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坪内祐三『探訪記者松崎天民』(筑摩書房)

心眼のジャーナリスト

 大らかというべきか、型破りというか。いずれにせよ、これほど愉快で痛快な本というのも、めったにお目にかかれるものではありません。3部構成からなる本書は、もともと筑摩書房のPR誌「ちくま」に連載されていたもので、初出は次の通りです。

 第一部 1996年4月号~1997年3月号
 第二部 2001年3月号~2002年2月号
 第三部・エピローグ 2010年4月号~2011年7月号

 すぐにお分かりいただけるように、2度にわたる長期の中断をはさんで、計40回におよぶ連載をまとめたものが本書です。それがいかに異例の企画であったのか――。まずは第三部の書き出しをお読み下さい。
 
〈久し振りの松崎天民である。
 と、こう書いてみたら、この書き出しに記憶がある。
 調べてみるとそれは『ちくま』二〇〇一年三月号だ(つまりもう九年も前のことだ)。
 その号から始まった連載「続・探訪記者松崎天民」の書き出しを引用する。
《久し振りの松崎天民である。
 どれぐらい久し振りかと思って調べてみると、前回の連載(「探訪記者松崎天民」)の最終回が載ったのは、『ちくま』の一九九七年三月号だから、ちょうど丸四年振りのことである》
 それからさらに九年というわけだから、最初からカウントすれば十四年。凄い歳月だ(小学校に入学したばかりの子供が成人式を迎える年月だ)〉
 
 こうして再開された連載がフィニッシュを迎えるまでに、15年余りの時間が費やされました。「その間、天民のことばかり考えていたわけではないが、もちろん、気になってはいた」という、悠揚迫らざる弁明に、思わずニヤリとさせられるのがこの本の魔術です。そして、この気負いのないテーマへの向き合い方と、一方で歴史の陰に埋もれた「異才」の足蹟をできるだけ具体的に再現しようという情熱、またその追跡調査のプロセスや息遣いまでをも叙述していこうとするスタイルが、いかにも松崎天民という人物を描くにふさわしい手法であることに気づかされます。つまり、この本の成り立ちや構え方、そして書き方そのものが、松崎天民という「おそらく誰も知らない」人物評伝にかなっているという面白さ。それが本書の特徴です。

 さて松崎天民といえば、読書人にとっては1920年代のモダン都市・東京を活写した『銀座』(中公文庫・ちくま学芸文庫)の著者として、『銀座細見』(中公文庫)の安藤更生や、『明治大正見聞史』(中公文庫)の生方敏郎らとともに記憶に残る名前です。しかし、それ以外の彼の実像はというと、知りたくともほとんど手がかりがないという状態が続きました。その天民に、ふとしたきっかけで著者は心を動かされます。もともと「明治大正の面白人物」に興味を持ち続けていた著者は、ある天民の紹介文と彼のトボケた表情の写真を目にして、「彼の著作をもっともっと読んでみたい」と改めて関心を抱いたのです。そして、入手が困難であった彼の膨大な著作を、古書店や早稲田大学中央図書館の「西垣文庫」という「近代日本のジャーナリズム及び都市風俗資料の宝庫」で探し出し、「気がつくと私は天民にはまっていた」のです。

 ところで、偶然のことながら私も松崎天民という人物が何かしら気になる存在でした。というのも、かつて勤めていた中央公論社が1986年に創業100年を迎えた際に、天民が「中央公論」に寄稿したいくつかの作品を読む機会があったからです。中でも「新聞記者懺悔録」(大正12年6月号~9月号)という自伝的な文章は、当時の時代相が生き生きと伝わってくる貴重な手記でした。

 時の編集長であった滝田樗陰(名編集長として名を馳せた)は、「中央公論」の部数拡張のために一計を案じていました。すなわち、表看板である時事論文(吉野作造のデモクラシー論など)や創作欄(文壇の大家たちの力作)だけでは正直「肩の凝るものばかり」なので、「能の間に狂言がはさまれるように」、寝ころんで気楽に読めるくだけた読み物が必要だと考えていました。そこで、新たに開拓したのが「中間読み物」というジャンルでした(杉森久英『滝田樗陰』中公新書)。
 
〈中間読み物には、それにふさわしい作家のグループがあった。松崎天民・生方敏郎・田中貢太郎・村松梢風などである。この人たちは、あるいは社会の下層にうごめく淫売婦の生態をえがいたり、珍しい犯罪や裁判事件の内情を調べたり、政界や官界の裏面をあばいたりして、読者の興味をひくような記事を書いた。これらは、今日でいえば新聞の社会欄や週刊誌のルポ記事に当たり……実際のところ、そのころの『中央公論』で一番よく読まれたのは……これらの軽い読み物だったのである。
 滝田樗陰もまた、このことをよく心得ていて、下谷界隈の花街を飲み歩くときは、いつもこの人たちを同伴していた。おそらくこの人たちは、文壇の大家や学者・評論家のように、見識ぶったり、気取ったりしていないので、樗陰にも気楽につきあえたのであろうし、酒の席で談笑しているうちに、次の号のいい企画が生まれるという一徳もあったものであろう。樗陰はよく、
「松崎さん。あなたは十円出しなさい。残りは全部私が持ちましょう。ひとつ、今夜は愉快にやろうじゃないですか」
 このようにいって、松崎天民たちを誘ったものだという。彼らはまた、中央公論社をまるで自分たちのクラブのようにして、年じゅうあそびに来てぶらぶらしており、夕方になると、樗陰といっしょに飲みに出かけるのであった〉(前掲書)
 
 当然、周囲にはこういう付き合いを快く思っていない人たちがいて、樗陰の死後、天民らに原稿を依頼しないことが最初の「申し合わせ」事項になったとさえ言われています。ともあれ、樗陰の英断によって、天民はルポ記事で本領を発揮しただけでなく、『淪落の女』という小説でもデビューを果たし、売れっ子作家の仲間入りを果たしていくのです。

 そういう天民の活躍ぶりは知っていましたが、本書を読んで初めて彼の背景や、文筆活動の全体像を知ることができました。1878年(明治11年)、岡山県県北の没落した名家の生まれ。高等小学校2年を中退すると、社会に出てさまざまな職業を遍歴します。貸本の行商、村役場の書記兼受付、牛乳配達、タバコ工場勤務、新聞配達、労働組合の書記、人力車夫、等々です。そういう中にあって、「作文だけはいつも百点だった」という少年は、いつしか「新聞記者になりたい」と夢を育みます。そして、「大阪新報」を皮切りに、「大阪朝日」、徳富蘇峰の「国民新聞」、「東京朝日」などを渡り歩きながら、もっぱら「探訪記者」を務めます。

 探訪記者とは、身軽に町へ飛び出して、面白そうな社会ネタを記事に仕立てる雑報担当です。天民は私娼窟や貧民街の木賃宿、盲唖院や精神病院に果敢に潜入して体験ルポを試みます。あるいは「現代の女学生」気質を考現学的に観察したかと思えば、大逆事件の死刑囚の様子を生々しく描くなど、硬軟取り混ぜた記事をものします。「『人に逢ふ』それが既に、一つの仕事なのであつた」と言い、自らの肉声や実感をにじませた「小説と雑報」の間をゆくような独自のスタイルを確立します。「国民新聞」に連載した「木賃宿通信」は、こんな調子です。
 
〈木賃宿町に在る一膳飯屋の汚穢(きたな)いことは、予(かね)て想像して居たけれど、来て見ればより以上の汚なさ穢はしさ、醜と言はうか怪と言はうか、さすがの自分も驚いた。庭の広さは四坪も有らうか、壁から天井へ掛けて一面の煤だらけ、棚には壊れた膳やら、茶碗やら、白い物と言つては、「込みあひの節は御待ち下されたく候」とした柱に張つた紙片ればかり、酒が何処に置いて有るやら、肴が何に入れてあるやら、黒くて暗くて更に判らぬ〉

〈序だから記して置く、富川町三千の労働者が、風呂に入るのは五日に一度位、理髪をするのは二月に一度、多くは年に四回位しか床屋の鏡を見ないと言ふ。此の労働者を得意とする湯屋には、朝日湯とてスプリング薬湯の有る家と、他に二三軒、床屋では高橋、辻床なんぞ普通の所と変りなく、立派に店を構へて居る。湯銭は普通の通り二銭五厘、理髪は十銭、髭剃五銭、最も繁昌して居るのは、高橋といふ床屋であつた。毎日金を儲けても、食うと寝る方が大切なので、湯銭の二銭五厘もなかなか惜しく、理髪の十銭に至つては、容易に思ひ切りが付かねえので、多くは蓬頭乱髪の穢い姿、人間らしい根性が、段々薄くなるのも無理は無い〉
 
 天民の記事は具体的な事物の観察力、会話の再現に秀でていて、生活空間をリアルにとらえているところが特徴です。学歴もなく、さまざまな職業を経験した叩き上げの来歴が、妙なイデオロギーに目を曇らされることのない、彼のリアリズムを形成しています。表現はしばしばセンチメンタルで文学的ですが、自分に正直なところが天民の天民たる魅力です。決して志操堅固でもなければ、小心者で臆病なくせに、どこか憎めない愛敬があって、俗っぽい野次馬ではあるけれども、卑俗とは無縁の、一本筋の通った「どぶ板ジャーナリスト」。

 その真骨頂はいくつもの事例で示されています。足尾鉱毒問題で注目された谷中村の強制破壊をめぐる現地ルポも典型です。その場には『谷中村滅亡史』(岩波文庫)を一気に書き上げる20歳の「平民新聞」記者、荒畑寒村も来ていました。彼は強制破壊が実行された日のことを、こう書いています。
 
〈あゝ、記憶せよ万邦の民、明治四十年六月二十九日は、これ日本政府が谷中村を滅ぼせし日なるを〉
〈かくて遂に二十九日は来れり、植松第四部長の率ふる破壊隊二百余名は、午前八時恵下野佐山梅吉方より破壊に着く〉
 
 漢文調の引き締まった文体です。一方の天民はこんな文章です。
 
〈六月二十九日午前八時、薄雲の空にソヨとの風も吹かぬ。旧谷中村大字恵下野六十六番地、佐山梅吉(四十五)の住宅は、強制執行第一日の門出に破壊されるのだ〉
 
 この現場に立ち会っていた田中正造の言葉も、両者はともに書き記しています。しかし、寒村が自分の文体に落とし込んで描いているのに対して、天民は田中の怒りに震える口調をそのままに、リアルに再現しています。「どちらの方がジャーナリスティックで臨場感があるかと言えば、それはやはり松崎天民の方だ。……むしろ、明治四十年代にあって、このようなノンフィクション文体を持っていた天民はとても新しかったのではないか」と著者は天民に軍配を上げます。

 あるいはその数年後の大事件――明治43年5月に起きた大逆事件では、翌年1月に被告26名に対する判決が下されます。その中で唯一の女性被告、管野すがに死刑判決が言い渡された瞬間を、天民は目撃して報じます。また刑が執行された内山愚童の遺体を追うと、関係者になりすまして落合の火葬場にまで入り込み、臨場感あふれるスクープを放ちます。当時、「東京朝日」の同僚だった石川啄木に衝撃を与えたという一文です。ツキも実力のうち、とはよく言いますが、「天民の後ろ姿を追っているだけで、歴史の貴重な瞬間の匂いをかぐことが出来る」という勘の良さにも天才的なところがありました。

 このように「根っからのジャーナリスト」である天民の多面的な活躍、またその文章の新しさを描きながら、同時に彼を取り巻く逸材たちの興味深いエピソードもふんだんに紹介していきます。新聞・雑誌メディアの揺籃期に異彩を放った彼らもまた、天民と同じく歴史の中に埋没している存在です。天民の再発見をきっかけに、こうした知られざる宝が掘り起こされていることも、本書のもうひとつの楽しみです。

 生涯に30冊ほどの著作をものした天民は、明治から大正にかけての変転目まぐるしい時代の貴重な観察者となりました。大正3年に東京朝日を去った後も、新聞ジャーナリズムとは常に関わりを持ちながら、雑誌の人気ライターとして都市風俗のリポートなどで健筆をふるい続けます。また第2期の雑誌「食道楽」の編集兼発行兼印刷人として、食の大衆化時代の渦中の人ともなりました。それらを要するに、天民は時代感覚の鋭い「天性のジャーナリスト」であったというのが、著者の思いです。そして、彼を語る際の“勲章”は、もとより「探訪記者」という称号であるはずです。幼い頃から極度の近視だった彼の武器は、心の眼に映じたその時代、その場面の「実感」なのでした。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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