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山際淳司『スローカーブを、もう一球』(角川文庫)

一瞬が化石となる前に

 今春の選抜高校野球大会の出場校が決まった時、群馬県立高崎高校が31年ぶりに甲子園の土を踏むことが話題になりました。県内屈指の公立進学校。卒業生には福田赳夫、中曽根康弘という2人の元首相がいることでも知られ、いまの部員たちも「文武両道」のモットーを貫いています。現監督は、前回センバツ初出場を果たした際の中堅のレギュラー選手であり、「今年のチームカラーはあの時と似ている。強いとは思わないが、まとまりがあるし、運も持っている代ですね」と発言していました。31年前に、誰も予想だにしなかった快進撃で秋の県大会、関東大会を勝ち進み、「あれよあれよ」という間に「タカタカ(高崎高校の愛称)旋風」を巻き起こした物語は、スポーツライターの故・山際淳司氏の「スローカーブを、もう一球」にも取り上げられた、と新聞記事は伝えていました。

 31年、といえば、ひと世代がまわったことを意味します。山際さんが46歳の若さで亡くなったのが、17年前。いずれにせよ、ずいぶん遠くまで来たものだ、と思わずにはいられません。

 8篇の作品を収めたこの本の中で、最も有名なのは「江夏の21球」です。1980年に文藝春秋から創刊されたスポーツグラフィック・マガジン「Number」に発表され、山際淳司の名前を一躍世に知らしめた“不朽の名作”です。重松清さんが、日本のスポーツ・ノンフィクションの歴史は、1980年の山際淳司の登場と雑誌「Number」の創刊を分水嶺として「以前/以後」に2分されるのではないか、と指摘するほどの画期的な作品でした。

 その前年のプロ野球日本シリーズ「近鉄対広島」第7戦の9回裏。ノーアウト満塁という、絶体絶命のピンチに立たされた広島のリリーフエース江夏豊が投じた21球――その26分49秒のピンポイントのドラマを、クールな文体、かつてない切り口、そして複数の証言による巧みな立体構成でまとめあげた短編は、その後のスポーツ・ライティングの世界を一変させるほどの衝撃をもたらしたと言っても過言ではありません。

 しかし、今度いまさらのように気づいたのは、作品集の表題にこの「江夏の21球」が選ばれなかったという事実です。代わって表紙に謳われたのは、地味な高校野球の地方大会に取材した作品でした。有名選手が登場するわけでもなく、手に汗握る名勝負の舞台裏が再現されているのでもなく、「ありふれた」題材をあっけないほどに、淡々と描いたドラマなき物語。しかし、そこにこそ山際淳司の真骨頂があったのだと、時を隔てて見るとよく分かります。

 主人公は「タカタカ」こと高崎高校のエース川端俊介投手です。スポ根マンガの主役にありがちな、プロ顔負けの速球を投げ込む甲子園のヒーローがいるとすれば、「彼はすべてにおいてアンチテーゼ」の存在でした。
 
〈身長は173cm。スポーツをやっている高校生にしてはとりたてて大きいほうではない。体重は67kgで、体つきはどちらかといえば、丸い。ユニフォーム姿が映えるほうではないだろう。顔の表情は、たいていの場合、やわらかく、時には真剣味に欠けるといわれることもある。ピッチング・フォームも、いわゆる変則型である。中学で軟式野球をやっていたころ、アンダースローを得意としていた。それをオーバースローに変えてから、まだ一年もたっていない。自分ではオーバースローで投げているつもりでも、形としては横手投げになっている。腕を振りおろす直前までがオーバースローで、そのあとサイドスローになるといえばいいかもしれない。
 つまり、川端俊介は、パターン化されたスポーツ新聞の文章では書きにくいピッチャーだった。「大きなモーションでズバリ速球を投げこむ本格派」ではないし「群馬に川端あり!」と書かれるタイプのピッチャーでもなかった〉
 
 直球は130キロそこそこ、という並の速さ。最大の武器は、スピードガンで計測すると60~70キロぐらいのスローカーブ。バッターをからかうようにふらふらと本塁に向かってやってきて、ホームベースの上を通過すると、低目にゆらゆらと曲がりながら入ってくる、まるで小さな子供が投げるような、山なりの超スローカーブです。

 彼はこれを一試合に何球か、効果的に使います。そしてスローカーブを投げる度に、思わず口元がほころんでしまうのを抑えることができません。それは「やった!」と快哉を叫ぶ笑いでもなく、ざまあみろと相手を嘲笑する笑いでもなく、スローカーブを投げたときが、「一番自分らしい」ような気がするからです。スローカーブを投げる時の自分をイメージすると、「ボールがまるで自分のように思え、妙に好きになれる」からでした。

 この作品集に登場するスポーツ・ヒーローたちには、そういう意味で何かしら共通点が感じられます。たとえば、ごく普通の大学生が、ある日突然思い立ち、オリンピックに出ようとする話(「たった一人のオリンピック」)。彼が狙いを定めるのは、代表候補になりやすそうなボートのシングル・スカルです。そして、もしこの夢が実現するならば、「なんとなく沈んだ気分が変わるんじゃないか。ダメになっていく自分を救えるんじゃないか」という思いに取りつかれ、それまでの自分の人生の流れをせき止めて、5年後、ついにはモスクワ五輪代表の座をもぎ取ります。まさか、その大会を日本がボイコットするとは、当然予期するはずもなく……。

 郷土の大先輩である長嶋監督から直接請われて、ドラフト外で巨人に入団した速球派の高校球児。3年間のファーム生活では、イースタンのゲームに3試合だけ登板。それ以降はバッティング投手にまわされます。“壁”と呼ばれるブルペン捕手やバッティング投手のために用意された90番台のユニフォーム――背番号〈94〉をあてがわれ、背番号〈90〉の長嶋監督がジャイアンツを去った後も、毎日毎日、機械のようにバッティング練習で投げ続けます……(「背番号94」)。

「自分からボクシングをとったら何もなくなってしまう」と知りながら、一方で「自分は、格好をつけてないと生きてる気がしない」という“美学”にこだわるばかりに、同期の具志堅用高とは対照的なジグザグ・コースを歩むことになるハマ(横浜)っ子ボクサー。念入りにセットされたリーゼントに白地のガウン、赤のトランクス、BGMにロックを流してリングに登場し、「どうせ見られるなら、中途半端であるよりも完璧であったほうがいい」というテーゼを信奉する25歳。ランキングは日本フライ級第4位。それでも「まだボクサーとしてチャンスがあると信じている」――(「ザ・シティ・ボクサー」)。

 どの作品も、束の間であるにせよ、スポーツの神に愛された者たちの、一瞬のきらめきがとらえられています。そして、人生の「光と影」が交錯する風景が、吹き抜ける一陣の風のような文体で、手際よく、鮮やかに描かれます。著者自らも語っています。
 
〈まずはじめにシーンがあった。そのシーンの中に生きている人間がいた。瞬間、彼らは哀しいまでに美しく、ときにはおかしいほどに真剣だった。
 やがて《時》が流れる。一瞬は日常の中に溶けて流れていってしまう。一瞬が化石となってしまう寸前にぼくはそれを書きとめておきたいと思った〉
 
 ざっくり言ってしまえば、ある時までのスポーツ観戦は、超絶したアスリートの身体能力や技術に喝采を送り、その結果に一喜一憂するスペクタクルの世界でした。私たちの目はその肉体の躍動に釘づけとなりますが、彼らのパフォーマンスを必ずしもトータルにとらえることはできません。記録や勝敗の結果を手がかりに、「たしかに見た」と意味を諒解することがせいぜいでした(いまも本質的には変わりませんが)。

 それが、映像技術の進歩によって、選手の動きをより微細に、多角的に、何よりも繰り返し確かめることができるようになりました。〈見る〉ことは劇的な進化を遂げ、その快楽もまた格段の深まりを見せるようになりました。置いていかれたのが、言葉でした。

 アスリートたちの内面――研ぎ澄まされた感覚と、メンタルに繰り広げられる自分との闘いの内実が、未知の領域としてそのまま残されました。観客という所詮は傍観者の立場であるにせよ、より過激に〈見る〉ことに徹しようとするならば、目の前のシーンを鋭く感じ、それを〈読む〉必要がありました。その言葉への渇望がかつてないほどに高まって、器のふちから危うくこぼれそうになったのが、ちょうど1980年前後だったことをいま改めて思います。

 沢木耕太郎氏の『敗れざる者たち』(1976年)がひとつの転機となりました。その後、ヤクルトスワローズを初優勝に導いた広岡達朗氏をモデルにした『監督』(海老沢泰久、1979年)や、「プロレスは、真面目に見るものでも、不真面目に見るものでもない。では、どうすればよいのか? プロレスは、そう、クソ真面目に見なくてはならないのだ」という村松友視氏の『私、プロレスの味方です』(1980年)が現れ、さらには文芸誌「海」(中央公論社)を舞台に、その特異なレトリックで読者を幻惑した謎の女性ライター草野進氏(代理人は仏文学者の蓮實重彦氏)の『どうしたって、プロ野球は面白い』(1984年)など、この時期に見るべき作品が次々と生まれました。〈見る〉ことと〈読む〉ことの循環が、スポーツの世界をかつてない人間のドラマとして“再発見”させてくれたのです。

 その一瞬のドラマのきらめきは、無名のアスリートたちの上にも訪れました。『スローカーブを、もう一球』でも引かれているのは、ヘミングウェイの台詞です。「スポーツは公明正大に勝つことを教えてくれるし、またスポーツは威厳をもって負けることも教えてくれるのだ。要するにスポーツはすべてのことを、つまり、人生ってやつを教えてくれるんだ」。

 初版本の奥付を見ると、発行日は31年前の明日(8月31日)でした。そこから14年後、読み終えた本をパタンと閉じるように、あっけなくこの世を後にした山際淳司。立ち去る時の、少し淡白すぎるようないつもの彼の印象が、その最期にダブらなくもありません。しかし、山際さんが去った後に残していった像は、なぜかいつまでも心の中にとどまりました。「スローカーブを、もう一球」のラストシーンもまた――。
 
〈キャッチャーの宮下はサインを送った。……
 その指の形はこういっている――《スローカーブを、もう一球》
 川端俊介は、微笑んだ。そしてうなずくと、ゆっくりとスローカーブを投げる、あのいつものモーションに入っていく……〉
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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