Kangaeruhito HTML Mail Magazine 556
 

ジェイミー・ドーラン、ピアーズ・ビゾニー
『ガガーリン』(河出書房新社)

最初に宇宙へ行った男

 カッパ、ラムダ、ミューと呼ばれていた歴代の固体燃料ロケットの伝統を引き継いで、ギリシャ文字の「E」、「イプシロン」と命名された新型ロケットが、9月14日、鹿児島県肝付(きもつき)町の内之浦宇宙空間観測所から打ち上げられました。

 かつてアメリカが月へ人を送り込んだ時のように、大がかりな人手と予算をかけた「アポロ方式」を脱しない限り、「宇宙開発の未来はない」と森田泰弘プロジェクトマネジャー(宇宙航空研究開発機構=JAXA)は語ります。とはいえ、会議室のような小部屋に9人のスタッフ、巨大スクリーンもなく、デスクには普通の液晶ディスプレー。おまけに市販のノートパソコン2台で、イプシロンは発射管制できると聞くと、それを「画期的だ」と感嘆するより先に、やや拍子抜けしなくもありません。何しろあのアポロ宇宙船の、巨大な管制室のイメージがあまりに強烈に焼きついているからです。

 いまからちょうど半世紀前、1963年6月16日には、初の女性飛行士を乗せたソ連のヴォストーク6号が地球を48周して帰還しました。乗員であったテレシコワさんが発した「ヤー・チャイカ(私はかもめ)」は、最初に覚えたロシア語です。「半世紀後、ロケットは飛行機のように頻繁に上がり、宇宙が身近になっている」と森田さんは語ります。イプシロン打上げの瞬間をじっと見守っていた小学生たちが、いまの私の年齢になって、それを確かめることになるのでしょう。

 さて、ガガーリンと聞いて、あの人懐っこい笑顔が浮かんでくるのは、50代後半以上の人だと思います。「地球は青かった」のひと言は、宇宙への夢の扉を開けました。そのタイトルで、「少年少女20世紀の記録」というシリーズの1冊として出た本を、繰り返し読んだことを覚えています。1961年4月12日、ソ連の宇宙飛行船ヴォストーク1号に乗りこんだユーリー・ガガーリンは、世界初の有人宇宙飛行を成功させました。大気圏外の地球を1周して帰還する108分の冒険によって、27歳の若者が一躍世界のスーパースターになったのです。

 その8年後、人類初の月面着陸を果したアポロ11号のニール・アームストロング船長は、「私たちみんなに対し、星々をめざすようにと求めたのは、あのユーリー・ガガーリンだった」と語っています。ヴォストーク1号の成功は、間違いなく「人類の発展における最も重要な瞬間のひとつ」でした。そしてまた1961年4月という時点で、「地球が宇宙の果てしない闇を漂うちっぽけな青い球体であること」を実際に目にしたのは、30億の人類のうちガガーリンただひとりだけでした。宇宙飛行士の毛利衛さんは、当時、北海道・余市の中学2年生。感激のあまり、テレビ画面に映ったガガーリンと“肩を組んだ”記念写真を撮ってもらったと述べています(『毛利衛、ふわっと宇宙へ』朝日文庫)。

 ただ、「地球は青かった」という彼の“名言”については、その後、諸説を聞く羽目になりました。「ヤー・チャイカ(私はかもめ)」が一躍有名になったのに、どうして「地球は青かった」のロシア語が伝わってこないのか、というのは疑問でした。どうやらそれは、ガガーリンが語った地球の印象を、海外ジャーナリズムが見出し用に要約したフレーズが、そのまま一人歩きしたらしいと分かってきました。それにしても、冷戦時代は「ためにする」情報が錯綜しました。ガガーリンは実際には地球を見ていないはずだとか、甚だしいのは、そもそもヴォストークには窓がついていなかった、という説までまことしやかに囁かれました。
 
〈「天には神はいなかった。あたりを一所懸命ぐるぐる見まわしてみたがやはり神は見当たらなかった」
 ガガーリンのこのセリフはアメリカ人大衆に大変なショックを与えた。アメリカでは、ガガーリンのセリフとして、「地球は青かった」より、このセリフを記憶している人のほうが多いくらいだ。……アメリカ人にとって、ガガーリンのセリフは、第一に神への冒涜であった。第二に、無神論コミュニズムのアメリカ・キリスト教文化に対する優越性を誇る挑発的言辞であった。アメリカはこの挑発にカッとなったのである〉(立花隆『宇宙からの帰還』中公文庫)
 
「神はいなかった」という言葉が本当にガガーリンの発言かどうか、怪しいものだと思います。アネクドート(ロシア小噺)に似せて、反共プロパガンダをやろうとした作為を感じないではいられません。少なくとも、ガガーリンの素顔に迫ろうとした本書のような労作を読む限り、この言葉にリアリティはありません。おそらく当時は、フルシチョフ第一書記の側近が本書の中で語っているように、国を挙げて、ひたすら手ばなしの歓喜にひたったのだと思います。“雪崩”のような熱狂――それがすべてだったと思います。

 ガガーリンがモスクワの赤の広場に現れ、共産党指導者の伝統的なお立ち台であるレーニン廟の上の観閲台に立った時のことです。歓喜の声をあげる膨大な群集の一人として、このフルシチョフの側近はそこにいました。
 
〈私も涙しましたし、通りにいるおおぜいの人々も、ショックで泣いていました――幸福のショックです。人が空を飛んだ。神の領域を飛んだ。そして何より大切なことに、飛んだ人間はロシア人だったんです。祝おうという空気は、ほとんど自発的に生まれたものでした。スターリンの時代も、そしてフルシチョフの時代でさえも、いつものロシアにおける大衆感情の表明にはずいぶん演出されたところがありましたが、このときはちがいました。自然に、心から素直に喜んでいた人々の数は、ひょっとしたらソヴィエト連邦人民の九割ぐらいに及んでいたのではないでしょうか〉
 
 ガガーリンの陽気さ、親しみやすさ、気さくで誰からも好かれる性格が、一層祝福ムードを盛り上げたことは想像に難くありません。「フルシチョフは、誇りと幸福感に胸をふくらませ、喜びの涙を目から拭いながら何度もガガーリンを抱きしめ、それから自分も力強いスピーチを始めた」といいます。「陶然として聴き入った聴衆は、たびたび心からの喝采を送り、スピーチを何度も長く中断させた」と。

 しかし、フルシチョフにこのすばらしい勝利の瞬間を届けた若者は、第一書記との永遠に続くかと思われる蜜月関係を手にした代償として、彼の政治的ライバルからは敵視される運命を引き受けることになりました。3年後の1964年10月14日、東京オリンピックの開催中に起きたクレムリンのクーデターによって、フルシチョフの座を奪い取ったブレジネフに、ガガーリンという英雄はもはや必要な存在ではありませんでした。むしろ嫉妬と怨嗟の対象として、政治的に失墜させるべき相手でした。いまだに、1968年3月、34歳でのガガーリンの不慮の死に、ブレジネフ陰謀説が唱えられる所以です。

 そうした政治の渦に巻き込まれざるを得なかったガガーリンの悲劇もさることながら、ソ連の宇宙航空産業そのものが、暗い体制を象徴するような国家の厳しい監視下に置かれていたことも、驚くべき事実です。筆者は、ソ連崩壊後の「空前の自由が訪れた時期」に、KGBの未公開ファイルや、ソ連当局の機密文書を閲覧し、また宇宙開発計画の関係者や、ガガーリンの遺族、同僚、友人、ジャーナリストたちから貴重な証言を引き出しています。それでも、「個々のロシア人の口の重さ」という厚い壁にぶつかった驚きを、次のように記しています。
 
〈秘密警察がそれを強制する力をとっくの昔に失っているのに、どのレベルの社会でも口を慎む習慣が、しっかりとしみこんでいた。
 私は気がついた。一九六〇年代、ソ連の宇宙開発活動最盛期にガガーリンのそばで働いていた人の多くが、これほどの年月を経たあとでさえ、自分たちの経験について話し合うことにも、その人物の思い出を打ち明けることにも気が進まないのだと。軽率に口を開いたために、ずっしりした外套姿の正体不明の連中が朝早く自分のアパートに現れ、逮捕されてしまうのではないかと、今もって恐れているのだろう。おそらくもっと重要なことに、西側の人間というのは今でも異質すぎて、古くからの友人のような個人的な親しみをもって信用することが、できないのかもしれない。それに、職歴のすべてをソ連の軍事産業複合体で過ごした人々は、取り扱いに注意を要する専門的機密を、そうやすやすと部外者に洩らしたりしないものだ〉
 
 本書は、ガガーリンの生い立ちから死までの34年間の軌跡を辿るだけではなく、彼の生きた時代、その中で育まれた彼の個性、人間関係、内面の苦悩をできるだけ立体的に描き出そうとしています。ガガーリンの育ての親であるにもかかわらず、いっさい表舞台に名前の出ることすらなかったソ連技術陣の雄、セルゲイ・コロリョフの実像も本書を通じて明らかになります。

 彼は、ソ連のロケットおよび宇宙船の“設計技師長”として伝説的な人物でありながら、長らく絶対的な国家機密として、名前さえ明らかにされませんでした。しかも、死を予感していたと思われる大手術の2日前に、お気に入りの宇宙飛行士、ガガーリンとレオーノフの2人に初めて語った彼の半生とは、スターリン主義体制のもとで不当に逮捕され、激しい取調べの後、1938年から1940年までシベリアの強制労働収容所に投獄されていたという事実でした。「人々は、コロリョフを熊のような体格のたくましい人物だと考えていたが、実際の体は無数の古傷のせいで不自由なものだった。首を回すこともできず、上体を回してしか人の目を見られなかった。あごを大きくひらけず、大声で笑うこともできなかった」

 この最後となる面会からの帰り道、ガガーリンは無慈悲な全体主義体制への疑念を抑えることができずにいたといいます。「コロリョフのようなたぐいまれな人物が、なぜ抑圧を受けなければならなかったんだ?」と。

 あるいは宇宙飛行士の栄光の陰には、約1200人の“テスター”と呼ばれるグループが存在していました。彼らは初期の有人ロケット計画に関わる医学的・生理学的研究のために、ぎりぎりまでの身体的苦痛に耐え、さまざまなプログラムに関与しました。実験室のネズミと変わらない、使い捨ての要員です。遠心加速器や急減圧実験に集められた彼らの仕事は極秘扱いでした。こうした陰の功労者と出会ったガガーリンは、話を聞いた後で、彼らの一人をあたたかく抱きしめ、こう言いました。「セルゲイ、すべてはきみの手にある。きみは比類なき情熱の持ち主にちがいない」と。

 宇宙飛行士としての栄誉を手にしたことによって、ガガーリンは自分の中に大きな矛盾を抱えることになりました。体制に忠誠を尽くさなければならない反面、クレムリン上層部と接すれば、そこに蔓延している腐敗を目の当たりにします。彼を頼みに送られてくる庶民からの請願書を読めば、下層階級の過酷な生活実態を知ることになります。

 フルシチョフの意向を受けて、“外交使節”として海外へ出かける機会も頻繁にありました。友好国訪問はもとより、英国ではエリザベス女王と会談し、1962年5月21日から29日までは日本にも滞在しています(*)。どこでも歓迎され、見事な“外交官”ぶりを発揮しました。しかし、外の世界をより多く見ることは、その人物に幸福ばかりをもたらすわけではありません。内面の分裂をひろげる契機ともなるからです。

 本書の後半は、ままならない現実の流れの中でもがき苦しむガガーリンの姿を、知り得た事実に基づき、できる限り浮かび上がらせようとしています。わけても痛ましいのは、宇宙船に“203もの欠陥”が存在していることを事前に知りながら、それでも実施を延期できなかった1967年4月のソユーズ計画です。革命50周年のメーデ-に合わせて予定されたこの計画が、なすすべもないまま決行されようとしたその直前に、ガガーリンが突然示した尋常ならざる行動の謎――。死を覚悟していた飛行士のコマロフを救おうとして、ガガーリンは何をしようとしていたのか? 彼の「奇行」の真意は、いまとなっては確かめようもありません。

 辛くなるような記述が増えていく中で、救いとなるのは、彼を知る友人たちが勇気をもって、率直に語っている姿です。たとえば、同じ宇宙飛行士仲間であり、好敵手であったゲルマン・チトフ。最初の宇宙飛行士にどちらが選ばれても不思議でなかったライバルは、自分が“代替要員”に甘んじざるを得なかった過去の苦痛を正直に語ります。そして、こう述べます。

「長い年月が過ぎたいま、私は彼らが正しい選択をしたと思うようになりました。政府がどうとかではありません。ユーラが誰からも愛される男だったからなんですよ。私では、人々に愛されなかった。愛されるたちじゃないんです。みんながユーラを愛していました」

「いまだにうらやましいと思っていますよ、いま現在でもね。……ユーリー・アレクセイエヴィッチは誰とでもうちとけて話せる男でした――ピオネール(ソ連版のボーイスカウト)、労働者、科学者、農民、誰とでもです。相手の言葉で話すんです。わかりますか? 私はそれがうらやましかった」

 またガガーリンをよく知るジャーナリストは、彼が名声を得た後も、「自分の宇宙飛行を準備してくれたエンジニアや建造者たちの巨大なピラミッドの頂点に自分がいることを、決して忘れることはなかった」と語っています。その頂点でガガーリンが目にした光景は、地球周回軌道から見た地球のように、美しい青色でなかったことだけは間違いありません。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
 
* ガガーリン夫妻の訪日は、当時の新聞を調べると、ずいぶん長い滞在です。1962年5月21日、羽田空港に降り立ち、オープンカーでパレードした後、官邸に池田首相を訪問。その夜は日ソ協会の歓迎パーティがあり、記者会見も開かれました。翌22日は糸川英夫氏ら宇宙科学者たちとの会食に出席、夜はTBSで高橋圭三ショーに特別出演などしています。23日は早稲田大学で講演。24日は大阪。25日は京都。京都大学では湯川秀樹氏らの出迎えを受け、夕方名古屋へ。26日は札幌。27日、東京へ戻り、「平和と社会進歩をめざす青年のつどい」に出席。28日は「アカハタ」の取材を受け、夜はソ連大使館主催パーティ。翌日、帰国の途につくという過密スケジュールです。写真は5月23日、早大での講演後、四谷第五小学校を訪問した際のもの(撮影・新潮社写真部)。
 来日から6年後、ミグ機の訓練飛行中に事故死を遂げましたが、その墜落現場には、いまだにきれいな花束が手向けられているといいます。彼に続いて、多くの人間が宇宙へ飛び立ちましたが、世界で最初の人間はガガーリンただ一人です。
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