Kangaeruhito HTML Mail Magazine 491
 
 異国船漂着
 
 先週末、千葉県の外房を訪れる機会がありました。この時期にしては肌寒く、あいにくの曇り空ではありましたが、いいチャンスなので御宿町の岩和田まで足を延ばしました。ドン・ロドリゴ上陸地を確かめたい、と思ったからです。と言っても、大概の人にとっては「ドン・ロドリゴって誰?」に違いありません。私自身も、ついこの間まではそうでした。「岩和田で最も有名な外国人は、間違いなくドン・ロドリゴである」と教えられるまでは――。

 話は約400年前に遡ります。1609年(慶長14年)9月30日、岩和田にある田尻の浜に異国人317名が漂着しました。当時のスペイン領フィリピンからヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコ)へ向かう航海の途中、台風に遭い、難破した「サン・フランシスコ号」に乗り組んでいた人々でした。人口わずか300人に過ぎない小さな漁村に、いきなり見たこともないほどの紅毛碧眼が流れ着いたのです。驚天動地の出来事だったに違いありません。

 その中の一人が、ドン・ロドリゴでした。臨時総督としてフィリピンに派遣され、次期総督との交代のためにメキシコに召還命令を受けていた、大航海時代のイスパニアの植民地政治家です。ロドリゴはのちに『日本見聞録』を著し、この時の体験をイスパニア国王フェリペ3世に報告しています。命からがら陸にたどり着いた彼の目に、岩和田や村人の様子はどのように映っていたのでしょうか。
 
〈日本人五六人我等の許に來り、我等の此の如き状態を見て憐むことを言語及び動作に依りて表示せり。予は我等と共に遭難せし一人の日本人キリシタンを介して我等の在る所は何地なるかと尋ねしに、彼等は簡短に、日本にしてユバンダYubandaと稱する居村は同處より一レグワ半なりと答へたり〉

〈同村は此島の最も劣りたる村落にして、全國中最も寂しく且貧きものならんと思はる。何となれば住民三百に過ぎざる――〉
 
 ――というような事実を知ったのは、以前このメルマガ(No.459)でも取り上げた星野博美さんの『コンニャク屋漂流記』(文藝春秋)を読んだからです。星野さんが父方の祖父の郷里である岩和田の親戚と話をしていると、どうもこの漁師町の歴史を語る上で、「ロドリゴ前」と「ロドリゴ後」が重要な分岐点であるらしいと気づくのです。それほどユバンダ(岩和田)の村にとってロドリゴ上陸は、(おそらく浦賀における黒船来航に匹敵するような)重大な出来事だったというわけです。

 救助されたロドリゴら一行は、幕府の指示が下るまでの37日間、岩和田の集落に滞在しました。それから、「太子(秀忠)及び皇帝(家康)の宮廷にあがって報告をするよう申し渡され」、江戸では徳川2代目将軍に、駿府では家康に謁見しています。家康は当時、大坂の豊臣方に対し、軍事力、経済力の増強を図る目的もあって、外国貿易に関心がありました。彼は三浦按針(家康の外交顧問を務めた英国人ウィリアム・アダムス)に命じて船を造らせ、ロドリゴらの帰国のために提供します。そして、スペインとの交流拡大のための使節を同乗させ、翌年8月、彼らをメキシコへ向けて送り出すのです。

 しかし、歴史はその後、キリシタン禁制、大坂冬の陣、夏の陣、家康の死去など目まぐるしい転変が続き、やがて鎖国政策とともに交易の夢はおろか、ロドリゴの存在も歴史の闇の中に埋もれます。ところが、明治の代となり、日本が欧米諸国とのいわゆる不平等条約に苦しんでいた時に、初めての平等条約が締結されます。それが1888年(明治21年)の日墨修好通商条約でした。実現の背景には、はるか遠い昔の日墨友好の思い出がありました。そして、その“生きていた記憶”の最初のページには、317名の命を救ったユバンダという村の名前が刻まれていたのです。

 ともかく驚くのは、遭難した乗組員を迎えた岩和田の人たちの温かさです。村人たちは総出で乗組員たちを助け、女たちはその身の上話に涙したとあります。また、寒さと飢えと不安にうち震える彼らの体を、海に潜って漁をする海女たちは、自分の素肌で温めました。さらには夫たちの綿入れの着物を与え、自分たちの生活もままならないというのに、乏しい食料を分けて彼らを手厚く保護したのです。
 
〈海の厳しさを誰よりも知るのは海の民である。海という自然の脅威を前にした時、人間は誰もが平等に非力な存在だ。自分たちが日頃から海の恐ろしさを肌身で感じているからこそ、海に投げ出された異人たちを憐れんだのだろう〉

〈やはり海で生きる人間同士の間には国境がない。国や文化や言葉を超えた、独特な連帯感がある。……四〇〇年前、ドン・ロドリゴたちの乗った船がここで難破した時、岩和田の村人たちが彼らを助けたのも、そんな連帯感からだったのだろう〉
 
 こう星野さんは述べています。そして、このような海の民の気質を備え、世界史に登場した岩和田人の末裔として「私もちょっとばかり鼻が高い」と。
 

 そのロドリゴ上陸の地点に向かいました。「海洋生物環境研究所」という建物の脇の狭い道を入って海岸に抜けると、左右に張り出した断崖絶壁に囲まれるようにして「田尻の浜」がありました。前には太平洋が広がっています。ふと、そこに難破した南蛮船の姿があり、波間に積荷や材木が漂い、その中を木片にしがみついて岸をめざしてくる人々がぷかぷかと浮き沈みしている光景が目に浮かびます。肌寒くて、時折小雨のまじる曇った天候が、この幻想にはうってつけでした。
 

 少し浜から丘を登ったところには、1928年(昭和3年)に建てられた「日西墨三国交通発祥記念之碑(メキシコ記念塔)」がありました。白く聳えるオベリスクは、シンプルで凛々しいシルエットでした。さらに50mほど海に向かった展望台には、2009年、日墨交流400周年を記念して、メキシコ政府から寄贈されたという「抱擁の像」がありました。男女が強く抱き合っているその姿に、岩和田の海女たちが凍えた乗組員を体温で温めたというエピソードがダブります。
 

 ふしぎな感動がわいてきました。海の広がりを前に、ドン・ロドリゴの物語を反芻しているうちに、何か体に訴えてくるものを感じました。

 ところで、ドン・ロドリゴたちよりわずかに早く、三浦按針(ウィリアム・アダムス)らの乗ったオランダ商船リーフデ号が、1600年(慶長5年)に、豊後国(大分県)に漂着しています。1975年に発表されたベストセラー小説『将軍』(ジェームズ・クラベル)の主人公ブラックソーンは、ウィリアム・アダムスをモデルにしたと言われます。1980年に米国で製作された映画、テレビシリーズが「ショーグン・ブーム」を巻き起こしたとされますが、いまや遠い日の幻のような気もします。英国人ウィリアム・アダムスはのちに三浦按針と名乗り、オランダ人ヤン・ヨーステン(耶揚子。現在の八重洲の地名は彼の名前にちなむ)とともに家康の外交顧問を務めました。小説では、主人公の船が漂着したのは、伊豆の網代村とされていますが、本当のところは豊後水道を臨むどこかであろうと言われます。中でも有力なのが、臼杵湾の北岸、佐志生(さしう)の沖合にある黒島で、30年ほど前にそこを訪ねた思い出があります。

 佐志生の浜から、漁船に乗って黒島に渡ると、三浦按針上陸記念碑とエラスムス模造像、資料館などがありました。エラスムス模造像というのは、リーフデ号の船尾に飾られていたという、有名な木像のコピーでした。「貨狄尊者(かてきそんじゃ)」と呼ばれて、なぜか栃木県佐野市の龍江院に、ながく正体不明のまま伝えられてきたエラスムスの立像(現在は上野の国立博物館に寄託)を模造したものです。この島にも「地元の人たちが小舟を出して乗組員たちを救助した」という言い伝えがあることを、島で旅館を経営している方から聞きました。日蘭交流400周年を迎えた2000年には、ここで記念式典が行われ、オランダ皇太子が訪問しています。

 対照的なのは、1596年(文禄5年)に四国土佐沖に漂着したサン・フェリペ号でしょう。ドン・ロドリゴたちと同じく、東シナ海で台風に襲われ、かろうじて日本に流れ着いたスペイン船でした。フィリピンからメキシコに向かっていたというのも同様です。ところが、浦戸湾に入って、いまの高知市内に保護された一行は、船の修繕許可と身柄の保証を秀吉に求めますが、秀吉はその使者に会うことを拒否します。代わりに奉行が派遣されてきて、積み荷と船員の所持品すべてが没収されるのです。船員たちの執拗な抗議で、やがて船の修繕は許され、翌年、一行はマニラに戻ります。しかし積荷の返還はついに果たせなかったとされています。

 またその年には、伴天連追放令の見せしめとして、イエズス会の宣教師ら26人のキリシタンが長崎で処刑されるという、酸鼻の出来事が起きました。サン・フェリペ号からドン・ロドリゴまでわずか13年。グローバル化の波に洗われた日本の振幅の激しさが、客人(まれびと)たちの明暗をくっきり分けました。

 ドン・ロドリゴ漂着から400周年を迎えた2009年、御宿町にはメキシコ船が来航し、町は大いに湧いたと星野さんは伝えています。それ以前にも、メキシコ記念塔建立50周年の1978年に、メキシコのロペス大統領が町を訪れました。そして、若者たちのかつぐ神輿に乗って日の丸の扇を高くかざし、「エルマーノ(兄弟よ)!」と連呼して、町民の歓迎に応えたといいます。以来、御宿町とアカプルコとの間に姉妹都市協定が結ばれ、御宿駅前の通りには「ロペス通り」の名がつけられました。
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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