Kangaeruhito HTML Mail Magazine 515
 
 ベテラン政治記者の胸中
 
 先月はジャーナリズム受難のひと月かと思うほどに、いろいろな事件が重なりました。山中伸弥・京大教授のノーベル賞受賞のニュースに沸きたった直後、「iPS細胞を使った世界初の臨床応用」を朝刊1面でスクープした読売新聞の記事(10月11日)が誤報と判明。「特ダネ」が一夜にして「ガセネタ」と化しました。記事化を見送っていた朝日、日経などと読売(「後追い」した共同通信、産経新聞を含めて)との判断の分かれ目がどこにあったのか――取材・掲載過程の検証が注目されました。そこに、今度は新聞社系の週刊誌で新たな火が噴きました。

 橋下徹大阪市長の出自に関する「週刊朝日」の新連載「ハシシタ 奴の本性」(執筆・佐野眞一/同誌取材班、10月26日号)をめぐって、橋下市長が親会社である朝日新聞社に抗議し、取材拒否を表明したのです。すると、「週刊朝日」側は「同和地区などに関する不適切な記述が複数あり、このまま連載の継続はできないとの最終判断に至りました」と編集長名でコメントを出し、謝罪とともに連載中止を発表しました。橋下市長のバストアップの写真を載せた表紙に、大きく「救世主か衆愚の王か」「橋下徹のDNAをさかのぼり本性をあぶり出す」と刷り込んだ当初の姿勢と、連載をわずか1回で打ち切るという結論のギャップに驚いたことは言うまでもありません。次号に編集長名で見開きの「おわび」が掲載されましたが、問題の本質を明らかにし、この対応の是非を検討する作業はすべてこれからという状況です。

 いずれも他人事ではありません。「過つは人の常」と思う一方で、どうしてこういうことが起きてしまったのかに無関心ではいられません。また、これをどのように処理して、ここからいかなる結論や教訓を導くかということも、ジャーナリズムにとっては死活的に重要なテーマです。

 そんなところに、海の向こうからはスーパーマンの“悲報”が飛び込んできました。デイリー・プラネット紙のクラーク・ケント記者が同社を退社するというショッキングな知らせです。上司に「スクープが少ない」ことを叱責され、「新聞はもはやジャーナリズムではなく、エンターテインメントに成り下がってしまった」と同僚の前で啖呵を切って辞職した模様です。

 現作者のスコット・ロブデル氏によれば、「再就職はしない」そうで、今後はインターネット新聞「ハフィントン・ポスト」のようなネットメディアを独自で立ち上げる予定だとか。勤続72年の貴重な人材ですから、早くも米メディアからは「ラブコール」がかかっているということです。それにしても、退社の理由といい、今後の身の振り方といい、なんとも時代の流れを感じさせられます。

 ある世代以上にとって、新聞記者という存在に憧れを覚えたきっかけといえば、一にテレビの「スーパーマン」、二にNHKドラマの「事件記者」、三に映画「ローマの休日」のグレゴリー・ペックでした。

 クラーク・ケントの退社表明の直前には、NHKドラマ「事件記者」でガンさん役を演じた俳優の山田吾一さんが亡くなりました(10月16日各紙朝刊)。人がよくて正義感の強い若手記者。猪突猛進型のガンさんをいさめたり、慰め、励ましたりする先輩記者のオトナの味が、あの番組にとっては重要でした。
 
〈ぼくがNHKに入った後、同期の新人記者たちの自己紹介で、「小学生のころに見た『事件記者』にあこがれて記者をめざした」と発言した者が何人もいた。テレビが人生を決める、ということもあるものだ〉(池上彰『記者になりたい!』新潮文庫)
 
“花形の職業”というよりも、警視庁記者クラブを舞台にした「事件記者」という名のオトナの世界が、ひときわ魅力的な対象と映ったものでした。あの頃には確実に「早くオトナになりたい」と思わせる何かが、彼らの風貌やちょっとした表情、雰囲気に感じられていたのです。

 そんなことを思っている時に、老川祥一さんの『政治家の胸中 肉声でたどる政治史の現場』(藤原書店)を、たまたま手にしたのも巡り合わせかもしれません。老川さんは読売新聞政治部の王道を歩んだ政治記者の代表格です。政治部長、編集局長などの要職を経て、大阪本社代表取締役社長、東京本社代表取締役社長・編集主幹を歴任。現在は読売新聞グループ本社取締役最高顧問にある人です。

 政治部OBが間近に見てきた政治家の思い出や政界の裏話を綴った著作は決して少なくありません。しかしその中にあって、現実政治との絶妙な距離感、ものごとを複眼的に見ていく知的な姿勢、抑えた筆致ににじむ人間観察の面白さなどが、ジワリと伝わってくるところに、この著者ならではの年輪を感じます。

 岸信介、佐藤栄作から、田中角栄、三木武夫、福田赳夫、大平正芳、そしてニューリーダーたちから小泉純一郎まで、約40年の政治史が回顧されます。時代とともに移り変わる国内外のさまざまな環境、政治家の多彩な個性や持ち味、権力闘争の引き金となる根深い“怨念”や利害対立の背景が描かれ、それらを通していま一度「政治とは何か」、「政治家に求められる資質とは何か」を考察しようとする試みです。

 しかし、そうしたメインテーマとも深く関わりながら、読み物として生彩を放つのは、ある時期までの政治家たちの生々しい息遣いです。とりわけ興味深かったのは、いまでは語られることも少ない三木武夫という「バルカン政治家」の面目躍如ぶりです。本書で俄然輝いている一人です。
 
〈再び血がのぼる。気が狂わんばかりに怒りがこみあげてくる。三木さんという男のひどさ。岸(信介)さんが三木さんを嫌うのもこういうことなのかと、納得がいく思いである。もう二度と三木さんとは口をきくまいと、一瞬思ったが、ちょっと待てよ。私も相当取材に関しては用心深くやっているし、信用できる人と、できない人の見分けにも経験を積んでいるはずなのに、その私がこれほど見事に投げ飛ばされるというのは、どういうことか。それは、三木さんという人のしたたかさ、私など若輩ではおよびもつかない権謀術数の名人ぶりだ。……この人は世間でいわれているような、単なる弱小派閥のクリーン三木ではない。……ひょっとしたら、この人は、舌先三寸で田中(角栄)さんを倒して天下を取るかもしれない。……であれば、だまされたのは悔しいけれども、それは私の未熟さの反省材料にして、この人と縁をつないでおいたほうが面白い取材ができるかもしれない……〉
 
 新聞記者に煮え湯を飲ませても、いけしゃあしゃあと何食わぬ顔でその場をやり過ごす名役者。煮ても焼いても食えない相手に、「まんまとしてやられた」著者ですが、「転んでもタダでは起きない」ところもさすがです。
 
〈私はかねがね、政治家の力量を量る判断基準として三つあると考えていた。頭のよさ、勘のよさ、度胸のよさ、この三つである。三拍子そろっているというのは、ありそうだが、なかなかない〉
 
 著者の三条件の眼鏡にかなうのは、どうやら岸信介ひとりだけ。福田赳夫、宮沢喜一の頭のよさは天下一品だが(度胸もある)、政治家としての動物的な勘の弱さは否めない。田中角栄はコンピューター付ブルドーザーと呼ばれるけれども、論理的な頭のよさとはちょっと違う……等々、なかなか厳しい評価です。ちなみに、三木さんは「必ずしも頭がいいとは思えないが、度胸はいい」。そして勝負勘は並はずれている――。

 こうした主役たちのキャラもさることながら、脇役にもいぶし銀的存在が現われます。たとえば佐藤派の大番頭と呼ばれた保利茂さん。風采もパッとしない地味な存在で、政界の「寝業師」というイメージでしたが、ながらく秘書を務めていた岸本弘一氏が『一誠の道 保利茂と戦後政治』(毎日新聞社、1981年)を刊行した際に、その思い出話を伺いながら、“固定観念”を改める必要を感じました。今回の本の中でもしぶい役柄で登場しています。

 1970年11月25日、誰もが忘れられない一日です。その日に始まる秋の臨時国会で、佐藤首相は所信表明演説をする予定でした。昼前、官邸詰めの記者となってほどない著者のもとに、第一報が飛び込みます。作家の三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部にたてこもって演説をしている、というのです。官房長官室に駆けつけると、保利長官は佐藤首相の部屋に入ったままだ、とのこと。そこで待つ間にも、刻々と新しい情報が届きます。保利長官が出てきます。未確認ながら、最新情報を著者はぶつけます。
 
〈「えらいことになりましたよ、三島の首がころがっているそうじゃありませんか」と聞きながら、顔色をうかがった。私は保利さんが「本当か、えらいことになったな」とでも言うと思ったのだ。ところが、である。あの人はもともと目が細いのだが、眼鏡の奥の目が一段と細くなって、ひとこと、「これでまた日本は野蛮な国といわれる、弱ったなあ」。これがその時、保利さんの口から出た言葉である。
 私はびっくりした。政治家の反応とはこういうものかと。保利さんに、「野蛮な国というのはどういうことですか」とたずねると、「せっかく日本が民主主義の国として生まれ変わって、ここまできたのになあ」と、ため息をついて、自分の執務室に入っていった〉
 
 政治家というのはつねに「国家」を思考と行動の原点にしているのだ――「それが政治記者になって間もない私の驚きだった」と著者は語ります。普通の人であれば「面白い」とか「悲しい」とか、個人レベルの感覚で受けとめることを、政治家は日本の国にとってそれはどういう意味をもつのか、というふうにまず考える。「一般の市民と政治家の違いはそういうことなのかと、私はあの時の保利さんのせりふから思い知らされた」と。

 責任倫理を背負って生きるオトナの存在感が、若き著者を感動させたと言ってもいいでしょう。翻って語られるのは、今日の政治家への不満です。結果責任に対してはほとんど意に介さず、「俺はやったんだ、俺は達成感をもっているんだと、そこには自分しかない」と思われる言動の危うさ。中曽根康弘氏が「菅政権を一言で表せば、『過去も未来もない政権』だった」と酷評しましたが(読売新聞「地球を読む」2011年8月14日)、過去とは歴史であり、未来とは国家としての日本の未来、すなわち、基本は国なのだ、と著者は語ります。「しかし、菅さんの頭にはその国というものは一切ない。あるのはただ現在、それも現在の自分だけだ」と。

 本書を通しての著者の問題提起はさまざまで、その全容を詳しく論じる余裕はありませんが、ただひとつ明らかに言えるのは、本書はいま現場で政治報道に携わっている後輩たちへの叱咤と激励がライトモチーフだということです。それが直接的に書かれているのではありません。けれども、「政治のレベルを上げるも下げるも、政治家自身の資質と努力と同時に、有権者の選択によるところが大きいわけで、政治は政治家と有権者の相互作用の産物なのである」と指摘する時、その接点を作り出し、政治家には正しい政治行動を、有権者には誤りなき判断をしてもらうための大切な役割を担っているのは政治記者である、という自負がこめられています。そして、今後も是非そうあってほしいという強い期待が秘められています。

 与えられた情報をたれ流しているだけでは、ニュースなど生まれるはずはありません。政治の中枢にいる政治家の発言の意味を鋭敏に看取し、それを的確に報道するためには、幅広い知識と磨かれたニュース感覚が求められます。そのための耐えざる努力と研鑽を積んでもらいたい、そして新聞記者の仕事の醍醐味を味わってほしい――。
 
 多事多難の季節だからこそ、もう一度役割に目覚めよ、という著者の声が聞こえてきます。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
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