Kangaeruhito HTML Mail Magazine 552
 

岩見隆夫『演説はどこへ』(潮出版社、絶版)

誰に向かって語りかけるか

「わたしは政治のなかでは失言に一番関心がある。といふよりもむしろ、政治にはあまり関心がないくせに、失言はおもしろがる」と丸谷才一さんが語っています。自分は言葉をあやつる商売をしていながら、時々うまくゆかなくて困ることがある。それだけに、政治家が言葉を扱いそこねるのを見ると、思わず「同業者のやうな気分になる」というのです。

 もっとも、丸谷さんから見ると、戦後の日本にはあまり大した失言がなくて、おもしろみもなければ、国を危うくするような重大な失言もなかったといいます。例のバカヤロウ解散にしても、「言葉の天才、吉田健一の父親なんだもの、もうすこし藝のある失言をしてもらひたかつたなあ」という評価になります。それではあまりに寂しいので、何かないものか、といろいろ本をあさってみたところ、名失言が一つありました。1955年(昭和30年)、牧野良三法相が、監獄法改正の審議中に、「拘置所は立派なものを造らなければなりません。私や貴方がたが一番はいる危険性が多いのであります」と述べたというもの。
 
〈満場呆気にとられて、シーンとしてゐたさうです。
 たしかに二の句がつげないだらうな。
 これはむしろ、名言と言ふべきか〉(「昭和失言史」、『青い雨傘』所収、文藝春秋)。
 
 先週、麻生太郎副総理がドイツのナチス政権を引き合いに出して、日本の憲法改正も「あの手口を学んだらどうかね」と発言したことが物議をかもしました。暴言、迷言、妄言、放言といろいろ呼び方はあるでしょうが、報道を見る限り、ウケ狙いで墓穴を掘った大失言に属することは間違いありません。公開シンポジウムの場だといいますから、原稿なしでしゃべっていて、つい気を許してうっかり口をすべらせたのでしょう。丸谷さんの失言論を、もう少し引用してみます。
 
〈わたしは何かの会合で挨拶をするやうに頼まれたとき、かならず原稿を作る。即興ではやらない。きちんと全文を書いて、それをいちおう誰かに読んでもらつて、大丈夫となつたものを読みあげるのだ。……こんな具合に原稿を書くのは、まづ何よりも失言がこはいからなんですね。わたしは自分が軽率な人間であることをよく知つてゐる。だから用心するのである。原稿なしで長広舌をふるふ政治家なんて人たちは、よほど大胆なのだと思ふ。偉いなあ。頭がさがる〉(同上)
 
 公開討論での発言と、会の挨拶とでは性格が違うといえばそれまでですが、問題にしたいのは、およそ公的な場での政治家の発言とは思えない「言葉の軽さ」についてです。一体いつからこれほど緊張感がなくなったのか。政治家のひと言がそれなりの重みを持ち、少なくとも「言責」という言葉に実態がともなっていると感じられた時代がひと昔まえにはありました。ところが、いまや「言ったことに責任を持つ」どころか、言いっ放し、聞きっ放しが当り前。政治家の言説を問う議論が真剣みを帯びないのも無理はありません。

 前置きが長くなりましたが、毎日新聞のベテラン政治記者であった著者が、本書を著したのは1981年(昭和56年)です。時の総理は鈴木善幸氏。政治手法の手堅さが身上ながら、およそ口べたで、演説は味気ない役所作文の棒読みというのが定評でした。その総理が初めてアメリカを訪れた際の随行議員の証言が出てきます。

 アメリカ側は「グレート・コミュニケーター」と言われたレーガン大統領でした。ホワイトハウス南庭で行われた恒例の歓迎式典で、大統領は2週間前にボストン・マラソンで優勝した瀬古利彦選手の談話を引きながら、日本人の琴線に触れるようなスピーチを、鮮やかに、さわやかに、「鳥が歌うような口調で」語ったというのです。
 
〈米国の場合、専属のスピーチ・ライターがついている。思想、哲学、政策に通じ、実践の経験を持ち、演説者のパーソナリティーも研究しつくしたうえで、文章をつくる。せいぜい紙二枚、五分ほどのあいさつ文のなかに、すべてを完全にこめる。高度のテクニックだ。善幸のあいさつは、まずその点で大きな格差があった。日米のキズナが大切なことを、終始硬い文章で、きまじめにつづっただけだった。
 滞米中、善幸は十回演説したが、原稿を離れてジョークをとばし、喝采されたこともあった。しかし、ほとんどは長く、くどかった〉
 
「準備した演説がみな悪い。ウイットも琴線に触れるものもない」、「全部落第、三十点だ」と、この随行議員は外務省の担当官に苦言を呈します。しかし、問題なのは演説草稿の内容だけではありません。そもそも演説という行為にどれほどの意味を見出すかという根本的なところで彼我に「大きな格差」があったというべきなのです。その背景には、国内の政治の場においても、言葉を尽くして論戦を挑むとか、自らの政見をきちんと分かりやすく有権者に語りかけるという習慣が、いつしか忘れられていたことが挙げられます。そうした自覚を欠き、日頃の努力や工夫を蔑(ないがし)ろにしたところから、人を動かす血の通った言葉は出てきません。

 では、なぜそうなったのか。その原因を厳密に論じようとすれば、歴史をさかのぼって「政治と言論」、あるいは「政治家と言葉」の変遷をたどってみる必要がありますが、少なくとも戦後のある時期から、政治における言論の力が明らかに衰えた理由ははっきりしています。自民党による長期一党独裁政権が続いたことにより、政党政治がすっかり官僚化し、言論戦を通じて政策を決定するのではなく、「言論以前にすべての処方箋をきめてしまう」という政治体質が、与野党を問わず固定化したことでした。
 
〈政治に一種の無難主義がはびこっている。演説を中心とした表芸は、適当にさばいておいて、肝心な折衝、取引はほとんど舞台裏で、という裏芸時代が日常のことになった。そのすべてを無難にさばき、ボロがでないように取りつくろい処理するシステムとして、高性能の官僚機構が回転している、ということだ〉
 
 となれば、政権与党はなるべく事を荒立てないように、静かに国家運営にあたりたいと願い、一方、批判勢力・反対政党と化した野党は、硬直した議論を繰り返すか、せいぜい与党のシッポをつかまえようとするくらいで、とどのつまり、馴れ合いの与野党対決の構図が生まれます。言論の質はみるみる低下したというわけです。

 その間に情報化社会は進展し、メディアも多様化すれば、有権者の意識も変わってきます。政治コミュニケーションの質も、当然、変化してきます。有権者は誰も演説会場に足を運ばなくなったとされ、いつしか立ち合い演説会もなくなりました。そして、言葉よりも地縁、血縁といった人海戦術や、利益誘導のほうが票を動かすと言われるようになるのです。この流れはいまも変わりがありません。だから演説は軽視されても仕方ない、と。

 こうした「演説軽視」の風潮に疑義を唱えようとしたのが本書です。有権者が演説を「聞こうとしない」と言われているが、本当だろうか。「演説不作」の原因は有権者側の意識変化にあるとされるが、むしろそれは逆ではないか。根っこにあるのは、政治、政治家、その演説に信がおかれていないからではないか。原因は政治家の側にあるのではないか――。

 本書は、政治記者になれば「聞きごたえのある議会人の言説を、肉声でとっくり耳にできるのではないか」と期待していた著者の「拍子抜け」した体験を発端に、「毎日新聞」紙上で約2ヵ月間、連載された企画をまとめたものです。参考資料として、当時の現職国会議員のアンケート調査と、戦前戦後の名演説集が収録されているのも貴重な手がかりです。

 戦前の雄弁家として並び立つ永井柳太郎、中野正剛の演説をはじめ、反軍演説として名高く、昭和15年2月2日の衆院本会議の議事録から削除され、懲罰委員会で除名処分を受けることになった斎藤隆夫の質問演説も本書で初めて読みました。議場以外では言いたいことも自由に発言できない時代にあって、斎藤が立てば自分たちの代弁をしてくれると信じ、手弁当で雪の中を駆け回り、橋一本架からなくとも、彼を議場に送り続けた兵庫県但馬地方の支持グループの物語を読んだのは、それからのことでした(草柳大蔵『齋藤隆夫かく戦えり』文藝春秋、絶版、松本健一『評伝 斎藤隆夫』岩波現代文庫)。

 政治家の言葉が話題を呼ぶのは“問題発言”の時ばかり、というのは何とも寂しいかぎりですが、さらに言えば、いまの政治家が自分たちの話術について疑いを持っていない(恐れを知らない)点も気になります。一例を挙げれば、毎年秋に東京国際映画祭が開かれます。そのオープニング・セレモニーや初日のディナー・パーティには、歴代首相、担当大臣、副大臣といった人たちが参加してスピーチを述べます。晴れやかな場なので上機嫌であることはいいのですが、「自分がいかに“映画大好き人間”であるか」を無邪気に吹聴している姿は、子どもじみて映ります。想定している聴衆は、どうやら地元の支援者か、永田町の住人に近いイメージなのでしょう。大きな声で、独特の抑揚で、自信に満ちた熱弁をふるうのですが、概して陳腐で、場違いで、独りよがりです。ゲストの中には世界の映画人、プロ中のプロたちがまじっているわけで、背筋が寒くなるような瞬間を毎回味わいます。きっとこれはダボス会議(世界経済フォーラム)でも同じ光景だろうと思います。

 政治に言葉の復権を願う声は、本書が刊行された後も、しばしば耳にしてきました。しかし、それを実現するまでには、長い道のりが予想されます。インターネット時代を迎え、言葉のとびかうスピードも、量も、届けられる範囲も格段に進化しているにもかかわらず(いや、それだからこそかもしれませんが)、本当に耳に届く(心に残る)言葉は少なくなっているように感じます。

 本書の締め括りは、偶然ながら、丸谷才一さんの談話です。少し長くなりますが、そのまま引用しておきたいと思います。
 
〈政治家は単にみんなを喜ばせるとかではなく、自分が自分の論旨をちゃんと平明に語りかける、その相手を自分の意識のなかでどう設定するか。そこが問題だ。逆にいえば、最大の問題は、いまの日本の政治家が自分の政見をちゃんと語りかける相手をもっていない。聞き手と自分の間に知的な交流がない。交流があるとすれば、なにか情的なもの、義理によるものとか、あるいは買収によるものとか、程度の低い交流しかない。そんなところで、程度の高い政治演説はありうるはずがない。相手の知的程度に対する信頼があって話をすれば、かりに冗談をいっても通じる。
 いまの有権者は相当のソシャク力を持っている。なんのかんのといっても、戦前の新聞の発行量にくらべれば、いまはすごいものだ。日本の識字率、これは世界最高でしょう。これだけ本を読む国民も世界中にない。それやこれやを考えてみて、その国民をとらえるときに、ちゃんとした意見でとらえようとしないのは、実に馬鹿げた話です。カネなんかまく必要ないんだもの。もっと面白い、読める印刷物やビラを配れば読んでくれるし、話だってちゃんと聞いてわかる政治の話をすれば聞くと思う〉
 
 演説の復権を考える時、いまも変わらない、もっとも本質的な問題提起だと思います。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*1回お休みをいただき、次の配信は8月22日とさせていただきます。
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