Kangaeruhito HTML Mail Magazine 513
 
 丸谷先生、さようなら
 
 10月13日朝、作家の丸谷才一さんが亡くなられました。87歳。翌日の新聞各紙が紙面を大きく割いて追悼記事を掲載していたように、現代日本文学に丸谷さんが果たした役割ははかりしれません。
 昨年12月1日に開かれた丸谷さんの文化勲章受章をお祝いする会でのことです。最初に挨拶に立った池澤夏樹さんは、木下杢太郎の言葉を引用するところから話を始めました。杢太郎が森鴎外を評する際に、「テエベス百門の大都」と喩えた有名なエピソードからです。テエベス、すなわち古代エジプトの首都テーベの街には百の城門があり、どの門から入っても街の大きさが分からないほどの大都市だった、ということになぞらえながら、鴎外の、容易には全貌をうかがい知ることのできない知的巨人ぶりを杢太郎は驚嘆してみせたのです。

 池澤さんが語ったのは、丸谷さんもまた、鴎外に匹敵するたくさんの入口があって、多彩なジャンルでの活躍ぶりは類を見ないということでした。いま思いつくままに挙げようとしてみても、何か見落としていないかと不安になるくらいです。

 ともあれ、まずは小説です。処女作『エホバの顔を避けて』に始まり、『笹まくら』、『たった一人の反乱』、『裏声で歌へ君が代』、『女ざかり』、『輝く日の宮』、『持ち重りする薔薇の花』にいたる、高い嶺を連ねた山脈のような長篇小説群、あるいは「樹影譚」などの鮮やかな切れ味の短篇小説。

『源氏物語』、『古今和歌集』以来の王朝文学に対する深い造詣はもとより、古今東西の文学に通暁した幅広い視点で捉えられた作家論、作品論、文学史、そして文明論、日本語論などの評論。「何でも博士」のような博識、薀蓄と、「ゴシップ好き」を自他ともに認める旺盛な好奇心の産物である洒脱でユーモラスなエッセイ。エドガー・アラン・ポー、グレアム・グリーンからジェイムズ・ジョイスの「ユリシーズ」、「若い藝術家の肖像」にまでいたる英米文学の翻訳。

 さらには日本の書評文化に画期的な変革をもたらした書評家としての功績。あるいは山崎正和さんとは100回を超える対談、鼎談をこなしたという、陽気で自在な座談の名手。歌仙を巻き、俳句を詠む文人。時としては「四畳半襖(ふすま)の下張事件」(1972年~1980年)の特別弁護人として見せた、「表現の自由」をめぐって闘う気骨ある言論人。『食通知ったかぶり』の食道楽。『挨拶はむづかしい』でも知られるウィットとユーモアに富んだスピーチの名手。大洋ホエールズ時代からのプロ野球・横浜DeNAベイスターズの一途なファン……。

 ひと言でいえば、多種多様な門構えを備えた、本物の知識人でした。「考える人」では2007年春号の特集「短篇小説を読もう」でのロングインタビューを皮切りに、一年後の特集「海外の長篇小説ベスト100」(2008年春号)でふたたび取材に応じていただき、それ以降も「伝記・自伝」、「歴史」、「批評」、「エッセイ」、「戯曲」、「詩」とほぼすべての文学ジャンルを網羅したインタビューにお付き合い願って、ついに『文学のレッスン』(新潮社)という贅沢な一冊をまとめることができました。

 個人的には、前職の中央公論社(中央公論新社)時代に文学賞の選考委員として、長い間お世話になりました。吉行淳之介さん、河野多惠子さんと3人で務めていただいた中央公論新人賞(1975年再開~1994年)での思い出は限りなくありますが、1987年に「スティル・ライフ」で池澤夏樹さんが受賞した時のことは、中でも忘れがたいことのひとつです。

 また谷崎潤一郎賞でも選考委員として、中堅作家の才能を後押ししようという強い決意のもとでの発言にはいつも啓発されました。自分が少数意見になりそうな場合や、他の選考委員から明らかに反論が予想される場合には、アタッシュケースに参考資料となる本やコピー類を用意してから選考会に臨みました。丸谷さんの代名詞ともなっている“大音声”での熱舌は常に明快で迫力がありましたが、その丸谷さんに対して、他の選考委員も負けじと持論を展開。議論が白熱することもしばしばでした。

 十年ほど前になります。谷崎賞の選考会のためにご自宅までお迎えに伺った時のことです。一緒に車で会場に向かっている途中でした。車が大手町近くに差しかかった時、「そういえば、この間経団連というところに案内してもらってね。中を見せてもらった」とおっしゃいました。それからしばらく、経団連会長とはいかなるものか、教養のある財界人とはどういう人たちか、と質問が続き、選考会の後も、いろいろお尋ねがありました。「いや、実は次の長篇を考えていてね」と笑っておられましたが、その答えを得たのは、ほぼ十年の時を経て、『持ち重りする薔薇の花』を手にした時でした。熟成の期間をそれだけたっぷりとかけながら、準備なさっていたのかと感慨もひとしおでした。

 14日の読売新聞書評欄のコラム「よみうり堂から」に、丸谷さんを偲ぶ次の文章がありました。
 
〈20年ほど前、谷崎賞の選考委員として記者会見に臨んだ際、落選作について聞かれると、ちょっとムッとして、「文学賞は言祝(ことほ)ぎの場。落ちた作品については話しません」と大音声で語り、退席したことがあった。日本語には大層厳しかったが、けなすよりも、好奇心をもって作品を面白がることを大事にした〉
 
 この記者会見の場には居合わせませんでしたが、文学賞にせよ、とりわけ熱心に取り組んだ書評欄の改革にせよ、「言祝ぐ」という丸谷さんの基本的な姿勢は終始一貫したものでした。「書評はそれ自体が優れた読み物でなければならない」、「日本の書評の質をよくすることで、知的風土全体を底上げしたい」、「活字文化を廃れさせるわけにはいかない」と、本の面白さ、読書の楽しさを伝えながら、文化的土壌の整備に心を砕く教育者でもありました。

 新聞各紙に使われた遺影が、すべて丸谷さんの柔らかい笑顔だったのも印象的です。本気で怒っている丸谷さんの姿にも接しましたが、目に浮かぶ氏の表情は、なぜかいつも上機嫌な温顔です。それは氏の生き方そのものでした。文学は、深刻ぶった態度で、暗く憂鬱そうに、気難しげに語るものではない――。じめじめ、めそめそした私小説的風土ときっぱり訣別するところに、丸谷さんの一貫した主張はありました。それは私生活においてもまったく変りませんでした。

 文化勲章受章のお祝いの会では、池澤さんのスピーチに続いて、吉田秀和さんが『持ち重りする薔薇の花』の読後感をお話しになりました。そしておもむろに、作品から想起した曲だといってグレン・グールドのピアノ独奏による「ゴルトベルク変奏曲」のCDをかけました。それが、何と(たしか)18分間! 吉田さんでなければ成立しない、この祝宴のハイライトでした。

 それから1年も経たないうちに、5月22日に吉田さんが、そして丸谷さんが亡くなりました。朝日新聞に寄せた吉田さんの追悼文に、丸谷さんはこう書いておられます。
 
〈批評家は二つのことをしなければならない。第一にすぐれた批評文を書くこと。そして第二に文化的風土を準備すること。この二つをおこなつて、はじめて完全な批評家となる。……
 戦後日本の音楽は吉田秀和の作品である。もし彼がゐなかつたら、われわれの音楽文化はずつと貧しく低いものになつてゐたらう。とりわけ大事なのは、彼がその文章と談話(NHK「私の試聴室」)でわれわれを教育し育てたことである。厖大な数の人々が、彼の文体と声に魅惑されて、ベートーヴェンやリヒアルト・シュトラウスの世界に参入した。われわれクラシック音楽の愛好者は彼によつて創られた〉(朝日新聞2012年5月29日夕刊)
 
 この言葉はそのまま文学における丸谷さんにも当てはまると思います。最後まで現役作家であり続けたことの輝き、そして、すべきことはすべてし尽くして逝ったような鮮やかさ。この文章を書きながら次第にこみ上げてくるのは、丸谷さんらしい引き際だったかな、という感慨です。

 電話を切る際の最後の言葉は、いつも決まって「さようなら」でした。丸谷先生、さようなら。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
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