Kangaeruhito HTML Mail Magazine 563
 

ダニロ・キシュ『若き日の哀しみ』(創元ライブラリ)

 歴史の交差点から
 
〈「ところで、ね。コソボの位置は確認しときなよ」
「コソボ?」
 二木君と私は声を合わせて聞き返した。
「出たのよ、コソボの場所はどこですか、ていう問題が。私はその地図を見ても、どっちが陸か海かもわかんなかったけど」〉(三浦しをん『格闘する者に○(まる)』新潮文庫)
 
 コソボ紛争が連日のように、海外ニュースで報じられたのは、1990年代半ばから1999年にかけてのことでした。戦争は戦争でも、日本の就職戦線で必死に格闘していた大学生たちにとっては、「コソボ」は入社試験対策として要チェックの「一般常識」でした。それからすでに15年近くが過ぎました。ニュースに取り上げられることもなくなり、すっかり社会の関心が遠のくにつれて、旧ユーゴスラビアに生まれた新たな国々の地図は、ますます雲をつかむような世界になっているに違いありません。

 今回取り上げるのは、その地域を代表するセルビア語作家ダニロ・キシュが、自らの幼年時代を描いた叙情的な短編連作集です。1935年2月22日、旧ユーゴスラビアの北部、ハンガリーとの国境に近い町で、作家は生まれます。父はユダヤ人(母語はハンガリー語)、母はモンテネグロ人(セルビア正教徒)の混血ですが、両親は息子にユダヤ教ではなく、セルビア正教の洗礼を受けさせます。これが幸いして、少年ダニロは反ユダヤ人法の網の目を逃れ、「命拾い」することができました。

 ところが1941年、第二次世界大戦勃発とともに、この地域はハンガリーの親ナチ政権の占領下におかれます。一家はユダヤ人の迫害、虐殺を逃れるために、父の生れ故郷である西ハンガリーの田舎に移り住みました。キシュはそこで、農家の仕事を手伝いながら、二つ年上の姉とともに、土地の小学校に通います。やがて父は連行され、そこからアウシュビッツ強制収容所に送られます。父の死が確認されるのは、1948年、13歳の時です。母が長患いの末に死去するのは、その3年後のことでした。

 本書は、この過酷な時代を生き抜いた思い出を原型にしています。ただし、迫害、逮捕、強制収容所、父の死、母の死……といった衝撃的な事実が、直接に描かれているわけではありません。むしろ、感覚的な記憶として刻まれた心象風景を繊細な文体で呼び覚ましながら、誰しもが子供時代に経験するような出来事――初恋の思い出、可愛がっていた犬との悲しい別れ、おねしょをしてしまった朝の気恥ずかしさや、農村での暮らしぶり、さまざまな草花に囲まれた“牧歌的な”田園風景などを、夢幻のように再現しています。
 
〈サーカス団が去っていった、闘技者も熊使いも。秋はもう終わろうとしている。そこは小さな原、伯爵の炉端とも呼ばれているが、そこにはただサーカス団がいた気配が残るばかりだ、踏み固められた原、踏みしだかれた草だけが。野原のなかほどに穴がある。深さは一メートルほど、踏みつぶされたモグラ穴のあいだにあって、はっきりそれとわかる。ここに、このあいだまでテント小屋の柱が打ち込まれていた、根元は太く粗削りで、先端は細くしなやかだった。柱には旗が掲げられていた。穴のまわりは地面が掘り返され、草もなく、深みから引き出された粘土がのぞいている〉(「野原、秋」)
 
 作品集の構成は、長さもスタイルもまちまちな詩的断章のオムニバスです。前後の脈略や時系列的な流れとは関係ありません。また、ひとつひとつの断章の背景にあった出来事や、悲痛な現実、一家が味わわなければならなかった恐怖や困難が具体的に書き込まれているわけではありません。むしろ読み進めるにつれて、ぼんやりとしていた作者の不安の輪郭が次第にリアルな手触りとして感じられ始め、慌てて前のページを読み返したりするうちに、まるで記憶の鼓動に触れているような驚きと感銘を覚えるのです。
 
〈川岸に沿って歩いていった、バクシャへ。盛りを過ぎたニワトコの香りの混じったオゾンを大気に感じた。真新しいモグラ塚は、かさぶたのように赤みをおびていた。そのとき、突然、陽が上る。草のなかでキンポウゲが燃えだした。カミツレの花が香りはじめ、野原は夥しい香りで重くなる。少年は、犬が桜草を噛み、鼻先から緑の汁がたれるのをながめていた。それから、少年も草のなかに腹這いになる、饅頭のように湯気を立てているモグラ塚の傍らに。彼は、まだ濡れたスイバの茎を歯で噛んでいた〉(「野原」)
 
 訳文の見事さは言うまでもありません。セルビア語の原文は想像もつきませんが、ロシア・東欧文学者の沼野充義氏が「キシュは幸せな作家だとつくづく思う。セルビア語の機微に通暁した山崎佳代子という名訳者に恵まれたからだ」(本書解説)と言うのも頷けます。

 順序としては本書よりも先に書かれた長篇小説『庭、灰』(『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』II‐06所収、河出書房新社)の訳業に接すれば、なおさらその感を強くします。単にセルビア語に堪能な翻訳者というだけでなく、自らも詩作を手がけ、独自の文学世界を見つめ続けてきた人でなければなし得ない、言語的な離れ業がそこにあるからです。ジョイスやプルーストの影響を色濃く受け、時間の流れも場面をつなぐ連想の糸も、従来の物語の技法を裏切るような実験的な作品が、鮮やかな日本語に置き換えられているのです。少し訳者について紹介したいと思います。
 
〈私がユーゴスラビアに来たのは一九七九年の秋、空が美しかった。国父とも慕われていたチトーは、まだ存命中だった。はじめの十日ほどは、ザグレブ(クロアチア共和国)の友人宅にホームステイし、それから、目的地のサラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国)に向かった。サラエボ大学文学部で一年間、ユーゴスラビア文学史を学び、次いでフォークロア研究のためにリュブリャナ(スロベニア共和国)に移り、スロベニア科学芸術アカデミーで一年を過ごした。修士課程をベオグラード大学文学部で終え、今はベオグラード(セルビア共和国)に住んでいる。ユーゴスラビアの解体で、親しい友を得た思い出深い数々の町が外国になってしまった〉(山崎佳代子『解体ユーゴスラビア』朝日新聞社)
 
 まだユーゴスラビアという多民族連邦国家が健在であった時代に、遠い日本から留学しました。ベオグラードに到着してほどなく、ドナウの岸辺を散歩している時に、「必ずキシュを読みなさい」と人から勧められ、手に入れたのが本書でした。そしてサラエボでの1年間の留学を終え、どの作家を訳したらいいかと恩師に尋ねた時、勧められたのもキシュでした。「僕はユーゴスラビアの作家だ」と繰り返し語っていたキシュの作品を、その国が光り輝く最後の時期に、山崎さんは手にしました。この地の文学精神と日本との「橋」の役割を委ねられたのは、運命的であったと言わざるを得ません。
 
〈ヨーロッパとオリエントを結ぶバルカン半島に位置するユーゴスラビアは、歴史を通じて、世界制覇を夢見る者たちが通り過ぎてゆく「呪われた中庭」である。アレクサンダー大王、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン・トルコ、ハプスブルグ、ナポレオン、そしてヒトラーとムッソリーニ……。世界精神の変わり目には必ず、国境線が描き換えられ、そのたびに、無数の生命が犠牲となった。国境線は、この土地に住み続ける者ではなく、外から来た者の手によって引かれてきた〉(「境界の文学」、山崎佳代子『そこから青い闇がささやき』所収、河出書房新社)
 
 1961年のノーベル文学賞を受賞したイヴォ・アンドリッチをはじめ、この地の文学には「歴史と個人」をテーマにした優れた作品が数多くあります。また、南スラブ系諸民族が共存しているという国の成り立ちから、それぞれ異なる伝統を背景に持った文学が並立する一方で、絶えず隣接の世界と交流し、混ざり合い、影響を及ぼしあって育まれてきたのが「ユーゴスラビア文学」でした。

 幾度も国境線が書き換えられてきたこの地だからこそ――民族と言語、宗教、文化がモザイク状に入り組んだ土壌だからこそ――歴史を鋭く意識し、より普遍的な人間の物語に迫ろうという志向が生まれました。

 ところが、山崎さんが本書の翻訳に取りかかったまさにその時に、抑えられていた民族対立が表面化し、チトーの共和国は分裂の淵に立たされます。そして近隣の民族同士が殺し合いを始めるという、激しい地殻変動がこの地を襲うのです。
 
〈夕方、テレビのニュースが流れると、居間を出てテラスに出る。あらゆる言語の報道が虚しい。集合住宅の十一階、煉瓦の壁を背に床にぺたんと座ると、燕の飛び交う夕空しか見えなくなる。原書を声に出して読むのが日課になった。この書物に守られて、厳しい時代を乗り越えられた〉(訳者解説)
 
 ボスニア紛争、コソボ紛争。やがてセルビアに対しては、ミロシェビッチ政権による「民族浄化」という蛮行から、コソボのアルバニア系住民を守るという名目で、1999年3月24日、NATO軍による空爆が始まります。セルビアにそれだけの非があったのか、それとも国際世論の偏向によって、セルビアが不当に悪者扱いされたのか。誰が正しくて、誰に責任があったのか、ということは、いまここでは触れません。

 ただ、この間NATO軍による79日間の空爆が続いているさなかも、訳者は家族とともにベオグラードの町に踏みとどまり、空襲警報のサイレンや激しい爆音の鳴り響く闇の中から、われわれに向けて言葉を発していました。
 
〈大切なものが、ふと消えてしまうことがある。月夜の晩、可愛がっていた犬が散歩に出たきり、そのまま戻らなかったり、毎日のように遊んでいた人形が、旅のあと、家に帰ると無くなっていたり……。
 犬や人形だけではない。人が消えることもある。一人や二人ではない。百人、千人、いや数万人と、弔いの唄もなく、墓碑に名が刻まれることもない。生まれてきたことすら否定するように夥しい数の人影が、それも一瞬にして奪われてしまうことがある。……
 犬も人形も人も、実はこの地球の裂け目のなかに連れ去られたのではないかと疑いはじめたとき、私は詩を書くほかなかった。その闇の向こうに封じ込められているものを、流れてくる風の音色や薫りを手掛かりに記してゆくこと。それはいかなる書物にも記されなかった無数の生命が、歴史の流れのなかに存在していたことを証しする手仕事に外ならない〉(「緑の水、音楽」、前掲『そこから青い闇がささやき』所収)
 
 キシュと山崎さんをつなぐものを「運命的」と先ほど書きました。空爆の恐怖に震えながら、湧き起こる思いを詩に紡いでいった彼女の姿に、過酷な時代環境を生き抜き、やがてそれを文学作品に昇華したダニロ・キシュの面影を、どうしても重ねてしまいます。そして、この地に流された多くの人々の血の代償として「ユーゴスラビア文学」が書き継がれてきたとすれば、ここにも「運命的」としかいえない何かを感じるのです。
 
〈あのときほど、すべてが削ぎ落とされて、何がいちばん、私たちに大切なのかが見えたことはなかった。人と人がともにあること、心に思い描く友があること、それを結ぶのは、まぎれもなく言葉であること。あのときほど、言葉に力を取りもどそうとしたことはない〉(「バスの伝説」、同)
 
 キシュは祖国に内戦が勃発する直前、1989年にパリで客死します。遺体はベオグラードに運ばれ、この地の功労市民墓地に眠っています。終生、「ユーゴスラビアの作家」であり続けました。山崎さんもなお、ベオグラードで詩を書き続けます。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
* 11月15日(金)に、山崎佳代子さんと二人のセルビア詩人を迎えて、東京大学本郷キャンパスで「トークと詩の朗読――セルビアと日本 響き交わす現代詩」が開催されます。詳しくはこちらをご参照下さい。

* 来週は都合により1回お休みをいただき、次回は11月21日に配信いたします。
Copyright 2013 SHINCHOSHA (C) All Rights Reserved