

 ところが、JR釜石駅の手前まで押し寄せた津波のために、道路はガレキでふさがれていました。ライフラインが完全にストップし、すっかり変わり果てた町のありさまに、深い衝撃を受けます。車から降りて食料を背負い、自ら信者として礼拝しているカトリック釜石教会をめざしました。そこで目にしたのは、津波がマリア像のわずか手前のところで止まっている光景でした。「我に返ったさ。“奇跡”というのは古来いろいろ言われているけれども、これを目の当たりにして、ハッと目が覚めた。動かなくちゃ、何とかしなくちゃという気持ちがにわかに湧いてきた。それまでは、あまりの『地獄絵図』に、唖然として言葉を失っていたんだけど」

 動きはスピーディでした。そこからの彼の行動をつぶさに紹介する余裕はありませんが、話をひとわたり聞いて思ったのは、救援活動にも多田さんらしい経営的な着想が貫かれているということでした。彼の観察力と洞察力が遺憾なく発揮され、被災者のニーズを的確に汲みとったアイディアが次々と実行されていました。たとえば、「食」の支援について――。

 震災後間もなく、ほとんどの被災地で支給されていた食料は、コンビニのおにぎり、カップ麺、パン、バナナといったものです。それが朝10時と夕方の5時に、2回配られます。3日もすると、誰しも食が進まなくなります。それを見た多田さんは、ただちに「温かいもの」が必要だと判断して、農場で肉汁を作って運びました。これがまず大好評でした。「だって、うまいもの食わなきゃ元気が出ねぇべ、人間はよ」。

 さらに日が経つにつれて、必要とされる食料は変化します。第2ステージの食が求められます。鮮度のある野菜、果物、肉、牛乳、それに疲れているので甘いものが欲しくなります。歯の悪いお年寄りでも食べられるプリンやヨーグルトは、どこでも喜ばれました。「被災者を消費者と考えれば、顧客が何を要求しているかを把握するのは当然だ」。

 次に「日帰り温泉ツアー」の実施です。被災がもっとも激しかった地域の住民を、大型バスで温泉に案内して、ゆっくり浸かってもらおうという計画です。名づけて「釜石 心も体もあったか号」のバス運行です。バスを借り、花巻の東和温泉と話をつけ、被災者に久々のお風呂で寛いでもらいます。その後は、道の駅「遠野風の丘」にある農場産直「多田克彦の店」でご自慢のソフトクリームを賞味してもらい、それから遠野のスーパーで生活必需品を購入した後、仕上げに近くの食堂でラーメンを食べて帰ってもらうというコースです。

 3月25日がその第1回目でした。「2週間ぶりの入浴で、みんなパァーと明るい表情になった。生き返ったっていうのは、まさにあのことだろうね。人間はそういう喜びを糧にして生きていくもんだ」。

 3回目からは、「オンデマンド方式」による物資の提供を始めました。全国から集まった衣類をサイズや男女別に仕分け、それぞれの参加者が必要なものを必要なだけ持ち帰る形式です。また、ある時はスイーツバイキングなどというイベントも組み込みました。これを計7回、300人あまりの人たちに対して行ったのです。

 4月12日からスタートした「食の力を釜石へ」プロジェクトでは、多田さんのかねてからの人脈がモノを言いました。ある有名パティシエが手作りの生ケーキを350人分持って現われた時は、ケースのフタを開けた瞬間、「ワァ~オ」という歓声のこだまが響き渡ったそうです。各地からいろいろな人たちが助っ人に駆けつけました。東京赤坂・四川飯店の陳健一さんら総勢9名の出張もありました。「麻婆豆腐、中華丼、コーンスープ、マンゴープリンなど、2日間で計400人分ふるまってから、4トントラック2台で、ゴミまですべて持ち帰った。あの姿には感動したね」。

 一方で、ボランティアの受け入れ体制を作り上げたのも見事でした。釜石教会内に4月1日、「自立支援センター」を開設し、そこに全国から集まってくるボランティアのための部屋とトイレと台所、休憩所を用意しました。1週間交代のシステムを作り、朝から夕方までガレキの撤去、炊き出しの手伝いなどにあたってもらいました。精神的にも肉体的にもハードな仕事ですから、食事は唯一の楽しみです。時には焼肉パーティをやったり、おいしい食べ物を届けることには、被災者同様に心を砕いたといいます。「だからボランティアの間では、釜石に行きたいと評判になったみたいだ(笑)」。

 こうした活動の原資を、多田さんは「ノアの方舟資金」の口座にまとめた義援金で賄いました。長年培ってきた幅広い人的ネットワークがここでも威力を発揮しました。また、被災地の模様や自分の支援活動をこまめにブログに書き、農場のスタッフらがそれを英語、フランス語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語に翻訳して発信しました。外国人のパン職人が駆けつけて、3日3晩で300個のパンを焼いたのは、フェイスブックの威力でした。

 このように寝る暇もないような救援活動を続けながら、農業経営者としても冷静沈着な判断で、打撃を受けた事業の再構築に手を尽くしました。原材料や流通ルートの確保、生産・出荷の再開などです。ただそれにも増して、多田さんの経営者としてのセンスに驚かされたのは、あれだけ好評を博した「日帰り温泉ツアー」も「炊き出し」も、ある時期でスッパリと切り上げたことでした。この引き際の判断は潔いものでした。「被災者は最終的には自立しなくちゃならない。与えられることに馴れちゃうと、人は次第に自立できなくなってしまう」。

 彼がいま手にしているのは、日本政府が発行した「被災者のみなさまへ」というハンドブックです。そこには生活再建、事業再建のためのさまざまな支援策、特別措置、補助のメニューが列挙されています。「こういう制度があること自体を知らない人も多いと思うので、いまこれを配っているところさ。何か事業を起こそうとすれば、いろいろな融資や補助の仕組みが使える。これからは活躍の場も新たに広がる。そう考えれば、今回の地震は大災害ではあるけれども、新しくことを興すにはいい機会だとも思う。後ろ向きの話で終わったらだめだ」。

 話は尽きることがなく、あっという間に時間が過ぎていきました。南部藩の歴史から東北人論にまで及んだ話の続きは、次回送りとなりました。次に会う頃までには、多田さんの息の長い“支援活動”のステージがどういう様子になっていることかと思います。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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