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出口裕弘『辰野隆 日仏の円形広場』(新潮社 絶版)

 格別な人たち

 これがオリジナルの姿なのか! 辰野金吾が目にすれば、きっと「万歳を連呼す」だろうな……。

 東京駅丸の内駅舎が、大正3年(1914年)12月の創建当時の姿に復元され、10月1日にグランド・オープンを迎えました。太平洋戦争末期の空襲で3階部分の大半が焼失し、やむなく応急処置として、建物は2階建て(一部は3階建て)に改修され、ドーム型の屋根は八角形のトンガリ屋根に架け替えられていたのです。

 それがようやく元通りに復元され、建築家・辰野金吾が心血を注いだ雄壮華麗な姿がよみがえった――というので、「さぞやその感激は……」と期待していました。ところが、見慣れた八角屋根がなくなると、それはそれで、なんだか寂しい気がしてきます。習慣というのは、不思議なものだと思わずにはいられません。

 とはいえ、1980年代後半には東京大改造のかけ声のもと、赤煉瓦の駅舎を壊した跡地に、超高層のオフィスビルを建てて貸しビル経営をやろうという計画が検討されていたのです。高度経済成長の時期以来、「保存よりも建て替え」が時代の空気としては主流でした。しかし、さすがにこの時ばかりは反対の声が巻き起こり、「保存再生」に向けた方向転換が図られました。本当に、あの時ストップがかかって良かった、と思います。

 復元にあたっては、駅舎上空の容積率を周辺のビルに移転することで膨大な改修費用を賄うという解決方法が決め手となりました。国内最大規模となる免震工事や、駅舎のシンボルである南北2つのドームの天井レリーフの復元など、その後に難事業も控えていましたが、着工から5年。“現役”の駅として日々の乗降客を送り迎えしながら、ついに本来のあるべき姿に“復興”を遂げたのです。ほどなく100周年を迎える首都の玄関口が、貴重な歴史を絶やさなかったという意義は何ものにも代えがたいと思われます。

 さて、この東京駅、ながらくオランダのアムステルダム駅を模して作られた、と教えられてきました。それを真っ向から否定したのが、建築史家の藤森照信さんでした。ドイツ人の鉄道技師フランツ・バルツァーが立案した東京駅計画に、英国留学でヴィクトリア建築を学んだ辰野金吾が大幅な改良を加え、近代国家の帝都にふさわしい「中央停車場」案に仕上げていったという論証です(『建築探偵雨天決行』朝日新聞社)。

 ところが、さらに踏み込んだ推論を藤森さんはしていました。坪内祐三さんの近著『父系図(おとこけいず) 近代日本の異色の父子像』(廣済堂出版)に紹介されている大胆な仮説です。
 
〈東京駅をデザインした辰野金吾という建築家は、何が好きかといって相撲以上の好物はなかった。
 見るも好きなら取るも好き。好きがこうじて、相撲界と親しくなり、明治四十二年には初代の両国国技館の設計を引き受けて建て上げているし、その二年後の明治四十四年には、あまり知られていないが浅草国技館を完成させている。東京は両国と浅草の二つだが、この後地方巡業があって、大正元年には大阪の相撲場の蘆辺倶楽部、大正三年には名古屋国技館と続く〉(藤森照信「それは、辰野金吾の、時代に向かっての、土俵入りであった」、初出「東京人」1988年1・2月号)
 
 だからどうなんだ、というわけですが、辰野金吾の設計した東京駅の駅舎は、横綱の土俵入りを模した姿である、というのです。アムステルダム駅は「悪質なデマ」であると切って捨て、あえて「横綱土俵入り説」なのです。
 
〈疑う人は、丸の内に行き、五十間道路(行幸道路ともいう)の端に立って、赤煉瓦の東京駅を真正面から眺めてほしい。……
 大銀杏を結った東京駅が、腰を低く落とし、両手を大きく広げ、皇居に向ってにじり寄りながら、顔をグイッと上げた――そんな一瞬がここにはたしかにある〉
 
「汽笛一声新橋を……」と鉄道唱歌に歌われたように、それまで東海道線の起点は新橋(汐留)でした。そして東北線は上野、また新宿から西に向っては中央線が延びていました。それらを1ヵ所に束ね(この鉄道システム全体の構築は先のドイツ人技師バルツァーの功績)、皇居を意識した場所に首都の中心を新たに定め、皇居に向って正面の中央口を皇室や貴賓専用とし、そこからまっすぐに皇居へと延びる幅広い道路を「行幸道路」としたのです。日本に着任した外国大使が天皇に信任状を奉呈する際には、中央口から出て、馬車や車で皇居に向うのが通例となりました。

 そんなたたずまいを皇居側から眺めると、「東京駅は皇居に向って土俵入りしている」となるわけです。大の相撲好きであった昭和天皇が、これをどのような気持ちで見ていたか(この珍説をどう受け止めたか)と思うと、なんだか愉快になります。

 苦学力行、謹厳実直のガンバリ屋人生を貫き、辰野堅固ともあだ名された設計者ですが、楽しみは浪花節、囲碁、俳句、わけても相撲でした。彼が設計した日本銀行本店の竣工日である3月22日の“記念日”には、毎年、「家の子郎党を自宅に集めて大宴会を繰り広げ、クライマックスにいたると、辰野金吾大先生は双肌脱いで腰に赤いケットを巻き、相撲甚句を一しきりうなった後、庭に出て、作り付けの土俵に上り、堂々の横綱土俵入りを披露した」といいます(藤森、前掲作)。

 ほほえましい限りです。「子供の時分から一にも二にも学問学問、勉強勉強と耳にタコが出来るほど聞かされたのも、おやじがかつてクソ勉強の学生であり、昔の工部大学、造家学科の首席卒業生だったからであろうが、怠け者のボクにはおやじの苦言がどうにも飲みきれぬ良薬だった」と息子にボヤかれた“勉強の鬼”の、まったく別の一面が浮かんでくるからです。

 さて、その長男。父親の期待に背いて、東大法学部をビリで出た後も、父親のコネによる井上準之助の銀行への就職も断わって、転がりこむように「学生が一人しかいなかった」文学部フランス文学専修コースに再入学。やがて、その生涯をフランス文学の紹介に捧げ、門下からは錚々たる文学者を世に送り出しました。東大仏文科の名物教授、辰野隆(ゆたか)です。亡くなったのが昭和39年(1964年)ですから、「一般にはもう煙霧のかなたの伝説的存在」なのですが、いまだにその逸話が語り継がれる存在です。「辰野隆を円形広場にして、道は八方に通じている」という見取り図をもとに、明治以降の日仏関係を概観したのが、出口裕弘さんの『辰野隆 日仏の円形広場』です。

 辰野隆の口癖は「ぼくの弟子には、日本一の評論家と日本一の詩人がいる」でした。評論家は小林秀雄、詩人は三好達治。その師弟関係を伝えるエピソードはいろいろありますが、小林秀雄がポール・ヴァレリーの本をどうしても読みたかった時に、手許にある貴重な原著を快く全部貸してくれたのも恩師でした。もっとも、小林には「本を読む時に、無暗と煙草をすって頭の毛をむしる奇妙に執拗な悪癖がある」ために、読んだ本にはページごとに髪の毛とタバコの灰がはさまりました。
 
〈辰野先生は私から本を受け取ると、窓の処でパラパラとやって掃除する。偶々汚れていないと、読まなかったな、と言う、それは家でよく払って来た奴ですなどと弁解しても、一向信用してもらえない、そうなるとこっちも馬鹿々々しいから、勇敢に汚してお返しする事にしていた。今でも先生のとこのヴァレリイには全部、先生の払いのこした私の頭の毛がはさまっている筈である。想えば感謝の念に堪えない〉(小林秀雄「ヴァレリイの事」、『小林秀雄全作品4』新潮社)
 
 いまひとつは、今日出海氏の小林秀雄回想「わが友の生涯」に出てくるエピソードです。
 
〈昔、東大の仏文では、小林君と私を合せて五人が同期だったが、その頃の小林君の貧乏ときたら言語に絶していたのである。お父さんは早く亡くなり、妹(高見沢潤子)さんが病気で転地し、お母さんもそれに付添って行って発病し、小林君は猛烈な売り食いに追われていた。しかも彼には、“狂女”のおもむきさえある女性がすでにいたのだ。
 ある日、仏文の名物教授辰野隆先生の講義が終ろうとするころ、入口のドアを蹴って闖入してくる黒背広の男があった。
「おい、辰野、金貸せ!」
 すると、親分肌の辰野先生は、「儂だって、かりそめにもお前の先生だぞ」といいながら、財布をとり出し、十円貸してやっていた〉
 
 本書は、そうした「辰野仏文」のリベラルな空気、フランス語の勉強さえ怠らなければ“文学の実践”にも寛容な伝統に魅せられて、東大仏文科に進んだ著者の、恩師に寄せる「敬意以上の親近感」が溢れています。研究者として何かを究めるというよりは、面白い作品は「まとめて面倒を見てしまおうとする心意気」を持ち、「寛闊」で「大度の人」であった辰野の器量の大きさが、門下から次々と学者、詩人、作家、評論家が輩出していった理由だと分かります。一方で、辰野が昭和23年に退職した後は、厳密な実証と、精密な専門的研究をめざすアカデミシャンが中心となり、仏文科と“文学の蜜月”は終焉を迎えたというのが、著者の見立てです。

 辰野父子はいろいろな意味で対照的な人生を送りました。しかし、ともに「格別な人たち」でした。圧巻は息子の隆が記した父の臨終の光景です。大正8年(1919年)3月25日に父親が死去し、4月10日の日付で書かれた「終焉の記」という文章です。見事な漢文調で記述されていること、そして「明治の男の、現今ではおそらくもう日本中を探しても出会えそうもない“立派な最期”が語られ」た忘れがたい一文です。あえてそのまま引用いたします。
 
〈既にして父半睡より醒め、牀上(しょうじょう)に座せんとして首を扛(あ)ぐ。母憂ひて制すれども職(き)かず、家に在る者を悉(ことごと)く集めて告別の辞を為さんと欲す。停(と)むるを止めよと。此に於て母後より父を支へ、父安如として母に凭(よ)り、静かに言ふやう。夫に事(つか)へて四十年、子女を愛育し、専心家事を治めて間然するところなし。実に汝は善き妻なりき。善き母なりき。と、母声を挙げて泣く。病牀を繞(めぐ)る親族知己亦悉く泣く。余が眼幾度か曇りて屡々(しばしば)父の顔を失す。敢て凝視するに彼泰然として交々(こもごも)児孫の顔を眺め且つ朋友故旧医師看護婦奴婢(ぬひ)に至る迄一々識別して今生の好誼を謝し、謝し了つて双手を翳して万歳を連呼す。声色衰へたりと雖も意気旧に依つて旺(さかん)なり。余父の手を把つて誠に凛々しき最期ぞと呼べば愛弟涙を呑んで勇まし々々と呼ぶ。父も亦微かに頷きて好しと言ふ。一座粛として時に涕泣歔欷(ていきゅうきょき)の声を聞くのみ〉
 
 万歳を連呼す、というところに目を見張ります。「いままさに息を引き取ろうとする人間が、病床に半身を起こし、両手を上げて万歳を叫ぶ。そんなことが、この二十世紀末、私たちの身辺に出来する気づかいはない。死に臨んでの感謝、ねぎらいの意志表示はわかる。しかし、万歳とは。国家、天皇、家族、盟友、弟子、建築界の将来、みんなひっくるめての万歳だろうが、私としては“格別なこと”としか言いようがない。死にゆく父の万歳に感動して、凛々しき最期、勇まし勇ましと手を取り落涙する二人の息子も、格別な人たちである」と著者は述べます。

 辰野金吾は万歳が好きだった、という証言が残されています(藤森照信『建築探偵雨天決行』)。記憶されているのは3回。日露戦争に勝った時と、東京駅の仕事が決まった時。そして自らの臨終の時だといいます。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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