Kangaeruhito HTML Mail Magazine 470
 
 燕楽軒の常客
 
「その頃の滝田氏の文壇に於ける勢威は、ローマ法王の半分位はあったと思う」(「半自叙伝」)と、菊池寛をして言わしめた大正期の名編集者、滝田樗陰の遺品が日本近代文学館に寄贈されたというニュースは、昨年の夏に新聞で知りました。谷崎潤一郎、志賀直哉、室生犀星をはじめとする全67人、214作品の直筆原稿と、樗陰宛ての諸家56人からの書簡171通というものでした。樗陰の孫にあたる方が、都内の自宅で茶箱などに入れて保管してきましたが、自身が高齢になったこともあり、資料を散逸させたくない思いから寄贈することに決めた、とありました。

 その一部が先週の土曜日(11月26日)まで、目黒区・駒場公園内にある日本近代文学館で公開されていました。会期終了ギリギリになってしまいましたが、作家が残した推敲の痕跡と、樗陰の朱文字の指定が書き込まれた貴重な現物をなんとか見ることができました。滝田樗陰といえば、職業的編集者のパイオニアであり、明治・大正を通じて文壇・論壇を大きく動かした演出家でした。文学に限っていえば、雑誌「中央公論」に文芸欄を設けて発行部数を飛躍的に伸ばし、大正元年に31歳で編集長(主幹)に就任した後も、自ら精力的に作家のもとを訪れ、原稿集めに奔走しました。

 その際、自家用の定紋入り人力車を乗り回したため、「滝田樗陰の人力車」は半ば伝説と化しました。彼の人力車が家の前にとまることは、無名作家にとっては「幸運の訪れたしるしであり、既成作家にとっても、自分の存在が忘れられていないことの確証であった」(杉森久英『滝田樗陰』)というわけです。残されているさまざまなエピソードを読む限りでも、情熱あふれる凄腕の編集者であったことは間違いありません。

 それだけに、今回名を連ねた作家の顔ぶれも、大正期に活躍した人はすべて出揃っているといっても過言ではありません。ワープロ、パソコンの原稿にすっかり毒された目には、久々の直筆原稿というのは眩しく、新鮮でした。何度もタイトルを推敲した様子が明らかな室生犀星の「性に眼覚める頃」。ビアズリーの絵を背景にあしらった専用の原稿用紙に書かれた佐藤春夫の作品。原題の「赤木清吉」が樗陰の改訂で「侘びて住む」に変更され、さらに雑誌掲載時は「侘びしすぎる」になるという作品生成のプロセスなどが読み取れます。

 また執筆された背景などの解説を読みながら眺めると、肉筆の個性に加えて、その人の「人間のにおい」が立ち上ってくるのを感じます。近松秋江の「第二の出産」の原稿の脇に樗陰宛ての書簡がありましたが、稿料をすぐさま借金返済と生活費にあてる作家の息づかいが伝わってきます。

 思わずじっと立ちどまってしまったのは、宇野千代さんの「墓を発(あば)く」の原稿の前でした。彼女の文壇デビューを彩るエピソードの中で、語り草となっている作品だからです。京都で同棲生活を送っていた相手が東京帝大に進学したのを機に、小石川に移り住んだ宇野さんは、本郷3丁目の角にあった「燕楽軒」という高級西洋料理店で「女給仕」をしていました。たった18日間だったようですが、その間、毎日必ずランチを食べにやってきて、高額のチップを置いていく客がいました。
 
〈「金時さん」と言う渾名の、血色の好い赫ら顔をしていて、りゅうとした和服姿の客であったが、いつでも私の受け持ちの席に腰を下ろし、一言も口を利かないで、猛スピードで食事を済ませ、がっと一息にビールを飲み干すと、食事代のほかに、きまって卓子(テーブル)の上に、五十銭玉の大きな銀貨をぽんと一つおいて、そそくさと立ち去るのであった〉(宇野千代『生きて行く私』)
 
 それが、一本通りを隔てて燕楽軒の真ん前にあった中央公論社の滝田樗陰でした。宇野さんは、その時滝田が何者であるのか、よく分からなかったようですが、その「大きな五十銭玉の銀貨を貰うのだけが目的で、毎日いそいそと燕楽軒へ通って行った」とあります。そして、18日経ったところで、それまで質草に取られていた物を引き出せる金額が溜まったのを潮に、あっさり店を辞めたのでした。

 その後、北海道に職を得た夫(先の相手と正式に結婚)に従い、札幌に移った宇野さんは、女学校で身に付けた裁縫の腕をいかして仕立物に精を出すかたわら、馬橇の鈴の音を聞きながら小説を書き始めます。「時事新報」の募集した懸賞小説に応募し、それが一等に当選します。二等が尾崎士郎、選外が横光利一であったといいます。それからは、「自分にはものを書く力がある」と信じ、夜も昼も書きます。「最早や、仕立物をする時間なぞはなかった」と。

 書いたものはどうする気か。それは心の中で決めていました。燕楽軒で会った滝田樗陰に原稿を送れば、必ずや「中央公論」に掲載されると信じて疑わず、書き上げるとすぐに書留郵便にして送るのです。ところが、採否の連絡がいつまでたっても滝田からはありません。「うんともすんとも」何の返事も届きません。必ず掲載されるはずの原稿なのにどうなったのか。
 
〈何か事故があったのだ。何かの事故によって、樗陰の手許まで届かないのだ。そう思うと矢も楯も堪らず、私は東京の中央公論社へ出掛ける決心をした。(中略)
 東京へ着くと、私は真っ直ぐに、本郷の中央公論社へ行った。瀧田樗陰は社にいた。三階まで駆け上がったので、私は息がきれた。「あの、あの、私のお送りした原稿は、着いてますでしょうか。もう、お読みになって下すったでしょうか」と言うその私の言葉も終わらない中に、樗陰は、そのときすぐ眼の前に積んであった、六、七冊の雑誌の一冊を手にとって、ぱさりと、私の眼の前に投げ出し、「ここに出てますよ。原稿料も持って行きますか」と、まるで、怒ってでもいるように言ったものであった〉(同)
 
 それが「中央公論」大正11(1922)年5月号に載った「墓を発く」でした。宇野さんは「ぶるぶると足が慄(ふる)え」、同時に目の前に投げ出された「夥しい札束」に「腰も抜けるほどに驚」き、滝田に礼を言うのも忘れて、表へ飛び出します。そこからの回想もあまりに面白すぎて、何度読んでも吹き出します。しかし、このエピソードはどこまでが本当だろうか、といささか首をかしげていたことも事実です。

 ただ今回、藤村千代と署名のある生原稿を前にして感じたのは、まぎれもない宇野さんの気迫でした。丁寧な文字で注意深く書かれた原稿からは、作家をめざす彼女の一途な思いが伝わってくるようでした。「小説は誰にでも書ける。それは毎日、ちょっとの時間でも、机の前に坐ることである」と後年語っていた宇野さんの面影が蘇ります。

 それにしても樗陰という男はとてつもないスケールの人間だったようです。大正14年に44歳の若さで亡くなりますが、没後、樗陰と親交のあった各界の人々からの要望に押されて、「中央公論」は異例の追悼特集120ページを組み、35氏の追悼文を掲載しています。当時の社長がその中で、「この天賦の絶倫の精力が実に大部分わが中央公論の編輯に現れた」と書いていますが、ともかく情熱家、活動家、努力家、並はずれた読書家にして健啖家であり、エネルギーの量が途轍もない人物であったことは誰しも認めるところです。

 ですから、こんな人の下で働いた人たちは、それぞれに大変な思いをしたようです。人力車を曳いていた善さんという人は樗陰にとても愛されたのですが、「とうとう滝田さんに曳き殺されましたよ」と車夫仲間に言われるほどの激務でした。あるいは、「樗陰の旺盛な、そしてときどき興味の対象の変わる気まぐれな読書熱」に振り回された部員は、分厚い洋書を何冊も読破するために苦しみました。また彼は「健康と活力の源泉は美食あるいは大食にありと信じていた」らしく、「大いにカロリーを摂る必要がある」と言って「カロリー、カロリー」を連呼しながらカツレツ、ビフテキ、コロッケにフォークを突き刺して、幾皿も平らげていたといいます。さらに人に飲み食いさせることが大好きという性格の持ち主でしたが、それがしばしば強引過ぎたため、「食らい殺されはしないかと、不安を感じた」人も少なくなかったようです。死にいたる腎臓の病は「過飲過食」のせいではなかったかと見る人もいますが、ともかく太く短く、この時代を駆け抜けたという印象です。
 一方で家庭人としては三女に恵まれ、「ほとんど溺愛というにちかい可愛がり方をした」といいます。子供たちを叱ったのはただ一度きりで、娘たちも父に叱られたという記憶はそれ以外にないそうです。「女の子十になりけり梅の花」――長女である静江さんが10歳の時に夏目漱石が書き贈った色紙には、「梅の花」が字ではなく、絵で描かれています。

 その静江さんは、病に倒れた樗陰が中央公論社を退く決意をする直前に、秋田の素封家のもとに嫁ぎました。病状がいよいよ悪化してきた樗陰のことが気がかりで、静江さんは結婚式の3週間後に一時帰京の途につきます。父との再会を胸に描きながら、自宅の近所まで来たところ、電柱に「滝田家」と書いた黒枠の紙が貼ってあるのに気づきます。樗陰が亡くなったのは、汽車が秋田を出る直前だったというのです。今回の寄贈品を、ここまで大切に保管してきたのは、その静江さんの次女である諏訪間園井(すわまそのい)さんでした。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*滝田樗陰については杉森久英『滝田樗陰』に拠りました
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