Kangaeruhito HTML Mail Magazine 547
 
 数学者、小説家、心理療法家
 
「数学はね、科学の女王と言われてるんですよ。僕もチラッとは女王を見たんやけど、これはダメやと思ってね」と笑顔で語るのは、河合隼雄さんです。数学科出身で、大学卒業後の3年間、私立高校で数学教師を務めていました。「数学者は美的センスがなくちゃだめなんです。僕はそれがなかったんで(笑)。いや、ホンマ、それで辞めたんです」。こうして女王様のことはあきらめて、「糟糠の妻」である臨床心理学の道へ進むことにした、という物語です(小川洋子・河合隼雄『生きるとは、自分の物語をつくること』、新潮文庫)。

「私は数学者になるほど想像力が豊かではなかったので詩人になった」(ヴェルレーヌ)

「私は学問の中で最も美しいこの学問の賛美者であり報いられることのない愛をこれに捧げている」(ポール・ヴァレリー)

「数学を知らない人に、世の中でもっとも深遠な自然の美しさを実感してもらうことは困難である」(リチャード・ファインマン)

 多くの人が女王様の前で頭(こうべ)を垂れ、その美しさを讃える言葉を残していますが、いかんせん城壁があまりに高すぎて、中の様子をうかがい知ることもできないまま、漠然とした憧れや尊敬を抱いていたのが数学です。そして、大学受験の苦しみから解放されると同時に、教科書も参考書も処分して、これですっかり縁が切れたと思い込んでいたのです。

 ところが、どうしたわけかそうした人間でも、このところ妙に数学が気になりだしました。算数の本を覗いてみたり、入門書を片手に数学の「学び直し」を始めようかと、少し本気で考えているのです。以前から、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』やシルヴィア・ナサーの『ビューティフル・マインド』(ともに新潮社)の感動を熱く語る人たちが、男女を問わず、たくさんいることは知っていました。最近では、江戸時代の天文暦学者であり、天才的な和算家でもあった渋川春海を主人公にした冲方丁さんの『天地明察』(角川文庫)の話題で盛り上がる場に居合わせたこともありました。そんなちょっとした潮の目の変化を感じながら、今号の「考える人」では数学の特集を組みました。題して、「数学は美しいか」です。

 さて、そもそも縁遠くなっていた数学について、認識を新たにするきっかけとなったのは、何といっても、小川洋子さんの『博士の愛した数式』(新潮文庫)との出会いが決定的でした。単行本になったのがちょうど10年前の夏。大量破壊兵器の有無をめぐる議論が紛糾し、2003年3月20日にイラク戦争が勃発、それが次第に長期化の様相を呈し始めた頃でした。

 国際社会の秩序が大きく揺らぎ、現実世界の行方が混沌としている時に、こんなにも整然として美しく、静謐な数字の世界が私たちをひそかに支えているのだという発見は、目が覚めるような衝撃でした。そっと差し出された一冊の本が、みるみるうちに話題となったのも、そういう目に見えない時代の要請との“幸福な”出会いがあったような気がしています。

 改めて作品の内容を紹介する必要はないと思いますが、交通事故の後遺症で80分間しか記憶がもたない64歳の数学者(博士)と、彼が暮らす家に家政婦として出入りするようになったシングルマザー(私)と、彼女の10歳になる息子の3人が織りなすハートウォーミングな物語です。年齢といい、関心領域といい、およそ共通点がありそうもない3人が心を通わせ、友情を育み、強い絆に結ばれていくありさまが、繊細な筆致で、瑞々しく描かれています。

 数式を媒介にしながら深い感性のレベルで交わされる対話。顔を合わせた瞬間からお互いに親しみを抱き合う博士とルート(息子の頭のてっぺんが、ルート記号のように平らだったところから博士がそう名づけます)。

 博士の記憶が80分しかもたないという制約条件も、3人の魂の交流にとっては何の妨げにもなりません。「頭の中に八十分のビデオテープが一本しかセットできない状態」であれば、博士の現実は“非歴史的”な時間のひとコマとして消費されていく運命です。記憶の蓄積は交通事故のあった1975年で停止していて、それ以降の新たな記憶は、どんどん消えていくばかりです。ところがそんな博士との関係をしっかりと支え、つなぎとめるのが数学です。「三角形の内角の和は180度である」という、未来永劫、永遠に変わることのない真理の世界。この“永遠”と80分間という“束の間”と、一見正反対に思われる二つの概念が奇跡のように交わるところに、不思議なドラマが生み出されていくのです。
 
〈「さあここに、直線を一本引いてごらん」
 いつだったか、夕方の食卓で博士が私に言った。……
「そうだ。それは直線だ。君は直線の定義を正しく理解している。しかし考えてみてごらん。君が書いた直線には始まりと終わりがあるね。だとすれば、二つの点を最短距離で結んだ、線分なのだ。本来の直線の定義には端がない。無限にどこまでものびてゆかなければならない。……更に、どんなに鋭利なナイフで入念に尖らせたとしても、鉛筆の芯には太さがある。よってここにある直線には幅が生じている。面積がある。つまり、現実の紙に、本物の直線を描くことは不可能なのだ」
 私は鉛筆の先をしみじみと眺めた。
「真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない」
 博士は自分の胸に手を当てた。虚数について教えてくれた時と同じだった。
「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目に見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない〉
 
 80分経過すると消えてしまう博士の記憶。しかし、彼を見守る二人には、生まれて初めて経験するような、この“至福のひと時”が次第に蓄積されていくのです。博士が虚数(マイナス1の平方根)を説明した時もそうでした。2乗してマイナス1になるような数字なんてあり得ないのではないか、と尋ねる「私」に、「いいや、ここにあるよ」と博士は自分の胸を指差します。「とても遠慮深い数字だからね、目につく所には姿を現わさないけれど、ちゃんと我々の心の中にあって、その小さな両手で世界を支えているのだ」と。

 この切ないほどにくっきりとした二つの概念の対照が、彼らの人間関係や、生のイメージを鮮やかに浮かび上がらせます。そして、人は誰しも限りある人生を生きて、やがて死んでいくのだという真実までも、さりげない形で伝えます。

 小川さんはこの作品が生れるまでの経緯について、「最初からストーリーがはっきり見えていたわけではない」と述べています。「数学について調べていくうち、さまざまな偶然の出会いがあり、その出会いが自然と物語を形作っていったのです」と(『物語の役割』ちくまプリマー新書)。

 たとえば、阪神タイガース時代の江夏豊の背番号が、完全数の28だと気づいた時。あるいは、220と284が、お互いの約数を足すとそれぞれ相手の数になる「友愛数」の関係だと知ったこと。

 またルートという名前も、「単なる行き当たりばったり」で、数学の記号から適当に選んできたものが、河合隼雄さんによれば、根(ルーツ)と道(ルート)という意味合いを兼ね備え、「博士と一つの根を共有するように友情を結び、大人たちの閉ざされた境界に道を開く」深い意味を担っていたのだと指摘され、作者自身が驚きます。それらの思ってもみなかった発見や偶然が、作者の意図を超え、手の中を飛び立って、どんどん自由に物語の世界を羽ばたきます。それを、小川さんは小説家の喜びとして語ります。
 
〈ですから私はときどき、小説を書きながら、書き手であるはずの自分自身がいちばん後ろを追いかけているな、と感じます。……
 自分が全能の神になって登場人物を操り人形のように操っていたのでは、自分の頭のなかに納まる話しかできません。……自分の思いを突き抜けて、予想もしなかったようなところへ小説を運んでいってくれるのは、自分以外の何かであるんじゃないか。そうなると、小説家も数学者も同じだなと思うのです〉(前掲書)
 
 物語はすでにそこに存在していて、語られるのを待っている。数学者が目に見えない世界の秘密を探り当てようとするように、作家もまた「現実のなかにすでにあるけれども、言葉にされないために気づかれないでいる物語を見つけ出し」、それに言葉を与えることが役割なのではないか。その時、作者が頭の中で考えることはきわめてささやかなものなので、むしろそうした思考回路をくつがえし、作者の手の届かないような、とんでもない所まで飛び立っていくような物語を書かなければ、書いている本人もおもしろくない、と語ります。
 
〈よい作品ができる時って、僕はそうやと思いますよ。自分の意図を超えた面白さが上手い具合に入ってこそ、良い作品になるんやと思います。思ってる通りに書けてもオモロないでしょう〉(『生きるとは、自分の物語をつくること』)
 
 河合隼雄さんもまた、そう述べます。そして、心理療法の現場でも「同じようなことが起きます」と言って、何か「ものすごくうまいこと」――「内的必然」と言いたいけれど、外から見る限り「偶然」としか呼びようのない「うまいこと」が起きて、不思議なことに、患者さんが治っていく。「僕が治したという感じはほとんどないんですね」(同)と吐露しています。
 
〈ある時、治療がうまくいったことをしゃべったら、「うまくいくはずや、偶然がいっぱい起こってるやないか」って言われました。そして「ここまで偶然が起こるのは、やっぱり河合さんが上手いからやろうな」と言われました。でも僕は何もしてない〉(同)
 
 この河合さんの発言を、逆の立場から見るとどうなるのか。そこで、どうしても紹介したくなるのは、村上春樹さんの次の言葉です。
 
〈河合さんと差し向かいで話をしていて僕がいつも感心するのは、彼が決して自分の考えで相手を動かそうとしないところである。相手の思考の自発的な動きを邪魔するまいと、細心の注意を払う。むしろ相手の動きに合わせて、自分の位置を少しずつシフトさせていく。たとえば僕がそのとき小説を書いているとわかると、僕を(あるいは僕の作品を)誘導するような可能性を持つ発言はきっぱりとやめてしまう。そしてほとんど関係のない話をする。それでいて結果的に、自然な思考水路のいくつかの可能性を示唆して、その行き先を僕自身に見つけさせようとする。少なくとも僕にはそんなふうに感じられた〉(河合隼雄・村上春樹『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』前書き、新潮文庫)
 
 ここから先は、人の魂の奥深いところに降りていく小説家と心理療法家の仕事の共通点として、村上さん、小川さん、河合さんがそれぞれに語っているところです。そうしてみると、患者を前にした心理療法家と、物語の前に佇む小説家と、宇宙の真理の前に跪く数学者と――勝手なイメージでしかありませんが、この3者の姿が重なって見えてはこないでしょうか。

「うまいこと」といえば、「河合隼雄ほど偶然の出来事がよく起きる人もいなかった」と長男の河合俊雄さんが語っています(河合隼雄『こころの最終講義』解説、新潮文庫)。カラスの夢を見たのでカラスについて調べていたら、直後の試験にカラスの問題が出た。心理療法でも、偶然の出来事がよく起こって、そのために患者が良くなった……。

 たまたま数学特集を組んだこの号で、7回忌にあたる本年に創設された河合隼雄物語賞・学芸賞の発表が行われるというのも、数学科出身の河合さんの「コンステレーション(偶然としか思えない内的必然)」の現われと思えなくもありません。またそこに、村上春樹さんが「思い出」を寄稿して下さったことも、目に見えない不思議な力のつながりなのではないでしょうか。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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