Kangaeruhito HTML Mail Magazine 535
 
 百点を七百たび
 
 前々回のこの欄で、銀座「三原橋地下街」の取り壊しにともない、3月末で映画館「銀座シネパトス」が閉じられるという話を書きました。東京に、まだ「水の都」の面影が色濃く残っていた時代に、三十間堀川と呼ばれていた掘割のひとつを埋め立てて、そこにあった三原橋を活かして作られたのが、この地下街でした。1952年(昭和27年)のことです。

 それからほどなくして、いまなお続くもうひとつの「銀座名物」が産声を上げました。1955年(昭和30年)1月創刊の、月刊タウン誌「銀座百点」です。この3月号で創刊700号を迎え、こちらは祝賀ムードです。発行元である銀座百店会の渡邊明治理事長も、「よりいっそうの精進を重ね、皆様に愛され、ご満足いただける、都会的で、粋なタウン誌を目指してまいりたく思います」と、改めて抱負を語っています(700号「ごあいさつ」)。

 先に書いてしまうと、私自身はゆっくりと“銀ブラ”を楽しむ柄でもなければ、そういう思い出も持ち合わせていません。銀座のはずれ、と言うと地元の人に怒られそうですが、隣町の京橋の会社に30年間勤めていましたので、昼となく夜となく、足しげく銀座には通いました。四季折々の風情も味わいましたし、行きかう人々の様子やショー・ウィンドウの飾りつけを見て歩くのを楽しみにしていたことも事実です。ただ、のんびりと買い物をするとか、「わが町銀座」といった愛着を抱くような付き合い方とは無縁でした。いつも用事を抱えて慌しく、足早に行き来していたという思い出ばかりです(たとえ夜の銀座であったにせよ)。

 しかし、実際の街との関わりはどうあれ、「銀座百点」とは、実にコンスタントな付き合いを続けてきました。最初に読んだのがいつだったかは覚えていませんが、この誌名は「お客様に百点満点をいただける店に」というところから来ているので点数の「点」、組織の名前は「銀座百店会」だから誤植に気をつけるように――と先輩編集者から教えられたのは、新入社員時代、つまり35年前の春先でした。

 雑誌が創刊されたきっかけは、新宿、渋谷などのターミナル・ショッピングが勢いを増し、「銀座斜陽論」がささやかれるようになり、老舗の旦那衆が危機感を募らせたからだと言われています。1954年(昭和29年)に銀座百店会が発足して、街の再活性化に向けた模索が始まりました。そして、当時銀座にあった文藝春秋の佐佐木茂索社長に相談したところ、同社の編集幹部であった車谷弘氏を紹介され、その助力を得て、翌年1月にPR事業の一環として、「銀座百点」が発行されます。

「より高い、より明るい、より美しい、より楽しい銀座、何処にも他に求めることのできない立派な銀座に育てあげることこそ、銀座をあずかる私共の務めでありましよう」と創刊号の巻頭に心意気が示されます(銀座百店会「御挨拶」)。

 ですから、この雑誌の基本的な性格は、銀座の古き良き伝統を育て、広め、新しい時代を作り上げていこうという老舗店主たちの切なる願いと、文藝春秋という出版社のカラーが混ざり合ったところから生まれています。前者でいうと、「銀座百点」の常連筆者であった上坂冬子さん、津村節子さんから、以前に伺ったエピソードを思い出します。

 30年ほど前ですから、創刊30年だったか、300号か400号記念だったか失念しましたが、何かの節目にお祝い用の豪華特製本を作った時のことです。見本が出来上がり、一同喜んでいたまさにその時に、大きな誤りが見つかったのです。もう時間がない、いまさら刷り直すには手間もかかる、コストもかかる、となれば、関係者に謝罪をして、ミスには目をつぶる――大方そうなるだろうと踏んでいたところ、「全冊作り直し」の大号令が発せられたのだといいます。「不備なものをお配りしては、信用と奉仕を旨とする自分たちの名折れになる」と。

 そういう気概や志は、この雑誌をありきたりのタウン誌にしなかったことからも明らかです。店舗紹介などを中心にした情報誌ではなく、日本人の憧れの街である「銀座の文化の香り」を送り届けようという基本コンセプトが一貫しています。バブルの時代にもこの矜持は変わりませんでした。

 後者についていえば、車谷さんが自分のお眼鏡にかなった筆者に声をかけ、雑誌の中核に据えた点でしょう。創刊号から久保田万太郎、吉屋信子、源氏鶏太、福原麟太郎、森田たまといった人たちが登場し、その後も子母澤寛、室生犀星、円地文子、戸板康二、池田弥三郎氏らが続々と加わります。写真ページも秋山庄太郎、林忠彦、杉山吉良氏らが最初期から関わっています。こういう芸当は“にわか編集部”だけですぐにできるものではありません。

「銀座百点」に先行していたのは、大阪で発行されていた「あまカラ」(甘辛社)という伝説のPR誌です。小島政二郎の『食いしん坊』(河出文庫)の発表舞台としても有名ですが、終戦後まだ食料事情も十分でない時期に、「たべもの・のみものの楽しい雑誌を」と考えた編集者が、大阪の老舗のひとつである「鶴屋八幡」をスポンサーにして、1951年(昭和26年)8月に創刊した雑誌です(*)。

 横開きのスマートなポケット版で、「大阪出の雑誌としては珍しく垢抜けのした」(小島政二郎)気のきいた、お洒落な雑誌でした(いまも古本の世界では高値でやりとりされています)。小島は企画段階から相談を受けていましたが、そもそも彼の「食」エッセイを柱にした雑誌を作りたい、というのが編集者の意向でした。小島は「食いしん坊」を連載して、その期待に応えます。モダンな表紙、斬新なデザイン、執筆陣の豪華さ(吉田健一もここで健筆をふるいます)、内容のレベルの高さは、いずれもPR誌の域を超えており、小島の連載も評判を呼びました。
 
〈私が小説でいくら傑作を書いても、だれも褒めてくれないのに、この「食いしん坊」は載せ始めから、好評嘖々(さくさく)で、私の顔さえ見れば、小説家の友だちも、ジャーナリストも、しろうとも、
「食いしん坊を面白く毎号愛読しています」
 という人ばかり多くって、しまいにはどうしておれの本職の小説をこれほど褒めてくれないのだろうと浮世をはかなむようにさえなった〉(『食いしん坊』あとがき)
 
 小島自身は東京・上野池之端の生まれで、芥川龍之介、菊池寛、久保田万太郎、佐佐木茂索らとは若い頃から交誼を結び、芥川賞、直木賞ふたつの選考委員を務めるなど、大正・昭和の文壇史には欠かせない存在です。文藝春秋との縁の深さについても言を俟ちません。ですから、大阪生まれの「あまカラ」ですが、当然そこには東京の血が流れ込んでおり、いまでいうハイブリッドな文化誌としてスタートしています。それが次に、「銀座百点」創刊時のお手本となり、具体的にどう関わったかは不明ですが、少なくともいまの「銀座百点」の体裁――「男性は上着のポケットに、女性はハンドバッグに収まるように考えられた」という変型B6判のスタイルは、まさに「あまカラ」を踏襲したものです。また、表紙、題字に佐野繁次郎を起用するという発想も、「あまカラ」のイメージを参考にしたかと思われます。

 ともあれ、それらが見事に溶け合って、新たな器が生み出されました。さらにこの雑誌の個性としては、芝居(とくに歌舞伎)と俳句のふたつのジャンルがバックボーンとなりました。いずれも編集顧問であった車谷さんの趣味の領域です。古くからの友人である永井龍男氏が述べているように、「銀座百点」の編集にタッチしてからの車谷さんは、自分の好みを「色濃く遠慮なく表現」しました。

 創刊間もなく始まった「演劇合評会」は久保田万太郎、戸板康二、池田弥三郎氏ら豪華メンバーが顔を揃え、やがてそれに円地文子さん、車谷さん自身が加わります。いまなお巻末の定番として続く「銀座サロン」はその流れです。また、和歌はなくとも「銀座俳句」の投稿欄。最初の選者は中村汀女さんでした。

 恒例の「百点句会」が誕生したのは1957年(昭和32年)2月号からですが、当初から久保田万太郎、冨安風生、水原秋櫻子、中村汀女、飯田龍太といった名だたる俳人や各界の名士が集っています。そして先ほど名前の出た永井龍男さんが、俳句欄の選者を引き受けたのは、翌1958年(昭和33年)の10月号からでした。車谷さんによれば、「銀座百点」に力を注いでくれた久保田万太郎氏が、「こういう雑誌の俳句選者は、結社をもたない作者がいい。永井龍男君なんかどうだろう、その方が特色が出る」とすすめたのが始まりだったといいます(車谷弘『銀座の柳』中公文庫)。

「はじめは退屈しのぎ程度の、かるい気持ちでひきうけた」と思われる永井さんでしたが、とにかく「誠実で、凝り性」の人だけに、選句は「あくまで真摯そのもので、きびしい態度をくずさなかった」といいます。
 
〈その熱気は、しぜんと投句者にもつたわるものとみえて、応募ハガキは急速にふえ、二分の一ページの俳句欄が、一ページになり、一ページ半になり、ついには二ページを越すまでにひろがっていった〉(同書)
 
 こうした盛況を注意深く眺めながら、「永井さんに投書するといい」と娘夫妻に俳句を勧めたひとりに小泉信三氏がいたそうです(いまや小泉信三にも解説が必要かもしれませんが、関心のある方はお調べ下さい)。氏によれば、「和歌なり俳句なりを、若いうちに勉強しておくと、一生の得になる。物を見る眼もこまかくなるし、生活もゆたかになる」ということのようでした。

 娘夫婦はこの言葉にしたがって、熱心な投稿者となります。そして、1969年(昭和44年)3月号の俳句欄に、

 酒も呑み季寄せなどみて春の風邪   小泉準三

 というのが入選し、翌4月号に、

 春の風邪コップの水を鉢植に   小泉タエ

 というのが入選し、それを見た永井さんが「前号『酒も呑み』の小泉さんの奥さんか? 何げない中に情感がある」と「選評」に記しました。
 
〈それまで、この俳句欄で、小泉準三、小泉タエの名前は、しばしば眼にしたが、このおふたりにどういうつながりがあるのか、誰ひとり知ってはいない。それを、この俳句を通して、「奥さんか?」と指摘したのは、ずいぶん大胆みたいだが、これは選者の、おそるべき嗅覚といわねばなるまい。そのとき私は、
「こんな事を書いていいのかな」
とあやぶんだ記憶がある〉(同書)
 
 はたして事実だったわけですが、その小泉タエさんが今回の700号の「百点句会」にも出席されているのは慶賀の至りです。そして、当初は「かるい気持ち」で選者を引き受けたかもしれない永井龍男氏が(途中交代した時期もありましたが)、最終的にその任を退いたのは1988年(昭和63年)10月号でした。以来、選者を務めているのは高橋睦郎さんで、すでに通算では永井さんの任期を上回り、最長記録の更新はまだこの先も続きます。

 驚くべきは、創刊以来の心意気や個性がいまなお脈々と受け継がれている点だろうと思います。これこそ銀座という“地域”に根ざしている強みかもしれません。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*「あまカラ」は1951年(昭和26年)8月から1968年(昭和43年)5月の200号まで発行されましたが、そこで休刊となりました。その後、季刊誌「甘辛春秋」に引き継がれ、1968年春の巻から1973年冬の巻まで続きましたが、以後休刊となっています。
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