Kangaeruhito HTML Mail Magazine 479
 
 愚者と賢者
 
 毎年この季節になると、大学を退職していく先生方から「最終講義」の案内が届きます。こうした習慣は欧米には例がなく、特殊日本的なものだと言われていますが、学徒としての来し方を振り返りつつ、後進の研究者に希望を託し、親しんだキャンパスに別れを告げる――という年中行事は決して悪くないものだと常々感じています。

 最初にその機会に立ち会ったのは、2008年末に亡くなった永井陽之助さん(東京工業大学名誉教授・国際政治学)の最終講義の時でした。1985年2月9日、寒い雨のそぼ降る日だったことを覚えています。「二十世紀と共に生きて」と題されたその講義は、文字通り、氏の思索の遍歴を辿りながら、自分が生きてきた二十世紀という時代の意味と、そこにおける「知」のあり方を問う根源的な議論でした。政治学の枠組みだけにとどまらず、哲学、文学、社会学、人類学、精神医学、生物学など他分野の学問的成果を縦横に駆使しながら、熱のこもった、そして話者の人間的な魅力を存分に伝える濃密なひと時でした。

 後に、デーヴィッド・リースマン、エドウィン・O・ライシャワーをはじめとする内外の有識者45人が寄稿して、氏の退官記念論文集(『二十世紀の遺産』、文藝春秋)が編まれた際には、この時の講義も収録されました。久しぶりに読み返してみると、「結び」にこんな言葉があります。
 
〈われわれは、よりよい状態(理想)を夢見て、この地上に楽園を創りだそうとするまえに、より悪しき状態におちこむことを回避し、現実を少しでもより耐えやすいものにするには、何をなすべきか、また何をなすべきではないかを真剣に考えるべきときなのである〉
 
 この文章の直前には、「私がいま、つぎの世代に望むことは、二十世紀とは……おぞましい野蛮の時代であったと、あわれみの情をもって描いてくれ、ということである。かりにも、二十世紀が、二十一世紀にくらべたら、まだしもパラダイスであったと、羨むようなことが、ゆめゆめあってはならない。それは、これから十五年間、われわれが何をするか、何をしないかにかかっている」と記されていました。

 思えば、1985年という年は、3月にゴルバチョフ政権がソ連に誕生して、東西冷戦の終結、そしてソ連解体に向けて大きく動き出した年でした。また、9月にはG5(先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)において、「ドル高是正」のための協調介入と政策調整を図る「プラザ合意」が成立しています。まさに、この年が国際政治経済秩序の歴史的な転換点となったのでした。大岡山キャンパスの階段教室で、その時、最終講義を聞きながら自分がどのような近未来像を思い描いていたのか、いまではまったく思い出せませんが……。

 さて今年は、その永井陽之助さんの衣鉢を広い意味で受け継ぎながら、日本の言論界をリードしてきた論客たちが、次々に大学を去ろうとしています。私がお世話になった方々に限っても、北岡伸一さん、御厨貴さん、田中明彦さん、山内昌之さんといった第一線の人たちが3月で一斉に退職します。その中のひとり、北岡伸一さん(東京大学大学院法学政治学研究科教授)が、先週26日の午後3時から東大・本郷キャンパスで最終講義を行いました。門下生・OBに加えて、研究者、メディア・出版関係者、外務省・防衛省の関係者など、多数の聴講者が大教室を埋め尽くしました。

 北岡さんと最初に会ったのは、『日本陸軍と大陸政策』(東京大学出版会、1978年)に次ぐ2番目の著書『清沢洌』(中公新書、1987年)が刊行された直後のことでした。この本を担当した先輩編集者(故人)が「これまで自分が手がけてきた仕事のなかでも抜群に面白かった」と満足そうに話していた通り、1920年代から敗戦直前まで、国際問題の評論家として活躍した、在野の知米派リベラリストの肖像を、当時の時代背景とともに生き生きと描き出した快作でした。この作品によってたちまちサントリー学芸賞を受賞。少壮の政治学者が、颯爽と舞台に駆け上がってきた観がありました。

 以後、1996年には『自民党 政権党の38年』で吉野作造賞を受賞するなど、研究と評論の両面でめざましい活動が続きました。また、2004年4月から2006年9月までの約2年半は、東大法学部教授の職を一時離れて、国連次席大使としてニューヨークに赴任。その後も、日中歴史共同研究日本側座長や、「いわゆる『密約』問題に関する有識者委員会」座長などの困難な責務を果たすなど、行くところ可ならざるはなしといったマルチの活躍ぶりでした。

 東大では、1997年以来、日本政治外交史の講座を担当していました。初代が吉野作造、そして岡義武、三谷太一郎と引き継がれてきた伝統ある学科です。北岡さん自らも、「大学で教える科目の中に無駄なものは何ひとつないはずだが、その中でもことさら重要な課目だと自負している」と語り、政治学の基礎であると位置づけています。 

 最終講義のタイトルは「日本における政権交代と外交転換」でした。言うまでもなく、2009年9月に起きた民主党政権の誕生と鳩山内閣の成立に触発されたテーマです。ただし、これをストレートに論じるというのではなく、講座の趣旨にそって、帝国議会開設以来、今日にいたるまでのさまざまな過去の事例を概観しながら、先人たちの成功例、失敗例を検証する形で議論が進められました。受講者の関心の持ち方にもよると思いますが、私にとっては「日米戦争の思想的起源」(北岡)となった、第一次近衛文麿内閣での「東亜新秩序声明」(1938年11月)の致命的な過ち、対照的に1960年の日米安保条約改定を周到に準備した岸信介内閣の戦略的なアプローチ、あるいは北岡さん自身が政治史を学び始めた時期に進展していた佐藤栄作内閣での沖縄返還に向けた外交転換のドラマなどが、とりわけ面白く感じられました。

 そして、これらの考察から導かれるところは、成功した外交政策に共通しているのは、世界の動きを正確に捉えた上で、それを日本にどう利用するか、あるいは自らの政治生命といかにうまく重ね合わせるか、について明確な戦略を描いていたという点です。また、その道筋を可能にする党内の政治基盤を整え、強い意志と自覚をもって現実を動かしていたという点です。当然といえばその通りかもしれませんが、これが「言うは易く行うは難し」であるのは、多くの失敗例からあぶりだされるところです。

 したがって、具体的な言及こそありませんでしたが、民主党政権の誕生によって図られたドラスティックな外交政策の転換が、はたしてどれほど国際情勢の入念な分析に基づくものであったのか、またその理想追求に向けてどういう戦略的な青写真が描かれていたのか。さらには、それを実現するための「政治主導」の基盤がいかなるものであったのか、等々。明言されないまでも、すでに答えが出ているように思われました。

 北岡さんの在学生に対するメッセージは、「先人たちの行為の中には成功もあれば、失敗もある。決断もあれば、不決断もあった。それを学ぶことが、これからの日本を担う君たちの義務だ」というものでした。

 思い起こすのは、永井陽之助さんが好んだビスマルクの警句です。「愚者は自分の経験に学び、賢者は他人の経験に学ぶ」。

 そしてまた、永井さんの文章でいえば、最終講義とほぼ同時期に書かれた名言が、最近しばしば頭をよぎります。「戦略の本質とはなにか、と訊かれたら、私は躊躇なく、『自己のもつ手段の限界に見あった次元に、政策目標の水準をさげる政治的英知である』と答えたい。古来、多くの愚行は、このことを忘れた結果である」(『現代と戦略』文藝春秋)。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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