「日本の科学者」といってすぐ思い浮かぶのは、20世紀の偉人や天才ばかり。では中世や近世に、日本にはいわゆる“科学”がなかったのでしょうか?
――もちろん、そんなことはありません、と100人選定の中心を担った山本貴光さんがレクチャーしてくれました。それが、特集の冒頭に掲げた「日本の科学がたどってきた300年」というエッセイです。
日本に太古からあった生活のなかで自然と向き合う考え方、またその技術が、いつごろ自然を客観視し法則を見出す分析的な「科学」へと変わっていったのか。4つのトピックスでわかりやすく説き明かしてもらいました。

(1)中国科学・伴天連科学の移入

「まず、朝鮮を経由して中国から知識がやってきた。6世紀には、医、暦、易が朝廷に移入されている。ただし、どれも自然を知るためというよりは、実用のための知識であった。(中略)次の大きな波は、1549年のザビエル来日、……イエズス会は、布教活動の一環として、『南蛮医学』と呼ばれる外科医学や、天文学、地理学、航海術、活字印刷術などをもたらした」
ところが17世紀半ばのキリスト教禁教令や鎖国によって、科学の移入は一時、閉ざされてしまうのです。

(2)それぞれの科学分野の発展

「日本には、中国数学を換骨奪胎して独自の発展を遂げた和算の伝統がある。例えば、江戸のベストセラー数学書『塵劫記』(1627)で知られる吉田光由……和算を中国数学から脱却させて新たな段階へ進めた数学者として関孝和の名は逸せない」
そのほか、中国で発達した薬用天然物を研究する学問「本草学」を、独自に分類した貝原益軒、博物学的に発展させた稲生若水や小野蘭山、石の博物誌をまとめた木内石亭、博物学的コレクターの木村蒹葭堂。幕府の命で改暦にあたった麻田剛立、高橋至時、間重富。長崎の通詞で、コペルニクスの地動説を紹介した本木良永、ニュートン力学を紹介した志筑忠雄など――鎖国体制にあっても、これらの人々の探究心によって科学の素地が培われていったことがわかります。

(3)蘭学の時代

「1740年、徳川吉宗が青木昆陽と野呂元丈にオランダ語の習得を命じて、ここに蘭学者が生まれる」
前野良沢、杉田玄白たちによる『解体新書』や、医師シーボルトの鳴滝塾など西欧医学の幕開けはあまりにも有名ですが、このほかにも窮理(物理)の青地林宗、舎密(化学)の宇田川榕菴など、純粋科学の受容が本格的になりました。

(4)学術体制の整備

「明治政府は、一刻も早く欧米の水準に追いつこうと、1872年には学制頒布、1877年には東京大学を設立して、エリート養成に乗り出した」
気象学のクニッピング、化学のダイヴァース、物理学のノット、動物学のモースなどの「お雇い外国人」教師を招き、その直弟子の菊池大麓(数学)、北尾次郎(気象学)、田中舘愛橘(地球物理学)、長岡半太郎(物理学)、桜井錠二(化学)、矢田部良吉(植物学)らを欧米へ留学させます。彼らは帰国すると、帝国大学で本多光太郎、寺田寅彦、石原純、仁科芳雄など次世代を担う研究者たちを育て、維新からわずか20年足らずのあいだに、怒濤の整備が進められていきました。

特集に登場する科学者100人の多くは20世紀に活躍した人々ですが、それ以前の、日本の科学に大きな変化のあった300年に目をむけると、科学の世界がいきいきとより豊かに感じられてきます。300年前の読者はコペルニクスの地動説をどのように読んだのか? 想像するだけでわくわくしてくるではありませんか。