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是枝裕和『しかし… ある福祉高級官僚 死への軌跡』
(あけび書房)

 バスに揺られて

 是枝裕和監督の映画「そして父になる」を観てきました。今年のカンヌ映画祭の審査員賞受賞作。期待通りの作品でした。

 6年間育てていた息子が、実はわが子ではなく他人の子だったというショッキングな事実を、突然病院から告げられた2組の夫婦を通して、現代の家族のあり方を考えるヒュ-マン・ドラマです。

 都心の高級マンションに住む裕福なエリートサラリーマン家庭と、群馬で小さな町の電器店を営む、賑やかな6人家族。子育てをふくめてことごとく対照的な両家を巻き込んだ「新生児取り違え」という事件ですが、物語はむしろ何げない日常の描写を積み重ねながら、上質なサスペンス劇のように、出口の見えない終末に向かって静かに進行していきます。

 脚本、演出ともに素晴らしく、俳優の持ち味がよく引き出されています。とりわけ子どもたちの自然な表情は、どうやってあの伸びやかな演技をつけたのだろうと思わせるほどです。さりげなく映し出される時間の流れ。登場人物たちの心の揺らぎ、微細な感情のうつろいをそれとなく観客の心に刻みつけていく映像のテクニック、効果的な音楽の挿入も心にくいばかりです。

 問われているのは家族、わけてもこの時代における父親像です。「父親になる」ために大切なのは何か――「血」か、それとも一緒に過ごした「時間」か、という切実なテーマが、福山雅治、リリー・フランキーという対照的な個性を介して私たちに投げかけられます。かつてのように「父親である」ということが所与の前提ではなく、それぞれの家庭のありように応じて父性のかたちを模索していくしかない時代です。では、その「父親になる」きっかけとは何なのか。それを物語の中に探ろうとした試みが、この作品に他なりません。

 ……とまぁ、これから映画を見ようと楽しみにしている読者も多いことでしょうから、この話はひとまず切り上げて、今回は是枝さんの著書について触れたいと思います。実は先日、是枝さん自身から、大学卒業後に入社したテレビマンユニオンで、初めて手がけた番組について話を伺う機会がありました。

「しかし…」(1991年)というテレビドキュメンタリーです。生活保護を打ち切られて自殺した女性が残したテープをもとに、番組の内容がほぼ固まりかけていたその時に、環境庁の高級官僚が自殺するという事件が起きました。「当時それは大きく報じられたのですが、その方というのは……」という言葉を聞くうちに、鳥肌が立ちました。それが誰の話であるか、すぐに分かったからです。

 といっても、私の知人だったわけではありません。やはり亡くなられた後になって“事件”について興味を抱き、その人物のことがいまだにくっきりと脳裏に刻まれているからです。当時、マスコミが報じた氏の人柄は、「生まじめで家族思いで文人肌」、「文学青年の心持ち続けた官僚」、「優しすぎた男」、「官僚になりきれなかった水俣病担当局長の死」といったものでした。

 山内豊徳(とよのり)。1937年(昭和12年)、福岡県生まれ。父は職業軍人でしたが、終戦の翌年に上海で戦病死。その前年、母親が事情あって山内家を去ったため、8歳からは祖父母に養育されました。やがて東大法学部を卒業。国家公務員上級試験に99人中2番の成績で合格し、厚生省に入省。以後は一貫して福祉畑を歩み、福祉行政のスペシャリストとなります。1967年施行の「公害対策基本法」の制定、また身体障害者の保護更生、同和対策、生活保護行政などに関わり、1986年、環境庁に出向して後は、長良川河口堰問題、石垣島白保の新空港建設問題、地球温暖化問題、そして水俣病裁判など、山積する難題に取り組みました。1990年(平成2年)12月5日午前10時、53歳で永眠。

“事件”は、1990年9月28日、水俣病東京訴訟について東京地裁から和解勧告が出されたことが始まりでした。

「本件のような多数の被害者を生んだ歴史上類例のない規模の公害事件が公式発見後34年以上が経過してなお未解決であることは誠に悲しむべきことであり、その早期解決のためには訴訟関係者がある時点で何らかの決断をするほかにはない」と、東京地裁が予期せぬ形で和解勧告を出したのでした。国側はそれに対して、和解勧告拒否の態度を表明。国側の責任者として記者会見に臨んだ山内氏(環境庁企画調整局長)は、拒否理由として、「国の責任論や、水俣病とは何かの病像論をめぐって、われわれと原告との主張の隔たりはあまりに大きく、和解のテーブルに着く条件が整っていないと判断した」と述べています。

 この時の、彼の本心がどうだったのか。是枝さんは次のように推測します。
 
〈彼の人間としての思いと、環境庁の官僚としての見解、司法の判断は、複雑に彼の心の中で錯綜し、ぶつかりあった。しかし、彼は、官僚としての立場に徹し、親しい友人にさえひと言もその真情をもらしていない。苦悩は出口を失って彼の内側を傷つけた。そして、その苦悩によって、彼の行動や発言は歯切れの悪いものになったが、周囲はそれを彼の人間的な優しさとは受け取らず、官僚としての能力の無さと受け取っていた〉
 
 一方、和解拒否の弁明を続ける山内氏は、患者やマスコミの批判の矢面に立たされます。政権与党である自民党、他省庁、環境庁内部の調整に追われる氏は、「都内のビジネスホテルに宿泊したり、局長室のソファで仮眠をとるだけ」の毎日となりました。

 過労と心労の蓄積。そして「水俣行政」の板挟みになった苦悩のはての自殺――。それまでの厳しい追及をしていたマスコミの論調は、打って変わって同情的なトーンになりました。やがて、遺稿集『福祉の国のアリス』(八重岳書房、1992年)が刊行されたのを知り、さっそく求めて読みました。書名は、アリス・ヨハンソンという筆名で(『日本人とユダヤ人』のイザヤ・ベンダサンをまねて)、山内氏が業界紙に2年間、97回連載したシリーズ・タイトルから取られています。ルイス・キャロルの名作にならったそれは、かつて小説家を志願した人らしく、興味をいっそう掻き立てられました。

 環境庁長官が水俣の現地視察をしているさなかに起こったエリート官僚の自殺は、当然、大きなニュースになりました。現場となった自室の机の上には、名刺の裏に黒のボールペンで走り書きされた遺書が、2通置かれていました。ひとつは妻と2人の娘に宛てて、「感謝 こんなことで申しわけない」とあり、もうひとつは、環境庁の事務次官と官房長にそれぞれ宛てて「なんともお詫びができませんので」、「皆様にもたいへんな迷惑をかけて」とありました。後者については、環境庁が遺書の存在を伏せました。理由は定かでありませんが、それにしても、「お詫び」、「迷惑」という言葉が何を意味しているのか。53年間の人生の最期にこう記さなければならなかった官僚の一生とは何だったのか――著者は本書を通して問いかけています。

 先述したように、当初はまったく違った構想で番組の取材が進んでいましたが、大詰めの段階で、山内局長自殺という事件が起きました。調べるにつれて、その人への関心が募ります。そして、ためらう気持ちを一方に抱えながら、1991年1月10日、つまり山内氏の死から約1ヵ月後に、著者は山内夫人を訪問するのです。
 
〈彼女に何を聞きたいのか。
 テレビに出て夫のことを語る必然性が彼女の側にあるだろうか。
 バスに揺られながらそんなことを考えていた。ただ、友人や関係者への取材を通して、山内豊徳という人間に対する自分の興味は日に日に大きくふくらんでいた。
 彼はどう生きたのか。
 そしてなぜ死んだのか。
 そのことを理解する手掛かりを僕は知子さんに求めようとしていた〉
 
 そして、この時に是枝さんが聞いた言葉を、先日、初めて教えられました。取材意図の説明を聞いた山内夫人は、落ち着いて答えたそうです。「私にとってはすごく個人的な夫の死ではあるけれども、夫の死は非常に社会的な問題を含んでいると思うから、番組の趣旨がそういう方向であるのならば、私が出てしゃべることが夫の望むことだと思う」と。

 さらに驚いたことに、こうしてできたテレビ番組を見た版元から、「これを本にしてみないか」という連絡が来るのですが、夫人はそれを快諾します。是枝さんも、「この夫婦の姿はおそらく自分にしか書けないと思って引き受けた」というのです。それほどまでに著者の背中を強く押したものは何だったのか。本を読まずにはおられないと思った理由です。

 ここに鮮やかに描き出された山内豊徳という人物は、こういう生き方しかできなかっただろうという輪郭を備えて現れます。家では仕事のことを一切語ろうとはしない無口な夫。夫人との初デートの時から気のきいた言葉をかけるでもなく、不器用で、子育てはすべて妻に任せきり。晩年に近づくにしたがって、「仕事以外の生活にはあまり興味を示さず、何かに追いかけられるように働く夫」の姿に、妻は「言いようのない不安」を感じます。それでも、ようやく手に入れた念願のマイ・ホームの周辺を、夫婦で散策することが楽しみとなります。整理魔、筆まめな夫は、草花の観察日記も克明に記します。夫婦の愛情のかたちが立ちのぼってきます。

 そして、役所で何か決定的なことがあったと思われる12月3日。夫は何の連絡もしないまま、帰宅しませんでした。かつてないことでした。翌日の午前9時、いきなり自宅へ「僕はこれから失踪する。行方不明ということで場所は言えないけれど……」という電話。2時間半後、2度目の電話。12時過ぎに帰宅。そこからの約1日の様子は3つのシーンに再現して描かれます。そこに本書のすべてが凝縮されているといえるでしょう。

 妻の目に映った夫の姿。それぞれの思いが交錯しながらも、こういう結末を迎えるしかなかった夫婦のかたち。これを「場面」として描いたところに、著者の本領を感じます。そして書名は、最初の訪問の際に、遺影が飾られた祭壇の前で、夫人から見せられた山内氏の詩に拠りました。
 
しかし

しかし……と
この言葉は
絶えず私の胸の中でつぶやかれて
今まで、私の心のたった一つの拠り所だった

私の生命は、情熱は
このことばがあったからこそ――
私の自信はこのことばだった
けれども、
この頃この言葉が聞こえない

胸の中で大木が倒れたように
この言葉はいつの間にか消え去った
しかし……と

もうこの言葉は聞こえない
しかし……
しかし……
何度もつぶやいてみるが
あのかがやかしい意欲、
あのはれやかな情熱は
もう消えてしまった

「しかし……」と
人々にむかって
たゞ一人佇んでいながら
夕陽がまさに落ちようとしていても
力強く叫べたあの自信を
そうだ
私にもう一度返してくれ。
 
 この詩が初めて書かれたのは、山内氏が高校の文芸部に所属し、詩作に励んでいた15歳の時だといいます。その後も、この作品は度々書き写され、最後は「整理魔」だった彼の書類箱の一番上に、原稿用紙に青のインクで記されたものが載せられてありました。
 
〈「しかし」とは、現実社会に対して異を唱える抗議の言葉であり、青年期特有の潔癖さを示す言葉であり、理想主義を象徴する言葉である。
 山内の人生はまさにこの詩の通り、常に逆接の人生であった〉
 
 是枝さんは、こう述べます。そして、「しかし」という言葉を最後まで手離さなかった男が、最後に見ていた冬の風景のその先に向かって、是枝さんの物語はまだ続いています。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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