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 プロデューサーは夢見る
 
 いま店頭に並んでいる「新潮」7月号に、「考える人」の前任編集長だった松家仁之(まさし)さんの「火山のふもとで」という小説が発表されています。「デビュー作・一挙掲載650枚!」とあって、今年で創刊108年目を迎える「新潮」の歴史をさかのぼっても、「原稿用紙600枚を超える新人作家の大作が一挙掲載されるのは初めてではないか」と矢野優編集長が語っています。「村上春樹ロングインタビュー」号(「考える人」2010年夏号)を最後に新潮社を退社した松家さんの新たな門出をご覧いただければ幸いです。

 さて話は変わって、一人のプロデューサーの思い出を書きたいと思います。この3月、御茶の水の病院にひと月入院していた間、チェロのパブロ・カザルスと、ピアノのミエティスラフ・ホルショフスキーのCDをよく部屋で聞いていました。二人とも、窓の外に見えているカザルスホールにゆかりの深かった巨匠たちです。あれからもう2年がたつのか――。カザルスホールの灯が消えた日のことを思い出すと、たまらなく二人の演奏が聞きたくなったのです。

 1987年、パブロ・カザルスの名前を冠して、日本初の室内楽専用ホールとして誕生したカザルスホールは、「パブロ・カザルスに捧げるチェロプレミアコンサート」で幕を開け、以来、独自に企画した多彩な活動を展開してきました。パブロ・カザルスに捧げるチェロ連続リサイタル、新日本フィルハーモニー交響楽団ハイドン交響曲全曲シリーズ、カザルスホールヴィオラスペース、御喜美江アコーディオンワークス、アマチュア室内楽フェスティバルなどのプログラム、また日本初のレジデント・クァルテットとしてハレー・ストリング・クァルテット、ゼフィルス弦楽四重奏団、カザルスホール・クァルテットが活動し、海外からも優れた演奏者を多数招いて、リサイタルやマスタークラスが開催されました。音響の良さとあいまって、国際的にも高い評価が確立されました。

 その総合プロデューサーであったのが、テレビマンユニオンの萩元晴彦さんでした。彼と専任スタッフたちの強い意思にもとづいて、次々とユニークな企画が生み出され、午後や、夜のひと時に新たな楽しみが加わりました。しかし世紀をまたぐあたりから、オーナーであった主婦の友社が経営難に陥り、紆余曲折の末に、2002年、ホールは日本大学に売却されます。その前年の9月、萩元さんは病に倒れ、ついに帰らぬ人となりました。

 その後、「日本大学カザルスホール」と改称され、自主企画のほか、芸術学部などによる学内利用や、一般向けの貸しホールとしての営業が継続されましたが、日大の「お茶の水キャンパス再開発計画」にともない、2010年3月31日をもって閉館することが決定。3月29日に、恒例のメモリアル・プログラム「ハギモトハルヒコ夢コンサート」の最終回が行われ、31日、文字通りのファイナル・コンサート「カザルスホール331」をもって、22年の歴史に幕を閉じました。

 両晩ともそこにいましたが、31日のフィナーレを飾るアンコールは、カザルスの「鳥の歌」でした。生涯を通じて反ファシズム、平和への願いを貫き通したカザルスが、1971年、94歳の時にニューヨークの国連本部において、カタルーニャ民謡のこの曲を演奏する際に、「私の生まれ故郷カタルーニャの鳥はピース、ピースと鳴くのです」と紹介して、世界中の人々を感動させたことはいまや伝説となっています。

 その日も、「鳥の歌」のピアノ前奏が流れた瞬間、鳥肌が立ちました。そして、演奏が終わり、ステージの照明が落とされると、深いブルーのスポット・ライトが演奏者を小さく浮かび上がらせました。沈黙が訪れました。10秒くらいだったでしょうか。照明が戻ると同時に、静かな、そして徐々に熱い拍手が沸き起こりました。

 立ち去りがたい思いを振り切って足早にホールを後にしましたが、歩きながら、萩元さんから何度も聞いた言葉が頭をよぎりました。
 
〈「プロデューサーに必要なものぜんぶ取り上げる。ただしひとつだけ残してやろう」と神さまが言ったとする。私ならば躊躇なく「夢見ること」と答えよう。プロデューサーは夢見る〉
 
 祖国スペインのフランコ政権を各国政府が容認したことに抗議し、1945年11月から演奏活動を停止していたカザルスを、ふたたび世に送り出したのは、生涯の同伴者となったバイオリニストのアレクサンダー・シュナイダーであり、ピアニストのミエティスラフ・ホルショフスキーでした。1947年6月、フランスのピレネー山脈の麓の小村プラードに隠遁していたカザルスを40歳年下の音楽家が訪ねたことから、やがて20世紀の音楽史に1ページを記す扉が開かれます。その時バッハを弾き、大いに意気投合した二人は「人生最高の時間」を共有します。しかし、本題を切り出した若き音楽家の全身全霊を傾けた提案を、カザルスは悩んだ末に拒否します。カザルスのチェロの封印を解き、アメリカへの演奏旅行に勧誘するという目論みは、フランコ政権を承認する国では絶対に演奏会を開かないという「道義上の理由」によって、あえなく拒絶されたのでした。

 失意の人、アレクサンダー・シュナイダーは、ニューヨークに戻ると、カザルスの盟友であるホルショフスキーにこの経緯を話します。黙って聞いていたピアニストは言いました。

「カザルスをアメリカに連れてくることは不可能だ。しかし、私たちがプラードに行くことはできる」

 このひと言がバッハ音楽祭(後のプラード音楽祭)成立の契機となりました。この後も、ホルショフスキーはカザルスの生涯に決定的な転機をもたらす重要な役割を果たします。詳細は措くとして、萩元さんが繰り返したのは、プロデューサーとはこのシュナイダーやホルショフスキーのように「熱狂の人」であるべきだ、という一事でした。熱狂する「血」が流れていない者はプロデューサーになるべきではない――。

 室内楽を愛し、若い才能を育てることに力を尽くしたカザルスの精神を継承したいという夢を描き、カザルス夫人から直接その名の使用許可を得たカザルスホールが、1987年に船出しました。そのこけら落としに、シュナイダーはブランデンブルグ・アンサンブルを率いて来日し、ホルショフスキーも同年、95歳で初来日を果たし、ホールの落成を祝って2日間のリサイタルを開きました。

 そんなことを考えながら、カザルス、ホルショフスキーのCDを聞くうちに、ようやく病院の“幽閉生活”から解放され、2、3日が過ぎたあたりです。思いがけない人から、突然電話がかかってきました。あまりの偶然に、一瞬、頭が混乱するほどでした。カザルスホールで、15年間スタッフとして活躍していた村嶋寿深子さんからでした。2年前の閉館の際にお会いしたのが、最後です。「今度、私のことを書いた本が出ましたので、それをお送りしたいのですが」というお知らせでした。

 その『村嶋寿深子とその時代』(江口満、長崎新聞社)という本の出版祝いをかねて、先週、懐かしい面々で集まる会がありました。村嶋さんは、2003年から郷里である長崎県大村市に帰り、体育館と文化ホールを併せ持つ公立施設「シーハットおおむら」の館長に就任しています。そこで設立したOMURA室内合奏団は、2010年、総務省の「地域創造大賞」を受賞するなど、地域発のレジデント合奏団として全国のモデルケースとなるまでに成長しています。カザルスホールでの経験を活かしながら、その夢をさらに発展させて、さまざまな音楽事業のプロデュースを行っている現役です。

 本を開くと、東京芸大の声楽科を卒業後、アメリカに渡ってからの恋あり歌ありの青春記で、「読んでびっくり」というエピソードの連続です。ところが、ミュージカル「王様と私」でユル・ブリンナーらと共演していた彼女に向かって、「村嶋さん、ニューヨークで歌うのやめて、東京で仕事したら」と促したのは萩元さんでした。プエルトリコに住んでいたカザルスを訪ねる萩元さんの通訳を務めたり、何度かの出会いがありました。そして足かけ20年におよぶアメリカ生活に区切りをつけ、帰国した彼女をカザルスホールに迎えたのも、萩元さんに他なりません。このあたりの人の縁というのも面白いものだと思います。いずれにせよ、この本では物足りないくらいに、村嶋さんの物語は盛りだくさんです。

 出版記念パーティにも幼馴染の人たちから、一緒に移民船に乗って渡米した芸大仲間“赤とんぼシンガーズ”、3年間勤めた草創期の東京ディズニーランドのスタッフ、山登りの同好の士たちを含めて、多種多様な人たちが顔をそろえました。主賓と同じく、70歳を過ぎた方々も多いのですが、皆さん本当にお元気で……。

 そして現在の村嶋さんが何より力を注いでいるのは、「シーハットおおむら」を基盤にしながら、「音楽と音楽家に貢献する」(カザルスホール開設時の萩元さんの言葉)ということです。立派なハコはあるけれども、魂がいっこうに入らない地方のホールは多々ありますが、村嶋さんのような人材を館長に抜擢したことは、行政のクリーンヒットだと思います。また村嶋さんもOMURA室内合奏団の音楽監督に、東京から「これは」という人を招聘し、楽団を着実に育て上げる手腕を見せました。人口約9万人の中都市だからこそ可能なことを見きわめながら、「3年後には東京で演奏会を開きたい」という言葉が会の最後には出てきました。

 対照的なのはカザルスホールです。昨年の震災の被害は免れたといいますが、2年間、「使用停止」のまま放置されたホールは、仮に再開しようとしても巨額の改修費が必要になることは明らかです。このまま壊すでもなく、売却するでもなく、周りが駐車場だらけの空間に、ポツンと「塩漬け」状態のままで曝されているのは、あまりに残酷な気がします。とりわけ創立10周年記念に設置された、ドイツの巨匠ユルゲン・アーレントの手になるパイプオルガンは、いまどういう状態になっているのでしょう?
 
〈あらゆる新しいこと、美しいこと、素晴らしいことは一人の人間の熱狂から始まる〉
 
 萩元さんが未完のままに遺していった仕事にどう結着をつけるか、実はその宿題がひとつ、私にも残されています。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*文中の萩元晴彦氏の言葉は「ホルショフスキーへの旅――プロデューサーは何をするか」(「婦人公論」1994年9月号-1995年9月号)より引用いたしました。
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