Kangaeruhito HTML Mail Magazine 554
 
 大山祇神社へ(夏休み日記 その1)
 
 私事ながら8月21日で60歳、還暦を迎えました。と言っても、何かが目に見えて変わったわけではありません。ただ、以前にこのメールマガジンでも書いたように(No.529「陸に沈む」)、これを機に人生の再設計をしてみるのも(それがリセットか、リフレッシュか、リフォームなのかは別として)悪くない考えだと思っています。  

 そんな折も折、広島県尾道市の因島(いんのしま)から嬉しいお誘いがあったのを幸いに、ご近所にあるわがご先祖様ゆかりの地にも、還暦の報告と祈願に行くことにしました。向かった先は、伊予国一ノ宮、愛媛県大三島にある大山祇(おおやまづみ)神社というところです。

 たまたま阿川弘之さんの新刊『鮨 そのほか』(新潮社)を紹介した際に(No.548「にっぽん最長現役作家の旅」)この神社の話に少し触れることにもなりました。瀬戸内海の海上交通の要衝として重要視される大三島にあって、海神(わたつみ)に対する山神(やまつみ)の名をいただいたことは興味深いのですが、海山の神をともに祀った「大日本総鎮守」として知られています。歴代天皇をはじめ、源氏、北条氏、足利氏など、あまたの戦国武将たちの尊崇を集め、近代以降でも伊藤博文、山本五十六らが参拝しています。

 縁起については諸説あるようですが、社伝によれば、「神武天皇御東征のみぎり、祭神の孫、小千命(おちのみこと)が先駆者として伊予二名島(四国)に渡り瀬戸内海の治安を司どっていた時、芸予海峡の要衝である御島(大三島)に鎮座したことに始まる」とされています。

 そして、この神職(大祝・おおはふり)を務めていた小千(越智)玉純(たまずみ)という人物が、701年(大宝元年)に、現在の場所に社地を定め、それを継いだ彼の次男が神殿を造営。一方、長男は国政と軍事を担当するということで、「河野」の姓を名乗り、“わが先祖”になったと伝えられます。「それまで祭政一致であった越智氏の支配権が、祭祀と国事に二分されたのである」というのです(森本繁『村上水軍全紀行』新人物往来社)。

 詳しいことは分かりませんが、神職(大祝職)は代々越智氏(のち三島氏)が担い、また「越智―河野」という両家はその後も密な関係を維持します。少なくとも私の祖父の戸籍を見る限りでも、一生のうちに越智を名乗ったり、河野を名乗ったり、ふたつの家の間を行ったり来たりしています。不思議な関係です。とまれ、河野一族は海人として、この地域の権を掌握し、やがて村上氏、来島氏らの水軍衆を束ねて、「海賊大名」として生きることになった……と、最近の研究成果などに教えられながら(藤田達生『秀吉と海賊大名』中公新書)、ざっくりとした理解を得ています。

 ただ戦前の歴史教育では、鎌倉時代の河野通有(みちあり)という人物が“救国の英雄”として扱われていたこともあり、歴史好きの人たちにはいろいろなエピソードを教わりました。蒙古襲来の際の武勲についてです。
 
〈鎌倉時代、幕府執権北条氏によって、徹底的に取り締まられ、逼塞させられていた海人たちが、息を吹き返すのは元寇すなわち文永十一年(一二七四)と弘安四年(一二八一)の二度にわたる元軍の日本来襲によってであった。
 とりわけ、弘安四年(一二八一)の弘安の役によって、それまで北条氏の得宗政権によって抑圧され、小さくなっていた伊予の河野氏と部下の村上氏とは、この役による活躍によってようやく日の目を見ることができた。このとき河野通有に率いられた村上水軍は、筑前博多に出陣して防塁を背後に陣を取り、「河野の後築地(うしろついじ)」との勇名を後世に残した。彼らは来襲した敵艦に小船で乗り付け、帆柱を倒して敵艦によじ登り、敵将を虜にして武名を轟かせた〉(前掲『村上水軍全紀行』)。
 
「後築地」というのは、鎌倉幕府が九州諸国の諸豪族を動員して構えた築地(防塁)を見た河野通有らが、「自分たちの決死の覚悟を示すために、その防塁石垣の前に陣取った」という逸話です。また通有は出陣に先立って大山祇神社に参拝し、社殿脇の楠の根株に兜をかけて戦勝を祈願。誓願書を書いて奉納した後に、それを神火で焼き、灰を神酒に浮かべて将兵とともに酌み交わし、それから博多湾に出陣したといわれます。
 その遺跡となる楠の古木がいまも境内には残っています。相当な巨木だったと思われますが、兵火に遭い焼け落ちたそうです。また、神社には「神使白鷺の絵馬」という額絵があり、これは蒙古の艦隊と対峙した通有の前に、突如沖合いの雲間から一羽の白鷺が現れて、その動きを見るうちに、これぞ神のお告げと思って敵艦に漕ぎ着け、元軍の将を生け捕りにした、という故事来歴に拠っています。小学校の時代に歴史好きの先生が、教科書そっちのけで次々と、この類の“講談”を聞かせてくれたものでした。
 訪れた時は、あいにくの大雨となりました。次第に雨脚が強まる中を拝殿へとまっすぐに進み、参拝を終えた後、宝物館(紫陽殿・国宝館)に足を向けました。このところ博物館や展覧会にはよく出かけるほうですが、もっぱら目にするのは絵画、彫刻、写真、焼き物といった美術系です。ところがここは、何より源頼朝、義経、河野通有らが奉納した鎧をはじめ、兜、刀剣、弓矢など、全国の国宝・重要文化財指定の武具類の8割が保存されています。これほどおびただしい刀剣類や、甲冑をひたすら集中的に見続けるという経験は、絶えて久しいものがありました。

 ことさら「武」の威勢を誇示するでもなく、むしろ静かな空間にさりげなく展示されているだけですが、やはりこれは衝撃的でした。工芸、装飾的な見事さの一方で、これらを身にまとい、実際に用立てたのは、勢力間の熾烈な抗争の、血で血を争う戦さだったのだと想像すると、歴史の重さが肩にずっしりと食い込んでくるようです。

 この宝物館の少し先になりますが、重要文化財の宝篋印塔が3基並んでいて、中央の1基は時宗の開祖、一遍上人が建立したと伝えられています。通有とほぼ同時代を生きた一遍上人も河野一族の出身ですが(俗名・河野時氏とも通秀とも通尚とも言われます)、世俗の争いに背を向けて、念仏流布の諸国遊行の人生を送りました。そして、大三島を訪れた際に、元寇の戦いで討死した一族の者を供養するために、この宝篋印塔を奉納したのだと聞いていました。
 
〈本殿の右手奥には一遍上人奉納の苔むした宝篋印塔が三基建てられている。一遍は河野一族の出身だからここに彼の記念があるのは何の不思議もないといえばいえるが、名誉ある水軍の頭領の家に生れながら一所不住の「捨聖(すてひじり)」となり、諸国流浪の布教活動に生涯を捧げた、希代の宗教的才能が、この「日本総鎮守」の島に深い由縁をつないでいることは、考えて見ればなかなかに意味深いようである。……一遍の創始した時宗教団は、念仏と舞踏による集団的熱狂を特徴とする鎌倉期の新興宗教の有力な一派だが、特に戦乱のさなかにあって軍勢に随伴し、戦死者の魂を弔う従軍僧の役割を果すことが多かった。現世の権力をめぐる争いが激しければ激しいほど、この穢土を厭離して、浄土に生れ変ることを求める欲望も、それと裏腹にいよいよ強められる道理である〉(川村二郎『日本廻国記 一宮巡歴』講談社文芸文庫)
 
 宝篋印塔の由来については、どうやら異説もあるようですが、ともあれ武具館が放つ無言の重圧に抗するには、一遍上人という存在を対置して初めて、いまを生きるわれわれにもつながる魂の物語が見えてくる気がします。聖-俗の、そうした小宇宙を思い描くかどうかで、この空間全体の印象もかなり変ってくるように思えます。それは「越智-河野」というふたつの流れを並存させた先人の智慧に関わるかもしれません。この場に実際に立たなければ分からないことでした。

 さて、この話はこの辺で切り上げて、大三島とは生口(いくち)島をはさんで隣に位置する、因島での一大イベントについてもお伝えしたいと思います。予期した以上の強いインパクトを受けた話は、次回に譲ることといたします。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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