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辺見じゅん『収容所から来た遺書』(文春文庫)

「骨を洗う」人

 辺見じゅんさんの急逝を知らされたのは、9月21日の夜でした。東京を台風15号が直撃し、強い暴風雨の中を全身ずぶ濡れになって帰宅した後のことです。あまりに唐突な知らせに、一瞬何が起こったのかと、実感が伴いませんでした。つい2週間ほど前に、講談社ノンフィクション賞の授賞式で、選考委員の一人として出席していた辺見さんとお会いしたばかりでした。前の週に会食をともにした人からは、来年7月、富山市に開設される「高志(こし)の国文学館」の館長に就任する予定の辺見さんが、精力的に富山を訪れ、いろいろな構想を温めているという話を聞いていました。それだけに、よけいに信じられませんでした。

 角川書店創業者である故・角川源義(げんよし)氏の長女として生まれた辺見さんは、多彩な分野で才能を発揮しました。幼時より万葉集に親しみ、最後の歌集となった『天涯の紺』にいたるまで、歌人としてめざましい活躍を見せました。父祖の地富山を中心にした短歌結社「弦」の主宰者でもありました。また先の第二次世界大戦に命を捧げた名もなき兵士たちの鎮魂の物語を描いたノンフィクション作家であり、さらに2002年からは、文芸出版の理想を掲げて船出した幻戯書房を率いる出版人でもありました。

 その活動のすべてにわたって、父・源義氏の存在を抜きに語ることはできません。折口信夫門下の国学者であり、俳壇の巨星、そして鋭敏な出版人であった父親の「日本文化の再生」に寄せる夢を引き継ぐことと、病床で聞いた父親自身の戦争体験をふまえ、そこにこめられた無告の戦没者の遺志を受け止めることが、彼女の多彩な活動と創作の原点になったと考えられます。仄聞するに、次のノンフィクション作品のテーマは、まさに父・角川源義を正面に据えた一族の物語でした。それを果たせず道半ばで逝ったことは、どんなに残念であったかと思うばかりです。

 ただ、個人的に思い出深い作品というと、映画化もされた『男たちの大和』(1984年・新田次郎文学賞)と、『収容所(ラーゲリ)から来た遺書』(1989年・講談社ノンフィクション賞、1990年・大宅壮一ノンフィクション賞)の2作になります。いずれも刊行直後に読んで、深い感銘を覚えました。

 前者は、戦況が悪化した昭和20年4月6日、3300余名の男たちを乗せ、激戦の沖縄に向けて出撃した不沈戦艦「大和」をめぐる物語です。“戦争の大義”がどうあれ、召集令状に導かれるまま、その船に乗り組む運命となった名もなき若き下士官たち。彼らがいかなる親のもとに生をうけ、そしてどのように没していったかを、艦橋の高みから見下ろすのではなく、あくまで彼ら自身の視点を通して描き切ろうとした労作でした。吉田満さんの傑作『戦艦大和ノ最期』、とりわけそこに登場する臼淵磐(うすぶちいわお)大尉が大和の出撃前夜、動揺を隠せない仲間に向けて発したとされる言葉――

「進歩ノナイ者ハ決シテ勝タナイ 負ケテ目ザメルコトガ最上ノ道ダ 日本ハ進歩トイウコトヲ軽ンジ過ギタ 私的ナ潔癖ヤ徳義ニコダワッテ、本当ノ進歩ヲ忘レテイタ 敗レテ目覚メル、ソレ以外ニドウシテ日本ガ救ワレルカ 今目覚メズシテイツ救ワレルカ 俺タチハソノ先導ニナルノダ 日本ノ新生ニサキガケテ散ル マサニ本望ジャナイカ」(講談社文芸文庫)

 が仮にエリート士官たちの真情の一部を吐露したものだとすれば、それと対をなす形で、この必敗の“水上特攻”作戦に否応なく巻き込まれた人々の哀しみを惻々と伝えて、胸に迫る作品でした。

『収容所から来た遺書』で思い出すのは、講談社ノンフィクション賞の贈賞式です。作家の澤地久枝さんが選考経過を述べた際に、ともに選考委員を務めていた立花隆さんがこの作品を絶賛したことに触れ、「世の巨悪を追及する際には容赦ない鬼のような立花さんが、この作品を読んで涙が止まらなかったとおっしゃった。あの立花さんでも泣くことがあるのか、と初めて分かった作品です」というようなスピーチをして会場を沸かせました。その時の立花さんの選評を読んでみました。
 
〈辺見じゅん『収容所から来た遺書』は、脱帽に値する作品である。読みながら思わず落涙した。これだけ人を感動させる作品はそうあるものではない。ノンフィクションの良し悪しは半分は題材で決まり、半分は作者の力量で決まる。この作品は、題材、作者の力量ともに申し分ない〉
 
 今回、改めてこの本を読み返しましたが、感動はいささかも変わりませんでした。山本幡男(はたお)という本書の主人公の遺族が暮らす家を、終戦から12年を経て、山本と同じソ連の強制収容所(ラーゲリ)にいたという男が訪れ、一家の主に託された遺書を届けます。それから一通、また一通と郵送で、あるいは直接持参する形で、全部で4通りの遺書――「山本幡男の遺家族のもの達よ!」の呼びかけに始まる「本文」、「お母さま!」「妻よ!」「子供等へ」――が届きます。それらはすべて山本が最後の命の炎を燃やして綴った遺書でした。文字を書き残すことはスパイ行為と見なされ、収容所を出発する前には厳重な私物検査が行われ、字の書かれたものは、紙切れ一枚に至るまですべて没収するという監視体制が敷かれていました。何としても山本の家族のもとにこれを届けなければ、と考えた「心ある人々」は、それぞれ分担を決めて遺書を懸命に暗記し、写しは衣服の中に縫い付けるなどして、必死で日本に持ち帰ったのでした。おそらくこうした例は「空前絶後のこと」だったと思います。

 遺書は今回読み直しても涙がこみ上げました。寝返りも打てないほどの重病人が、わずか一日の間にノートに15頁もの遺書を、まさに死力を振り絞って書きました。読んだ仲間たちは「これは山本個人の遺書ではない、ラーゲリで空しく死んだ人びと全員が祖国の日本人すべてに宛てた遺書なのだ」と思い、「帰国の日を待ちわびて死んでいった多くの仲間たちの無念の声を聞いている」ような気がして、「なんとしてでもこの遺書を山本さんの家族に届けようという気持になった」といいます。事実、山本が死んでから彼らが故国の土を踏むまでに、さらに2年4ヵ月の試練が待ち受けていました。その間、「遺書を託された人びとにとって、山本の家族に記憶して届けるということが、生きつづける支えともなった」のでした。

 こうした友情が育まれたのは、出口の見えない抑留生活にあって「山本の精神の強靭さと凄さ」が皆に生きる力を与えたからでした。一見年寄りじみているのに、目は意外に若々しく、誰にも分け隔てすることなく、周囲はしばしば笑い声に包まれたという楽天的な人柄。極寒と飢餓と重労働に苦しめられ、精神的にも過酷きわまりない収容所生活であればこそ、彼は繰り返し熱をこめて語ります。「生きてれば、かならず帰れる日がありますよ」、「ぼくたちはみんなで帰国するのです。その日まで美しい日本語を忘れぬようにしたい」と。

 そしてセメント袋を切った茶色い紙で綴られた文芸冊子をひそかに回覧するかと思えば、「アムール句会」という俳句の集まりを呼びかけます。短冊はまたセメント袋を切って使い、馬の尻尾やマニラロープをほぐして毛筆を作り、「墨汁の代用品は煤煙を水に溶かしてこしらえた」といいます。監視の目を盗むようにして集まり、終れば俳句を書きつけた紙は、土に埋めたり、“ハーモニカ便所”の中に細かく千切って捨てました。
 
〈句会の集まりは、ラーゲリ内のとげとげしい雰囲気がウソのような別世界だった。句会のときだけはみな日頃の作業の辛さも忘れる。むしろ作業中にも次の句会に投ずる句などを考えていると、単調で辛い労働も違ったものに感じられてくる。メンバーは、しだいに句会の楽しさにのめり込んでいった〉
 
 こうして“希望”が生まれます。打ちのめされるような事件が起ころうとも、そんなことにめげる様子もなく、「かえって逆境のときのほうが意気軒昂」だったという山本は、病を得てもなお句会を欠かすことはありませんでした。やがてアムール句会は200回目を迎えます。その時にはすでに出席が叶わなくなっていた山本ですが、その報告を聞くと、「日本に帰ったら、ぼくたちのシベリア句集を作ろう。……自分の句は記憶しておくようにみんなにいってくれよ」と語り、次の歌を示します。

 韃靼の野には咲かざる言の葉の花咲かせけりアムール句会

 空前のシベリア句集を編むべきは春の大和に編むべかりけり

 おそらく辺見さんが聞き届けたのは、この「言の葉」の力に寄せる信頼と、それを糧に生と死の極限状況を生き抜こうとした山本の、そして無告の人びとの物語だったような気がします。深く死者を悼むこと。近代の“防人”の運命に思いを寄せ、彼らの挽歌を奏でることは万葉集に親しんだ辺見さんにとって、ごく自然な流れだったと思われます。
〈昭和四十九年に沖縄の幾つかの島を訪れたとき、「骨を洗う」という言葉に触れた。死者の魂を鎮めるために、白くなるまで骨を洗う。三年も経つと大抵の骨はやさしい表情になる。だが、この世に無念の思いを残して死んだ人の骨はいつまでも肉が離れない。そのときはていねいに優しく洗ってあげるのだという〉(『昭和の遺書』あとがき、文春文庫)
 
『男たちの大和』、『収容所から来た遺書』をはじめとする彼女のノンフィクションは、まさにていねいに優しく「骨を洗う」仕事でした。いささかもたじろぐことなく、丹念に、そしてたおやかに――。彼女はそれを粘り強く、気丈に貫きました。ご冥福を祈りたいと思います。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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