Kangaeruhito HTML Mail Magazine 495
 
 人生そのものが旅
 
 5月16日、邱永漢さんが亡くなりました。3月に米寿を迎えたばかりの88歳でした。「考える人」にとっては、実は“陰の大恩人”とも言える方でしたが、そのことについてはあえて触れません。ただ、激動の時代に台湾人として生を受け、小説家にして「お金儲けの神様」と呼ばれた異才の本領を、思い出すままに振り返ってみたいと思います。

 65歳の時ですから、日本経済がちょうどバブルのピークにあった時分です。「私は77歳で死にたい」と宣言。人生の終着点を設定し、そこまでは元気いっぱいに生きて、やるべきことをやってしまいたい、と考えました。逆算方式なので、残り時間に見合った本数のワインを、フランスのボルドーでまとめ買いしたものの、77歳近くになり、「どうもまだ死にそうにない」と明らかになった時点で、買い足しが必要になりました……。

 また、1993年11月には、台北から乗った中華航空機が香港・啓徳空港で着陸に失敗し、海に突っこむという事故がありました。幸い、乗客全員が無事に救出されたのですが、これに乗り合わせていた邱さんは、「きゅうし(九死)に一生を得た」と言い、「これでもう自分は死なないかもしれない」と笑っていました。現に、「人生そのものが旅だ」という口癖通りに、最期まで日本と海外を行き来する生活を続け、米寿をお祝いする席でも、「やるべきことはまだ100ある」、「きゅうさん(93歳)までは生きる」と挨拶していたそうです。

 1924年(大正13年)、日本統治下の台湾に、台湾人の父、日本人の母の長男として生まれました。旧制台北高校、東京帝国大学経済学部を卒業後、1946年に台湾に帰郷しますが、国民政府支配の状況に反発し、台湾独立運動に関わったことで英植民地の香港に亡命。対日貿易業などを営んでいましたが、1954年、ふたたび日本に拠点を移してからは、小説、経済評論、食のエッセーなど幅広いジャンルで健筆をふるい、また株や不動産に投資し、日本のみならず台湾、中国などでも数多くの事業を手がけました。私自身はほんの20年足らずのお付き合いに過ぎませんが、雑誌に登場していただいたり、楽しい食事会(邱さんの担当者の集まりなので「邱番会」と呼ばれ、毎回冒頭の、少し長めの邱さんのスピーチが定番でした)などでご一緒する機会を得ました。
 
 2000年2月、「お金儲けの神様」である邱さんと、「ショッピングの女王(浪費家代表)」の中村うさぎさんを招いて、糸井重里さんの司会でお金について考える座談会を企画しました(「お金持ちの境地」、『婦人公論』2000年3月22日号 *)。そこで開陳された邱さんの金銭哲学は、清々しいくらいスケールの大きなものでした。のっけの挨拶からこうでした。
 
〈今、お金儲けの神様と言われましたけど、しあわせを望むなら、ゆめゆめ金に執着するな――というのが私の持論です。実は、お金があってもなくても同じなんですよ〉
 
 あるいはこういう言葉――。
 
〈お金をたくさん持つより、お金を上手にコントロールするほうが大事だということなんです。今はお金って紙幣になったから四角いけど、昔から(指で丸い形をつくって)マルというように、お金はもともと丸いもんなんです。……そうすると地球みたいなもので、自分が立っているところからは、裏側が見えない。つまり、お金を儲けている人は、儲けるところしか見ていない。お金を使う人は、使うところしか見ていない。本当は全部クルリと回らなきゃいけないのに、両方できる人は少なくて、たいてい片側だけやって死んじゃう。……でも、儲けただけ、使うだけ、というのでは半製品で、儲けて使って初めて、お金は完成品になるんです〉
 
 邱さんは歩くアイディアマンでしたから、手がけた事業は枚挙に暇がありません。「材木屋」みたいに木(気)が多い、と笑いながら、いろいろなことを試み、数え切れないほどの失敗もしていました。それでもこりずに失敗を繰り返すのが自分の人生だ、と語っていました。
 
〈やっぱり芸術家の端くれみたいなところがあるから、事業も同じことをやるのはイヤなのね。そうすると、一回一回が初めてやることだ。それで、一回一回しくじる。……僕は、新しいことをやって失敗することに、喜びを感じてるわけ〉

〈お金を持っているという感覚はぜんぜんないんだけど、損をする元手があるというのが自分でも不思議でね。僕はこれからもまた、いっぱい損をして、死ぬまでに全部なくなってしまうかもしれません〉
 
 実は、小説を書いていた時代の邱さんを、私はまったく知りません。嶋中鵬二さん(元中央公論社社長、故人)などからよく昔話として聞いていましたが、1954年に書かれた邱さんの「密入国者の手記」という文章が、ふとした縁で時代小説の大家・長谷川伸さんの主宰する雑誌「大衆文芸」に掲載されます。そこから、小説家としての道がみるみるうちに開かれました。自伝的な小説「濁水渓(だくすいけい)」が1954年下半期の直木賞候補になり、翌年下半期でも「香港」がふたたび候補にあがると、あっさり2回目で直木賞を手にします。31歳という若さに加え、外国人として初の受賞でした(その後、1980年に日本に帰化)。同期受賞は「強力伝」の新田次郎氏でした。ただ、その時は芥川賞が社会的な“事件”にまでなったので、直木賞はすっかりかすんだ観がありました。現東京都知事・石原慎太郎氏の「太陽の季節」です。

 こうして作家デビューを果たした邱さんのことを、私が初めて知ったのは、“第三の新人”と呼ばれた人たちのエッセーに登場するユニークな人物としてでした。たとえば、安岡章太郎さんの『良友・悪友』(新潮文庫)には、明らかに他の作家たちとは異質な、若き日の邱さんが描かれています。

 お互いの家が近かったこともあり、ある日フラリとやって来た邱さんは、「派手な薄茶の格子縞か何かの外套」を着て、「馬鹿にツヤツヤと血色のいい顔を覗かした」そうです。作品から想像していたのは、戦後、国民政府から弾圧を受け、ついに国外に逃亡せざるを得なくなった「背が高く、頬がこけて、黒い頭髪がモシャモシャした」ような亡命生活者だったのに、現われたのは「いかにも栄養のよさそうな、広い額のピカピカした、ソロバンのうまそうな青年」なので戸惑った、とあります。

 交友は次第に深まって、やがて邱さん宅で催されるようになった食事会の話も出てきます。「邱飯店」と池島信平さん(元文藝春秋社長、故人)が名づけたその定期的な集まりには、各界のさまざまな人々が招かれました。メニュー作りと買出しは邱さんが担当し、料理は奥さん(料理研究家の潘苑蘭さん)がガスコンロと七輪で作ったといいます。必ず十数種類の本格中華のフルコースが振る舞われましたから、評判の悪かろうはずがありません。私が『食は広州に在り』(中公文庫)をはじめとする邱さんの美食随筆にはまったのは、まさにこのくだりを読んだのがきっかけでした。

 さてその一方で、日本経済の興隆とともに邱さんは株式評論家として「神様、仏様、邱永漢様」と仰がれる存在になっていきます。小説を書くよりも、株や投資の蓄財指南役として、あちこちから声がかかり始めます。450冊を超える著作のリストを眺めても、この時期からは、すっかり「お金儲け」のプロと見なされていくのが分かります。お金について語ることすら嫌悪していた既成文壇からは、ますます異端視されたことは間違いありません。いやむしろ、邱さんのほうから離れていったと思われます。

 ただ邱さんの口癖で覚えているものに、「自分は香港人が好きではない。彼らはお金の話しかしないし、お金でしか人を評価しない」というのがありました。安岡さんのエッセーにも、株でお金を儲けることから邱さんの関心が失せた――お金儲けに倦怠感を感じ始めたらしい、という時期のことが出てきます。

 それによれば、久々に顔を合わせた邱さんは、生きる目的を見失ってクタビれている思いきや、「目つきが、ひところにくらべて柔らかく落ちついた感じで、血色は以前よりももっと良くなってい」ました。聞けば、作詞の仕事を始めた、というのです。安岡さんは驚きます。

 しばらくしてタクシーに乗ると、ラジオからふと聞き覚えのある歌が流れてきます。リフレーンの部分に特徴があって、それが邱さんの作った歌だとすぐに分かります。「どっちへ行こうか、曲ろうか、それとも、このまま戻ろうか、ここが思案のしどころよ」――橋幸夫が歌った「恋のインターチェンジ」という曲でした。そして安岡さんは思います。このリフレーンの文句ではないけれど、いずれこの歌詞づくりにも飽きてきたら、邱永漢は次に何を始めるのだろうか、と。

 まさにその通り。邱さんの「新しいこと」への挑戦は、その後もとどまるところを知りませんでした。一生に何人分もの人生を引き受けて、起伏に富んだ長篇小説のように生きました。台湾で、香港で、中国であらゆるビジネスに関わりましたが、近年、中国雲南省の山中でコーヒー園を経営するにいたっては、いよいよもって痛快の極みでした。人生そのものが作品でした。

 先に紹介した座談会がきっかけとなって、邱さんは糸井さんが立ち上げて間もないインターネット・メディア「ほぼ日刊イトイ新聞」にも、いち早く参加しました。「可能性」だけを積み込んだ船にいきなり飛び乗ったスピード感と勝負度胸。新しいことにジッとしていられない邱さんらしい行動です。しかも、そこで900回続けた「もしもしQさんQさんよ」というコラムを、次には自分が立ち上げたサイトに転居させ、「ハイハイQさんQさんデス」(hiQ)と改題して、ついに累計4431回に及ぶライフワークに仕立てました。

 ともかく、いつも若々しい好奇心に溢れていて、人に会うこと、話すことを楽しみとし、アンテナの感度、発想の柔らかさに衰えはいささかもありませんでした。邱さんの食べもの随筆を激賞した丸谷才一さんが述べているように、邱さんの文章を読んでいると、「何となく気宇壮大になつて、コセコセした気分が失せる。世俗の苦労を忘れ、視野が広くなり、気性がゆつたりしてくる」(『口奢りて久し』中公文庫・解説)。

 さらに丸谷さんは、文明批評家、教育者としての邱永漢にも言及しています。
 
〈邱永漢は亡国の民である。……そのような彼にとって、たかが一度の戦争に敗れ、あわてふためいている当時の日本人の暮し方は、まことにみっともないものに見えたに相違ない。国が亡んだとて、そんなことくらい何でもないではないか。大事なのは個人がこの一回限りの生を楽しむことで、それにくらべれば、植民地がなくなろうと、国土が占領されようと、軍隊が消え失せようと、財閥が解体されようと、どうでもいい話ではないか。彼はそういう趣旨の手紙を、亡国の民の先輩として、われわれ後輩に書きつづけたのである〉(『食は広州に在り』中公文庫・解説)
 
 名言も数々残しました。「お金は寂しがり屋で、仲間がいるところに集まりたがるんです」、「それから、お金は臆病者ですからね。危ないと思うとすぐ逃げ出す。浜辺のカニと同じで、ワッと脅かしたら1匹もいなくなる」(前掲座談会)――笑って聞いていましたが、その深さに私の理解が届いているとは思えません。

 長女の邱世賓(さいぱん)さんが、父親の最期の言葉を公式サイトで紹介しています。「これからアジアの国々は酷い目にあう。大変な事になるだろう。でも、それも面白いね」だったそうです。「退屈が何よりも嫌いだった父はやがて訪れるであろう経済混乱の中に 胸ときめく新しいチャンスを見出していたようです」と。
 
〈日本だけで物を考えるのはやめましょう。私は「人生そのものが旅」だと思って生きてきました。日本と海外を往復する中で、今後の日本や中国の行く末に興味を持って、物事を見てきました。こうした問題意識をもって世の中を見ると、新しい発見があります。
 自宅から会社まで毎日同じ道を行き来するのを私ならやめます。できるだけ違う道を歩いて見ることです。新しい道を歩けば必ず新しい発見があります。それを年をとっても試みるのが私の人生です〉(「素人が株を買うのはおやめなさい」、『文藝春秋』2011年12月号)
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*座談会はそのまま「ほぼ日刊イトイ新聞」に転載されています。
 http://www.1101.com/fujin-ido/241index.html
 また、さらにこれを発展させたものに糸井重里・邱永漢『お金をちゃんと考えることから逃げまわっていたぼくらへ』(PHP文庫)があります。
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