Kangaeruhito HTML Mail Magazine 562
 
 記憶と記録
 
 前回とまるで逆の話になるかもしれません。本を処分しなくて良かった(古い雑誌を取っておいた甲斐があった)という話――。いや、その前に、45年も昔の古いテレビ映像を、メキシコのテレビ局がよくぞ倉庫に保管しておいてくれた、という感謝感激の物語です。

 この夏、オールド・サッカー・ファンにとってはこたえられない出来事がありました。日本サッカー界が世界に羽ばたく原点ともなった歴史的一戦が、初めて完全映像で放送されたのです。伝説となった名勝負であるにもかかわらず、これまでダイジェスト版でしか見られなかった試合。それを、キック・オフから試合終了のホイッスルが鳴るまでフルタイム映像でしっかり確認することができたのです。
 1968年10月24日、メキシコ五輪男子サッカー3位決定戦。日本は優勝候補の呼び声も高かった地元メキシコを破り、アジア初の銅メダルを獲得します。4年前の東京オリンピックで強豪アルゼンチンを破り、着実に地力をつけ始めた日本ですが、1年前の五輪出場を賭けたアジア予選では、韓国と3-3の雨中の死闘を繰り広げ、ベトナムとの最終戦では1-0のきわどい勝利によって、かろうじて出場権を手にしたのです。

 ナイジェリア、ブラジル、スペインといった強敵がひしめく予選リーグを突破し、ベスト8でのフランスとの戦いを制した末に、開催国を撃破してのまさかの快挙。この試合で2得点を挙げた釜本邦茂選手は大会全体の得点王(7点)に輝き、さらに、クリーンな敢闘精神を発揮した日本チームには、この時からFIFA(国際サッカー連盟)が創設したフェアプレイ賞が授与されました。“サッカー後進国”日本がなし遂げた、まさに画期的な事件でした。

 ところが当時、この試合は後半の一部しか日本では放送されませんでした。衛星チャンネルでの完全同時中継が常識化している現在からは想像もつきませんが、中継放送はNHK総合の1チャンネルのみ。しかも原則として、午前7時20分~同8時12分、午後0時15分~同0時59分の間だけでした。つまり、その時間帯に行われる競技は生中継で見ることができますが、あとは録画放送を見ていたのです。

 衛星回線の使用料が非常に高額で、長時間の中継が難しかったというのが理由です。問題の3位決定戦は、現地時刻で午後3時30分(日本時間、午前6時30分)のキック・オフでした。したがって、前半に2点を奪ってリードしていた後半戦から、放送が始まりました。当時、中学3年生。学校の始業は8時30分でしたから、8時12分までテレビにかじりつき、番組終了と同時に家を飛び出したことはよく覚えています。

 ともかくフルゲームを、食い入るように見つめました。試合展開はほぼ完璧に頭に入っています。得点シーンの映像や、当時の新聞・雑誌記事をもとに、自分なりの「銅メダルの記憶」を作り上げていたからです。実際とどのように重なり、どこがどう違うのか。照合と確認の90分間でした。

「記憶」を形成するのに、もっとも役立ったのは「サッカー・マガジン」1968年12月号の「メキシコ・オリンピック記念特大号」でした(ベースボール・マガジン社、特価350円)。これまでの人生を通して、雑誌を繰り返し読んだ回数で言えば、おそらくこの号を抜くものはないと断言できます。それほどに、何度も読みました。日記スタイルでまとめられた長沼健・日本チーム監督の「われらかく戦えり」、岡野俊一郎コーチの「図解戦評」、日本の勝因を分析した記者座談会、全試合解説などです。それによって日本チームの戦いぶりや、個々の選手の活躍は、鮮やかな「記憶」として脳裏に刻まれていたのです。

 ところが、実際のゲームは想像以上のものでした。思い描いていた印象より、さらに強いチームだったのです。「日本サッカーの父」と呼ばれるドイツ人コーチのデットマール・クラマーさんが、「私はこれほど全力を出し尽くして戦った選手を見たことがない。これこそヤマトダマシイだ」と感涙にむせんだ話は有名ですが、それをまざまざと見せつけられました。「自分たちのサッカーをやる」という古武士のごとき気迫、冷静沈着な判断力、チーム一体となった集中力を実感させられます。

 この試合の日本チームは、深く引いて守りを固め、攻撃は杉山隆一、釜本邦茂の黄金コンビを軸にして、という非常に明快なゲームプランで臨んでいました。ただ、後半だけを見ていたかつての印象とは異なり、前半は特に、中盤の選手が果敢に動き、守備一辺倒のカウンター狙い、というのでは決してありませんでした。攻撃の起点となるミッドフィルダー――とりわけ負傷したキャプテン八重樫茂生選手に代わって出場したベテラン渡辺正選手の豊富な運動量、切れ味鋭い攻撃センスは光っていました。

 たしかに後半は、圧倒的にメキシコがボールを支配して、猛反撃を仕掛けてきました。日本は防戦一方に追い込まれました。しかし、その守備は非常に統制がとれている上に、相手の動きやパスのコースをうまく読んで封じ込め、決してなし崩しに押し込まれているというのではありませんでした。また、杉山、松本育夫という両ウィングの守備面での貢献も予想以上のものでした。

 ともかくがっちり守って奪ったボールを、中盤の選手が巧みにつなぎ、そこから俊足の両ウィングを走らせて、配給されたボールをエース・ストライカーが確実にゲットしています。顔つきもそうですが、まるで武道の試合を見るような、そういう雰囲気をチームがかもし出していたのです。これは発見でした。

 見終わると矢も盾もたまらなくなって、45年前の「サッカー・マガジン」を引っ張り出しました。処分しなくて良かったとしみじみ思ったのは、この瞬間です。トランクルームの最深部に仕舞い込んであるのを、大汗をかきかき、探し出しました。日本蹴球協会(現在の日本サッカー協会)が発行していた会報誌「サッカー」を除けば、当時、唯一のサッカー専門誌です。さすがにこの40年近くは開いて見ることもありませんでしたが、実によく覚えていました。どうしても手放せなかっただけのことはあります。そして驚いたのは、雑誌もまた日本チーム同様に、質実剛健な誌面だということでした。写真の質も劣悪だし、デザインも垢抜けないものですが、それを補って余りある骨太な何かが備わっています。

 また改めて感嘆したのは、日本チームがなんと11日間で6試合(中1日で)を消化しているという事実です。海抜2000メートルの高地での戦い。3位決定戦での蓄積疲労はどれほどのものだったかと想像します。釜本選手は準決勝のハンガリー戦で傷めたふくらはぎが次第に“カチンカチン”になったと語っていますし、他にもケガを抱えた選手がいたはずです。それにもかかわらず、彼らのコンディションは万全のように見えました。タイムアップの瞬間まで、苦しそうな表情ひとつ浮かべることもなく、よく動き、集中力を切らしません。チームが一丸となって、落ち着いた試合運びを続けます。

 単純に、いまの日本代表と比較することはできませんが、立て続けに失点を重ねる最近の試合ぶりを見慣れてしまうと、メキシコ五輪チームの強さがよけいに際立つのはいたし方ありません。

 6戦目で疲労は頂点に達していたはずですが、焦るメキシコの攻撃を冷静にはね返す日本に、次第に勝運が傾いてきます。10万人収容のアステカ・スタジアムを埋め尽くした地元ファンの声援は、やがてふがいないメキシコへのブーイングと非難の口笛に変化します。「メヒコ、メヒコ」の応援は、なんと「ハポン(日本)、ハポン」の大合唱に。そして、決定的な得点チャンスをシュート・ミスで逃したのを見ると、たまりかねた客席から座布団の雨が降り始めます。これで試合が一時中断に追い込まれます。

 そしてタイムアップ寸前、日本が大きくクリアしたボールがスタンドに飛び込むと、ボールは観客の間をまわり始め、グラウンドに戻ってこないというハプニングまで生まれます。ついに試合終了。歓喜の表現は、いまに比べれば控えめです。握手と抱擁、そして胴上げ。なぜか映画「たそがれ清兵衛」のラストシーンが目に浮かびました。死命を果たして帰宅した「たそがれ」が、妻と目を合わせ、子どもを抱き上げる場面です。

 長沼監督は、宿舎に戻ってからの様子を次のように書いています。
 
〈各国の新聞記者とのインタビューを終え、部屋の中にはいったとたん、私は、異様な光景に棒立ちとなった。いままで、あれほど陽気に騒いでいた選手たちが、ベッドにぶっ倒れて、うんうんうなっているのである。なかには、ほとんど意識を失って失神寸前の状態の者までいる。私は、胸のうちに熱いものがこみあげてくるのを、どうすることもできなかった。選手たちは、過去二週間の試合、いや、そのまえの四年間にわたる強化練習に耐え抜き、いま、ここに文字どおり全力を出しつくして、ぶっ倒れているのだ。……「みんな見てくれ。これがほんとうに全力を出しきった男たちの姿だ。メダルなどより数百倍も尊いものだ。」私は、そう叫びたかった。……クラーマーさんは、「健、これがほんとうのヤマトダマシイというものだ。すばらしい、まったくすばらしい。」と肩を抱いてくれた。涙がとまらなかった〉(長沼健『チームプレー』光文社)
 
 また岡野コーチはその後、何度も語っています。
 
〈選手の一員として銅メダルをもらうために表彰台に上がった私の頭に、昨年のアジア予選の対ベトナム戦の直後、選手とともに国立競技場のグラウンドを走った少年たちの姿がよぎった〉(「サッカー・マガジン」1968年12月号)
 
「少年たちを失望させなくてよかった。サッカー・ブームに水をささないでよかった」という言葉は、この二人の口から繰り返し語られます。

 翌々年、メキシコでは第9回のワールドカップが開催されました。“サッカーの神様”ペレ率いるブラジル・チームが、圧倒的な強さを発揮して、3度目の優勝を飾ります。日本がワールドカップに出場するなど“遠い夢”でしかなかった時代です。大会の中継放送もあり得ない話でした。

 ただ、大会終了後ではありましたが、東京12チャンネルで始まっていた「三菱ダイヤモンドサッカー」の枠で、この時の全試合が、毎週1時間、カラー放送される(当時の新聞のテレビ欄を見ると、「カラー」という文字がわざわざ表示されています)ことになりました。1試合を前後半の2回に分けたものでしたが、これを見たサッカー少年たちがどれほど「世界」への夢を膨らませたことか、その功績ははかりしれません。

 メキシコ五輪当時の衛星放送事情は冒頭に記した通りです。回線使用料が高額だったために、長時間の中継ができなかったのです。ところが、いま問題になっているのは、世界的なスポーツ・イベントの放送権料の高騰です。来年のワールドカップ・ブラジル大会では放送権料があまりに高額であるために、衛星放送のスカパーJSATがついに中継を断念するというニュースが流れました。過重な負担増ともなれば、撤退という経営判断はやむを得ません。サッカー・ファンにとっては何とも困った状況ですが、この局面をどう打開するのか。思い切ったサイドチェンジをして、攻撃の糸口を探らなければなりません。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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