Kangaeruhito HTML Mail Magazine 544
 
 戦艦大和沈没の海へ
 
「この度、邱永漢の一周忌を迎えるにあたり、生前故人が望んでおりました通り、遺灰を海に委ねることに致しました。生前お世話になった皆様にお集まりいただき、見送りいただけましたら幸いでございます」という案内状を手に、6月6日午前11時、東京お台場の「パレットタウン水上バス発着所」を出港する大型クルーザーに乗り込み、邱永漢さんを送る「散骨クルージング」に参加してきました。

 このところ、ひそかなブームを呼んでいるという散骨ですが、こんな大がかりなツアーは、もちろん初体験です。「中国人のように、子孫の繁栄を願って、地形の良い所を探して、墓を建てる必要はない」、「生きている間も……人間の生き様や食べることにしか関心を持てなかった人間が、死んで眺望の素晴らしい所に住む必要はない」(『死に方・辞め方・別れ方』PHP文庫)と言い続けていた邱さんらしく、骨は海に撒いてもらいたい、というのが遺言だったとか。

 故人の「徳力」のなせる業か、お天気にも恵まれました。参加者は90余名。私たちのような編集者が3分の1くらいでしょうか。ちょっと様子を覗きに来ました、と好奇心半分の参加でも、邱さんはきっと笑って許してくれたことと思います。賑やかなことが大好きだった故人の思い出話などをするうちに、船は30分ほどで東京湾の「散骨ポイント」に辿り着きました。

 そこで、水溶性のパックに詰められた遺骨が、参加者全員に配られます。それを船尾のデッキから、順番に、献花とともに海に投じます。細かく砕かれた白い粉末状の遺骨が海面に広がり、ゆっくりと海底に沈んでいくシーンは感動的です、と聞いていましたが、そこまで視認することはできません。ただこの間ずっと、邱さんが好きだった谷村新司の「昴」の演奏がバックに流れていました。一年前の「お別れの会」では、日本語と中国語で書かれた歌詞のカードがテーブルに用意されていて、フィナーレはその大合唱だったように記憶しています。

「我は行く 蒼白き頬のままで」、「ああ いつの日か 誰かがこの道を」という邱さんの旅が、きょうここからまた始まるのか、と手を合わせながら思います。

 ところで、これまで散骨の例はいろいろ話に聞いてきましたが、その中で何といっても忘れがたいのは、内田貢さんのケースです。内田貢さん、と言っても知らない人が大半なのはやむを得ません。終戦の年の4月7日、東シナ海に沈んだ戦艦大和の乗組員の、ほんのひと握りの生き残りとして、戦後の日本社会を生き抜き、2002年(平成14年)3月7日に亡くなった方です。大和の生存者とその遺族に取材した辺見じゅんさんの渾身のノンフィクション『男たちの大和』(ハルキ文庫)の中心的な証言者です。

「自分が死んだら、大和の沈んだ場所に散骨してほしい。戦友のところに返してほしい」というのが遺言でした。「たくさん戦友がいるから、向こうで話したい。そうすれば淋しくない」と、生前から何度も言い続けていたそうです。

 また、「死ぬまでに一ぺん、大和の沈んどる海に行きたい。そうせんと死ねんのや」とも語っていた内田さんは、1985年(昭和60年)に行われた戦艦大和の探索(「海の墓標委員会」主催、辺見じゅん委員長、角川春樹事務局長)では、阿川弘之さんとともに副委員長を務めました。そして同年7月29日、イギリスから運び込んだ当時最新鋭の自走式潜水艦「パイセスII」による潜航探索の際には、高まる胸の鼓動を抑えながら、現地で固唾を呑んで作業を見守っていたひとりです。

 沈没地点すら確定していなかった戦艦大和を発見し、そこから遺品、遺骨を揚収するというプロジェクトは、「砂漠に落ちた針を探すような」(角川春樹)それ自体が無謀な試みでした。過去に同じような夢を見て、それに情熱を燃やした人たちが、ことごとく敗退を繰り返して来たという、苦い歴史もありました。

 ところが、この探索行を開始して3日目、神がかりとしか思えない偶然が幸いします。詳細は省きますが、7月31日午前10時55分、北緯30度43分、東経128度4分、水深335mの海底を捜索中、暗闇に横たわる、大和の46センチ主砲弾を発見。さらに午後12時5分、大和特有のチーク材の木製甲板を確認。そして午後1時24分、潜水艦のライトの先に、この船のシンボルであった艦首部分の「菊花紋章」が発見されたのです。40年の時を隔てて、海底で深い眠りについていた巨大戦艦の伝説の紋章が、青い輝きを放ちながら、再び姿を現したのでした。
 
〈「カラキー! カラキー!」
 花束を海に投げる遺族たちに交じって、内田貢さんのはらわたを絞るような声が響いた。
「カラキ、わしが行くまで待っとってくれ!」
 内田さんが肩をふるわせている姿を見たのは、初めてだった。
 カラキと呼ぶのは同じ戦闘配置で、重傷の内田さんを庇い最後まで機関銃を撃ちまくって戦死した唐木正秋さんのことであった〉(辺見じゅん「男たちの海へ――戦艦大和探索記」、辺見じゅん・原勝洋編『戦艦大和発見』所収、ハルキ文庫)
 
 その劇的な大和発見から17年後、内田さんが亡くなった翌々月に、夫人も後を追うように他界しました。「元気になったら、お父さんのために散骨に行かねば」と、病床で最期まで言い続けていました。遺された養女の牧子さんは、父の3回忌を期して、その遺志を実現することを決意します。

 ところが、いざ実行の段となり、海上保安庁や鹿児島県の関係各所に連絡を取ると、一向に埒が開きません。曰く、あの海域は「非常に政治的に微妙な領域である」ために、漁船以外は出港が認められない。また、漁船に一般人が乗り込むことは違法にあたるので許されない――等々、高い壁が立ちはだかります。

 そこで発想を切り換えます。海洋散骨が難しいなら、空からの散骨はどうか、というのです。まず水上飛行機を考えます。とても無理だと却下されます。小型ヘリコプターではどうか。水没地点まで往復するのは、燃料不足で難しいと言われます。そこで大型ヘリコプターに当たってみた結果、大阪の航空会社で8人乗りのヘリコプターをチャーターできることが分かりました。

 大和の「命日」に合わせた2004年4月7日。内田さんたちは、鹿児島県の南端、枕崎から飛び立つことにします。前夜は指宿に一泊し、当日の午前11時半、大阪から来たヘリに乗り込みます。乗務員2名の他、内田牧子さんを含む関係者が5名。これまで支援してきた辺見じゅんさんは、事情があって参加できませんでした。

 搭乗前に念を押されたのは、「沈没地点をめざして飛行するけれども、天候いかんでは到達できない可能性があることを覚悟しておいてもらいたい。また、気流の関係で1ヵ所に長くとどまっていることは不可能である」ということでした。

 落下の危険性もあるので全員がライフジャケットを着こみ、「さあ出発」と緊張感が高まったまさにその時に、もう一度機外に出るように言われます。重量をさらに軽くするために、荷物は必要最小限の物にするようにという指示でした。そこで、遺骨と供花以外のほとんどすべての荷物を置いて、全員がふたたび乗り込みます。

 参加者のひとりは、会う人ごとに注意されていたといいます。「海に出たら、下から呼ぶ声があっても、絶対に答えちゃダメよ。あそこは大和以外にも、第2艦隊の船がたくさん沈んでいる。全部で4000人以上が亡くなっている。声に答えたら、必ず霊に引っ張り込まれるから」

 ところが、その日はいつになく無風。願ってもない好天に恵まれました。1時間半と言われていた距離を、なんと片道50分で辿りつきました。「お父さんがきっと守ってくれたに違いない」――誰からともなくそんな声が上がります。

 散骨ポイントでは、1ヶ所だけヘリの窓を開けることが許されました。当然、その席に坐る内田さんは、限られた時間内で速やかに散骨を行うための、窓の開閉の練習を出発前にしていました。散骨の際のマナーとして、遺骨は「自然に還る」桐の箱に収められ、父親の愛用していたバーバリーのハンカチに包んでいました。

 北緯30度43分、東経128度4分の上空を低く旋回してもらい、まず海軍式の敬礼をします。そして、父に代わって亡き戦友たちに向かい、「内田兵曹、ただいま帰りました。長生きをさせていただき、ありがとうございました」と唱えて、箱を海に投じました。それが落ちていくのを見届けたところで、機内の関係者に献花を促し、もう一度、「皆さんのおかげで長生きさせていただきました。何度も死ぬか生きるかという大手術をしましたが、その都度、生きながらえることができました」と海に向かって手を合わせたといいます。そして、「もうそろそろいいでしょうか」という操縦士の声をしおに、「みんなと一緒だから、もう淋しくないね」と呟きながら窓を閉め、再び枕崎へと向かいました。

 この一部始終をその夜のうちに、同行者のひとりから詳しく聞く機会がありました。散骨の場面が目に浮かびました。陸地の影とて何も見えない、東シナ海の大海原での散骨です。それにともなう危険や困難を顧みず、それを独力でやり遂げた内田牧子さんという女性に敬意を表さずにはいられませんでした。いま振り返っても、凄いことをやってのけたと感心するばかりです。「これを済ませなければ、私の昭和は終わらない」とご本人は思い定めていたといいます。

 戦後、郷里である三重県四日市に帰還した内田貢氏は、戦争みなし子などを次々と手許に引き取って、自分の養子として育てました。その一番末の養女だったのが牧子さんです。

 沖縄に向かった戦艦大和に襲いかかる米軍機の猛襲を受け、父の体の中には、何回手術を繰り返してもついに除去しきれないほどの金属片が残ったままでした。飛行機に乗ろうとする度に、金属探知機のアラームがその事実を呼び覚ましました。

「苦労して育ててもらった、そんな自分が親孝行できるとすれば、これしかない」と心に誓ったのが散骨でした。7回忌の時にもセスナ機をチャーターして、再び沈没地点を訪れました。その時には、前回、慌てていたのでホテルの部屋に置き忘れてしまった、母親の遺骨も携えて行きました。父への感謝の念はその後も忘れることはありません。

 辺見じゅんさんの『男たちの大和』が刊行されたのは1983年(昭和58年)12月です。映画化され、劇場公開されたのは、戦後60年目にあたる2005年(平成17年)12月。撮影が開始されたのは、内田さんの散骨が行われた翌年でした。そこで、原作にはなかった散骨のエピソードが、「現代」と「過去」をつなぐ物語として、映画の冒頭と最後のシーンを飾ります。
 

 大和慰霊碑が建つ枕崎の「火の神公園」で、牧子さん役の鈴木京香が、地元で漁師を営む神尾克己(仲代達也)と出会います。神尾は海軍特別年少兵として大和に乗り組み、内田さん、先述のカラキ(唐木)らに世話になったという設定です。そして、「船を北緯30度43分、東経128度4分まで出してほしい。大和の沈んだ4月7日にそこで散骨したい」という鈴木京香の懇願を聞き入れて、自分の小型漁船を、戦友たちの眠る海に向けて走らせます。

 ここで感動的なのは、その船に乗りこんだ15歳の新米漁師が、船中で二人の交わす会話を聞くうちに、60年前の出来事に次第に目覚めていくプロセスです。軍の無謀きわまりない沖縄水上特攻作戦の犠牲となり、多くの名もない若者が、この海で命を落とします。いま自分が船を操っているこの場所が“鎮魂の海”であることに、彼が初めて目を開かれる場面です。

 散骨が「現代」と「過去」を架橋する物語だとすれば、この少年は「現代」を飛び石に、「未来」と「過去」の物語をつなぐ存在です。希望をほのかに感じさせるシーンです。
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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