瀧口範子
text by Takiguchi Noriko
「シリコンバレー通信」

 先だって、サンフランシスコからヨーロッパ行きの飛行機に乗った時のこと。隣の初老の夫婦がそろって、電子書籍リーダーの「キンドル」を手にして読書に熱中しているのに感心した。
 この夫婦は年のころ七十歳前後か。ご主人が持っているのは新しい機種の「キンドル2」、夫人はオリジナル機種の「キンドル1」である。ご主人が今年二月に発売された新機種を買い、それまで使っていたお古を夫人にお下がりとしてあげたのだろう。二人はいかにも旅慣れた様子の軽装で、リタイア後の人生を方々への旅行に費やし、その熱心な読書の様子から鑑みるに、キンドルはそのお伴として欠かせない存在であるようだった。
 感慨深かったのは「いろいろな人がこうやってキンドルを使うようになったのだなあ」ということもあるが、この二人がもう何年も前からそうして本を読んできたかのように、実に自然に使いこなしていたことが理由だ。新しい方法で本を読むことが、もはや大げさな事件ではなく、ごく普通のことになっているのだ。二人の座席からは、飛行中ずっとキンドルのページを繰るカチ、カチという小さな音が聞こえていた。
「キンドル」は、デジタル化された本を読むために作られた専門の道具である。キンドル以外にも、電子書籍リーダーはソニー製のものなど含めていくつかあるが、アメリカのアマゾンが開発、製造したキンドルは、その使い勝手の良さで電子書籍リーダーをようやく市場に定着させる役割を果たしている。オリジナル版のキンドル1が発売されたのは二〇〇七年十一月だが、最近は方々でキンドル・ユーザーを目にするようになった。
 キンドルの説明をする前に、「キンドルは、コンピュータで本を読むのとどう違うのか」という点に触れておきたい。コンピュータを利用している方なら、新聞をインターネット上で読んだり、音楽ファイルをダウンロードしたり、ビデオを見たりしたことはあるだろう。
 そんなデジタル・コンテンツの中で、実はインターネットへの進出が遅れていたのが、最も古いメディアのひとつである書籍だったのだが、最近は急速にデジタル化が進んでいる。コンピュータでも読めるはずなのに、どうしてキンドルが必要なのか。その理由はふたつだ。
 ひとつは、ディスプレイ。ソニーのリーダーも同様だが、キンドルのディスプレイにはイーインク社が開発した電子ペーパー技術が用いられている。コンピュータやテレビのような発光型とは違って、紙と同じように光の反射で文字を読む技術である。
 電子ペーパーは、ちょうど紙の上の鉛筆やインクの粒子を、フィルムに挟まれた超ミクロな電子粒子に替えたものと考えればいい。電子粒子の中にはさらに小さな白黒の色素が入っていて、それが電流とソフトウェアの制御によって動くことで白黒のトーンを表現する。現在白黒の間で16トーンを表現でき、かなり微妙な文字や線画の調子まで醸し出す。コンピュータのディスプレイと違って、これが大変に文字を読みやすくし、目にも優しいのである。
 もうひとつの理由は、電池の持ちがいいことだ。電子ペーパーでは、主に電気を消費するのはページを繰る時だけ。通常の読書をするのならば最長で2週間電池が持つ。速読派なら短くなるかもしれないが、それでも1度の充電で数千ページが繰れる。5、6時間ごとに電池が切れてしまうラップトップ・コンピュータとは大違いで、電池の残量を気にすることなく、ゆっくりと読書に耽ることができるのはありがたい。こうしたことが、専用デバイスとしての電子書籍リーダーが評価されている点だ。

 さて、実際にキンドルを使ってみよう。
 キンドルは現在のところ、アマゾンのサイトからしか購入できない(日本では未発売)。最新のキンドル2は299ドル。サイズはA5版ほどで、厚みは9ミリ。重さは316グラムと軽量だ。日本の単行本よりは、遥かにコンパクトだ。
 キンドルが届いたら、さっそく本のコンテンツを手に入れよう。キンドルから「キンドル・ストアー」にアクセスし、現在30万冊あるデジタル書籍のセレクションの中から買いたい本を選んでクリックする。それだけで、本の購入は完了。分厚い小説でも1分以内にダウンロードできるので、待ちに待った本ならばすぐに読み始めることができる。キンドル2には本を1500冊以上、後述するキンドルDXには何と3500冊保存することが可能だ。
 実は、キンドルが優れているのはこの通信機能である。キンドルには携帯電話3Gの通信機能が内蔵されていて、キンドル単体でコンテンツをダウンロードできる。まずコンピュータにダウンロードし、その後キンドルを接続してデータを転送するといった手間がないのだ。しかも、通信料はデジタル書籍代に含まれていて、通信会社と別契約を結ぶ必要もない。キンドルさえ持っていれば、出先で思いついた時にストアーにアクセスして本が買えるという気軽さは、まさにモバイル時代の読書スタイルを象徴するものだ。
 いったん本をダウンロードすると、あとはページを繰って読んでいくだけだ。だが、デジタル・デバイスならではの機能もいくつかある。たとえば、わからない単語にカーソルを合わせれば、自動的に辞書を呼び出してその意味を表示する。あるいは、特定の箇所にメモを書き込みたければ、それも可能だ。メモは後で呼び出すこともできるし、書いたメモを後でまとめて見ることもできる。
 文字の大きさは6段階に調節可能。そして、本文中の単語やフレーズを検索したり、本を音声で聴く自動音声読み上げ機能もある。若干ロボット的な声だが、オーディオブックのようにキンドルに耳を傾けながら、他の用事をすませるということもできるだろう。
 キンドルで読めるのは本だけではなく、新聞や雑誌、漫画なども含まれている。キンドル自体の価格はやや高めだが、デジタル書籍の価格や新聞などの購読料はかなり安く設定されている。アメリカでは新刊本のハードカバーが25ドル程度するのだが、キンドル・ストアーでは同じものがたいていは9ドル99セントで買える。20冊もキンドル本を買えば元が取れる計算だ。

 新聞の場合は、ニューヨーク・タイムズで1ヶ月の購読料が13ドル99セント、週刊誌ニューズウィークはやはり1ヶ月たったの1ドル49セントだ。こうしたコンテンツの破格な安さも、キンドル人気に一役買っている。新聞など、朝目覚める時間には、その日のコンテンツが自動的にダウンロードされているという細やかな心遣いまである。
 デジタル書籍がこんなに安いのは、出版社にとって印刷や流通などのコストがかかっていないことが理由だ。アマゾンもキンドルを広めるために、幾分かの出血サービスをしているらしい。ただ、今後デジタル書籍が主流になっていった場合、何が価格を決定する基準になるのかは議論が分かれるところだ。出版社は利ざやを稼ぐために少しでも価格を上げたいところだろう。だが消費者としては、読み終わった本を古本屋に売ったり、友人に譲ったりといったことができないのだから、安くて当たり前と見る。いろいろな要素のせめぎ合いで、デジタル書籍市場は今後少しずつ最適解へと近づいていくのだが、価格も含め、今はまだテスト走行状態と考えるべきだろう。
 テスト走行と言えば、このキンドルを開発したアマゾンはさまざまな点で実験を好む企業である。もともとはインターネット上で書籍を売るオンライン・ブックストアーとしてスタートしたが、今はオンライン・デパートと呼ばれるほどに取り扱いアイテムを広げている。だが、アマゾン創設者のジェフ・ベゾスを単に商才に長けた人物として見てはならない。彼はエンジニアとしても天才的な人物で、新しい技術でどんなことが可能になるのかに、人並みならぬ関心を抱いているのだ。ハードウェア会社でもないのに、キンドルというデバイスを開発した背景には、そんな彼のビジョンがあるのだ。
 そもそもアマゾンがスタートした一九九五年当時、本屋に行かず、インターネットで本を買うなんて、と疑心暗鬼の消費者も多かったが、今やクリックひとつで本を買うことは当たり前になった。人々のふるまいが変わっただけでなく、多くの書店が閉店に追い込まれた。キンドルの登場でデジタル書籍市場が確立されると、今度は出版社がビジネス・モデルの変更を迫られるはずだ。兆候はすでにある。
 たとえば、ホラー作家のスティーブン・キングは、キンドル上でしか読めない本を発表しているが、それ以前にもインターネットで一章ずつ配信する小説を売り出したことがある。デジタル書籍では、一冊の完結した本という概念が変わり、読者は連載もののように本を読むようになるかもしれない。
 デジタル書籍がもっと本格化すれば、出版自体の概念が変わる。作家が出版社をとばして直接読者に作品を売るということも、いずれ起こるかもしれない。あるいは、作家を定期購読するということもあるだろうか。数ヶ月おきに作品を読むという方法だ。調子が悪くて作品が出てこなければ、悪天候で農作物が採れなかったと思ってあきらめるしかない、とか。

 アマゾンは最近、A4版に近いキンドルの大判「キンドルDX」を発売したが、これは教科書市場に照準を合わせたものと言われている。小中高や大学でこれを備品のように生徒に配り、必要に応じてデジタル教科書をダウンロードして使うのだ。
 アマゾンの独壇場だったこの市場には、他の電子書籍リーダーも投入され始めた。ソニーの最新機種は、アマゾンと同様の通信機能に加えて、タッチスクリーンで使いやすいインターフェイスを備えている。またiPhoneや他のスマートフォン(高性能携帯電話)でデジタル書籍を読めるアプリケーションも次々と発表されている。アメリカでは書店チェーン大手のバーンズ&ノーブルが、独自の電子書籍リーダーを発売することも明らかになっている。
 さらにアップルも、近々タブレット版コンピュータを発売することが確実視されているが、これも電子書籍に対応することは間違いないだろう。専用の電子書籍リーダーではないが、予想外のおもしろい操作性で市場を驚かせるかもしれない。
 書籍のデジタル化では、確かに失うものも多い。本屋の中をブラブラと歩き回る、あの豊かな時間は、インターネットや電子書籍リーダーには再現しようもない。手の中にある一冊の本に込められた世界観を、データの容れ物にすぎない電子書籍リーダーに期待するのも無理というものだろう。
 前出のスティーブン・キングも、電子書籍と本は相互補完関係にあって、物理的な本がなくなることはないと断言する。だが、電子書籍リーダーによって、われわれが未知の読書世界へと足を踏み入れようとしているのは、ちょっと楽しみなことでもあるのだ。印刷技術発明から550年あまり。紙も印刷機も本屋もなしに読書するわれわれの姿は、グーテンベルクにはとうてい想像もできなかっただろう。