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古沢和宏『痕跡本のすすめ』(太田出版)

本をめぐる旅の記録

 2年ほど前、ロシア・ポーランド文学者の沼野充義さん(東京大学大学院人文社会系研究科教授・現代文芸論)と電話で話していた時のことです。氏の学科にロシア文学の勉強に来ていた韓国からの留学生が、帰国に際して神保町の古書店で、日本語のロシア文学関係の書籍をまとめ買いしていったそうです。すると、その中の1冊に1974年5月の日付で、故K教授のゼミの「履修願」が10枚くらい束になって挟まっていたというのです。ソウルに学会で行った沼野さんが、それを元留学生から渡されました。見ると、そこには氏をはじめ、私やその他の懐かしい顔ぶれが揃っていたそうです。おそらくK教授が亡くなった時に、処分された蔵書の中に紛れ込んでいたのでしょう。

 ほどなくして、それが沼野氏から送られてきました。たしかに私の履修願でした。クラス名、学生証番号も思いあたりますし、そのゼミのことも覚えています。ただ不思議なのは、どう見てもそこに書かれている文字が自分の筆跡ではないのです。誰かに代筆してもらったのでしょうか。さらに言えば、このゼミの存在ははっきり記憶しているものの、結局一度も出席しなかったような気がするのです。講義を聞いている自分の姿がまったく思い浮かびません。はてさて、どうだったのでしょうか?

 こうして、いきなり40年近くも昔の「証拠品」を突き付けられて、眠り込んでいた記憶の扉が、ほんのわずかにせよ開かれました。軽い興奮がありました。古本はこのように、時々本そのものの内容とは別に、予期せぬサイドストーリーで人を楽しませてくれることがあります。きわめて個人的な手紙が挟まっていたり、思わず笑ってしまうような鋭いツッコミが書き込まれていたり、為書とともに本の贈り主の思いが添えられていたり、前の所有者は一体どういう気持ちでこれを書いたり眺めたりしていたのだろうかと、見えない相手との架空の対話が始まります。

 とはいえ、一般的にはアンダーライン、感想、メモなどの書き込み、ページの切り取り、破れ、貼り込み、傷、汚れ、シミ、ヤケなどというものは、古本の値打ちを下げるマイナス要因とみなされています。「函ナシ、帯ナシ、カバーなし」などと同様に、古書としては難のある「落ちこぼれ品」として扱われ、「100円均一棚」に回されるのが関の山です。ところが、それにコペルニクス的転回をもたらしたのが、本書の著者なのです。愛知県犬山市で「古書 五っ葉文庫」を経営している、1979年生まれの古書店主。本好きが嵩じて古本屋になったわけではない、というのですが、ある1冊との出会いが彼の人生を変えました。自ら「痕跡本」と命名したカテゴリー――すなわち、前の持ち主の「痕跡」が残された本との強烈な出会いがあったのです。
 
〈そう、すべての古本には、前の持ち主がその本と過ごした時間という「物語」が刻まれているのです。
 それが目に見える形で残されているもの、それが痕跡本。
 そこには、本の内容だけじゃない、前の持ち主と本を巡る、世界でたったひとつだけの物語が刻まれています〉
 
 つまり、これまでマイナス材料と考えられ、誰からもその価値を認められてこなかった「痕跡」にこそ、古本ならではの魅力があるはずだと、著者は指摘しています。「たとえば、本文のとある部分に線が引かれていたり、感想が書かれていたり、といった書き込み。あるいは、突然ページの間からひらりと現れる手紙やメモ、あるいはレシートなど、前の持ち主の生活模様が見えてくるような、挟み込み」。そうした「痕跡」に隠された謎を読み解くことによって、かつての所有者がその本とどのような時間を過ごしたのか、という物語を想像する――これほどワクワクして楽しいことはないでしょう、と。

 しかも「推理小説と決定的に違う点」は、正解がどこまでいっても分からないところです。もともと誰かに読み解かれることを前提にしていませんから、痕跡の謎はどこまで追いかけても、永遠に答えは出てきません。言いかえれば、想像する人それぞれによって、痕跡にまつわる物語はいく通りものバリエーションが考えられるというわけです。

 これを要するに、従来は「傷」として否定され、市場からも敬遠されてきた痕跡こそ、実は汲めども尽きない宝物なのだという価値体系の転換が図られているのです。

 さまざまな実例が登場します。たとえば『世界童話文学全集1 ギリシア神話』(講談社、1960年)という本には、ミノルタのカメラの保証書が挟まれていました。その余白には短歌が一首――。
 

「初めてに買ってもらひし皮靴の いたまぬままに夫は居ませじ」

 児童書には似つかわしくない歌の内容ですが、この痕跡には謎を解くヒントがひとつありました。それは本の発行日が「昭和35年5月10日」なのに対して、カメラの保証書にある購入日が「1979年11月」となっていたのです。つまり。その間には19年の歳月が流れているわけです。だとすれば、仮に小学校1年生(6歳)の時に手にした本であるならば、短歌を詠んだのは25歳。ここから、著者の妄想が全開します。
 
〈――お見合い結婚の私たち。はじめはぎこちなかった関係も、時が経つにつれ、だんだんわかり合えるようになってきました。結婚して3年目、私の誕生日に夫がプレゼントしてくれたもの、それはシックな革靴でした。今まではずっと宝石類やアクセサリーばかりだったのに、何故? と聞くと、夫は照れながら、「もうそろそろ目を魅くだけの宝石じゃなく、ふたりで歩いていくためのもののほうがいいかな、と思って」と。
 そんなゆったりした生活の中、突然に訪れた不幸。私が革靴を、もったいない、とまだ数回も履かないうちに、夫は帰らぬ人となってしまった――〉
 
 かの森鴎外は、「武鑑」という江戸時代の武家人名録の古書蒐集をしていた折に、しばしば「弘前医官渋江氏蔵書記」という蔵書印のあることに感興を得て、史伝小説『渋江抽斎』を書き上げました。文豪ならずとも、本の「痕跡」からかつての所有者の物語を編むことは、たしかに可能です。

 次は『東京ディズニーランド ハンディガイド』(講談社、1997年)。これには5枚の付箋が貼られていました。うち4枚までがレストランページの「和、洋、中、カレーの店」のチェックに用いられ、残りの1枚がエレクトリカルパレードのコース解説に貼られていました。となると、これはデート目的のものだったのでは、と妄想がまた膨らみます。
 
〈まだ付き合いはじめて日の浅い彼女との初デート。そこで、彼女の願いはすべて叶え、そして何があってもすぐに対応できる、そんな「頼れる男」となるべく準備をした痕跡〉
 
 かと思えば、馴染みの古書店員が「これ、ちょっと気持ち悪いですよね……」と言いながら見せてくれたホラー漫画。針のようなものでめった刺しにされた傷跡(しかも相当な力をこめて)が生々しく残っている『まだらの卵』(日野日出志、ひばり書房、1988年)。
 
 
〈深いところでは20ページ目にまで達している始末。1ページ目などは刺されすぎて欠損している箇所も。表紙の裏側など、厚紙だから針で刺された部分がぶつぶつと浮き出て、しかもそこに時間の流れによる染みができて黄色く変色し、まるで鳥肌のような皮膚感覚。……一体何があったというのでしょうか〉
 
 何かの怨みを晴らそうとしたのか、誰かに呪いを込めようとしたのか。「世界一怖いホラー漫画」と、この本を見た人がつぶやいたそうです。著者が「痕跡本」にのめり込むきっかけとなったのは、この本がまとっている得体の知れないオーラに打ちのめされたからだと記しています。

 訳が分からない本としては、「ああ無情の威を借る三銃士」の例が紹介されています。どういうものかといえば、『ああ無情』の表紙をめくると、そこに現れるのが『三銃士』。つまり、表紙だけを残して『ああ無情』の本体がごっそりと抜き取られ、そこにソフトカバーの『三銃士』がジャストフィットで収まっているという不思議な本。外から見ただけでは何の違和感もないカモフラージュ本です。
 

 思い出すのは、黒岩比佐子さんが『パンとペン』の取材中に出会ったクロポトキンの『麺麭(パン)の略取』の偽装本です(「考える本棚」HTML版No.418参照)。神田の古書即売会で黒岩さんが見つけたその本は、幸徳秋水訳の発禁本『麺麭の略取』に新渡戸稲造の『武士道』の表紙をつけて、誰かが巧みに偽装したものでした。ただ、それは社会主義者が徹底的にマークされていた、当時の時代背景を考えれば合点がいきます。ところが『三銃士』のどこに問題があるのか、著者ならずとも見当がつきません。

 あるいは、『体脂肪を減らしてきれいにやせる!』(荒牧麻子、女子栄養大学出版部、1998年)という本には、本の内容と対をなす筋トレメニューのメモが挟まれていました。ただ、他にも紙があっただろうに、それは「娘の小テストの裏」を使って書かれていました。きっとこのお母さんは「熱しやすく冷めやすいタイプ」に違いない、と著者は見立てます。そして、この子の小テストは、他の本にも挟まって、全国津々浦々、古本屋の店先に並んでいるかもしれない、と。

 また、かつての持ち主の「がむしゃらな勉強ぶり、読書ぶり」がストレートに伝わってくる1冊もありました。「特に余白を埋め尽くす程の注釈と、何色ものボールペンを駆使しながらの書き込み」が「圧巻の一言」だという『空想から科学へ』(エンゲルス、岩波文庫、1960年)。本にとっては、まさに本望と言えそうなくらい、ボロボロになるまで読み込まれた産物。こうした圧倒的な痕跡を前にすると、目がそちらにばかり奪われて、もう本の中身はどうでもよくなる、と著者は述べます。
 
〈正直に言って、内容には興味ありませんし、書き込みを含めて本文を読むことはこの先もずっとないだろうと思います。でもこの本は、ついついことあるごとに手にしてしまいます。それは、さながら守護霊のように、前の持ち主の読書の興奮が消えることなくこの本に宿っているからなのかもしれません。この本は、存在そのものが読書の記憶の痕跡なのです〉
 
 こうして見てくると、痕跡本とは本をめぐる旅の記録だということがよく分かります。前の持ち主が何らかの理由でその本を手に取り、ある時間を共に過ごします。それが何らかの理由で持ち主の手を離れ、やがて古本屋へ流れ着くという物語。その痕跡は、まるで海に流された壜の中の手紙のように思えます。あるいは持ち主一人ひとりから送られた、新刊書店における「手書きポップ」のような呼びかけかもしれません。

 さて、すっかり本書で「痕跡」に気を取られてしまったその矢先に、「考える人」の連載「考える短歌」で、次回(4月4日発売号)の優秀作に選ばれた一首を読みました。

「はじめてのキスの記念の花びらを1023ページに挟む」(柏市 トヨタエリ)

 俵万智さんの選評にはこうあります。「その場所に落ちていた花びらだろうか。記念にしようという心が初々しい。『1023ページ』を選んだのには、1、2、3という数字の並びに恋のゆくえを託したのだろう。123ページでもよさそうだが、分厚い本で、押し花にしたのだということが、この数字で伝わるところがミソ」と。

 ただ、こうして大切にしまわれた思い出が、いつの間にか忘れ去られ、やがてこの本が持ち主の手元を去り、長い旅の末に、どこかの古書店の店先に痕跡本として並べられる。押し花が「挟み込み」となって。その時、「初々しい」と言われた彼女は何をしているのか……なんていうのは、少し先走り過ぎた妄想かもしれません。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
*写真提供・太田出版
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