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ブライアン・マッカーサー
『我が言葉を聴け 歴史をつき動かした50人のカリスマ』
(講談社)

 スピーチの光と影
 
 あの名演説から150年。第16代米大統領エイブラハム・リンカーンが、南北戦争の激戦地ゲティスバーグで熱弁をふるったのは、1863年11月19日のことでした。「人民の、人民による、人民のための政治を、地上から絶滅させない(government of the people, by the people, for the people, shall not perish from the earth.)」という誓いの言葉でした。

 全部で272語。わずか3分足らずのスピーチが、150年後の現在にいたるまで、これほど世界的な影響をもたらすとは、当時は誰ひとり予想もしませんでした(No.540「272語の“魔術”」参照)。

 ゲティスバーグ近くで発行されている地元紙「パトリオット・ニュース」は、先日、150年前の社説について「お詫びと訂正」を掲げました。リンカーン大統領の演説を「バカげた発言」と一蹴したことに対し、「時代の重要性、時を超えた能弁さ、普遍的な輝きを見抜くことができなかった」として、“大先輩”の不明を率直に認めたのです。

 そのリンカーン演説から約100年後、「ゲティスバーグ演説の秘密をさぐりだしてほしい」とスピーチライターのセオドア・ソレンセン特別顧問に指示したのは、大統領就任演説に臨もうとしていた43歳のジョン・F・ケネディです。そして、そのケネディ大統領暗殺から、11月22日でちょうど50年。20日には、オバマ大統領夫妻、クリントン元大統領夫妻らがワシントンのアーリントン墓地でケネディ氏の墓前に献花し、暗殺の地となったテキサス州ダラスでは、22日に追悼式典が行われました。

 奇しくも在任中に凶弾に倒れた二人の大統領ですが、「言葉」の力によって、いまなおアメリカン・デモクラシーを象徴する不朽の存在となっている点でも相通じるところがあります。本書で改めて振り返っても、1961年1月20日のケネディ大統領就任演説は圧倒的な輝きを放っています。
 
〈今日の私たちも、あの最初の革命(独立革命)の継承者であることを忘れようとは思っていません。アメリカ人の新しい世代に、たいまつは受け継がれた――この言葉を、友にも敵にも向けて、今この場から発しようではありませんか〉

〈であればこそ、仲間であるアメリカ人の皆さん、国から何をしてもらえるかを問うのであってはなりません。あなたがたが自分の国に何をなしうるかを問うことであります。
 仲間である世界の市民諸君、アメリカが何をしてくれるかを問うのであってはなりません。力を合わせるとき、われわれは人間の自由のために何をなしうるか、それを問うことであります〉
 
 ダラス市のサザンメソジスト大・大統領史センターのジェフリー・エンゲル所長は「大統領執務室で成し遂げた功績よりも、演説を通じ、次世代に生きる希望と楽観主義、行動により世界を変えようという意識を植え付けたことに意義がある」(読売新聞2013年11月19日)と、ケネディ大統領の果たした役割を分析しています。まさに言葉の力で時代を動かした60年代のヒーローがJFKでした。

 本書は、「戦争と革命、解放と殺戮の20世紀」の重大な局面に立ち、同胞に向かって熱く語りかけた50人の指導者たちの言葉を集めています。迫りくるナチス・ドイツの脅威を前に、挙国一致内閣を率いた英首相チャーチルの「私が差し出せるのは血と労苦、涙と汗だけである」と述べた不屈の演説、あるいは大恐慌のさなかに米大統領に就任したルーズヴェルトが、就任演説で述べた「われわれが恐れねばならないのはただひとつ、恐れそれ自体である」という、気力と理想をみなぎらせた言葉。

「私にはひとつの夢がある」と述べた黒人解放運動指導者マーチン・ルーサー・キング牧師や、南アフリカ共和国のアパルトヘイト(人種隔離政策)と闘ったネルソン・マンデラ氏の「自由への歩みは止められない」という、27年の獄中生活から解放された直後のスピーチ。

 あるいは、アンチヒーローの代表として、隣国チェコスロヴァキアの領土割譲を高飛車に要求するヒトラーの「我が輩の我慢は切れかけている!」の怒号もあれば、スペースシャトル・チャレンジャーの爆発炎上という痛ましい事故を受けて、数時間後、レーガン米大統領が行った感動的なスピーチも紹介されています。

 苦難の渦中に行われたスピーチも印象的です。1992年11月24日に行われた、即位40年を祝う昼食会でのエリザベス二世の挨拶。この年はアン第一王女の離婚、皇太子チャールズとダイアナ皇太子妃のあいつぐスキャンダル、加えて王室費が高すぎる、女王だって税金を払うべきだといった非難の噴出。きわめつきは、女王の主たる居館のひとつ、ウィンザー城が火災で燃え上がるという出来事です。その火災から4日後、「女王は、喪服かと見まがうばかりの濃い茄子紺のドレスをまとい、それにひどい風邪」という悪コンディションの中で、「この1992年は、将来、私が純粋なよろこびをもって振り返るであろう年ではありません。……今年は『アナス・ホリビリス(ひどいことつづきの年)』となってしまいました」と、しわがれた声で語りかけました。

 あるいは、1997年8月31日、パリでの自動車事故で死去したダイアナ元皇太子妃の葬儀で、実弟にあたるスペンサー伯爵が行った感動的なスピーチ。「当代で最も激しく狩りたてられる人間」として愛姉を扱ったメディアへの怒りをにじませながら、二人の遺児の養育方針について王室の考え方に疑問を呈した追悼の言葉は、葬儀であるにもかかわらず、ウェストミンスター寺院の内外から参列者の拍手を呼び起こしました。

 その人物の口からいかなる言葉が発せられるか――。聴衆が固唾を呑んで、そのひと言を待ち構えるという状況が、時として生じます。ある“共鳴板”を胸に秘めた集団が、語り手の声にじっと耳を傾ける状態は、私たちの人生においてもしばしば起こります。古くはラジオから流れる終戦の詔勅を、日本国民全体が聞いていた時でしょう。最近では東日本大震災の直後に、首相が語るひと言には、おそらくその重みがあったはず、です。あるいは、会社が危機に瀕した時に、経営者が社員を前に、何をどういう調子で訴えるか――。

 私たちの誰もが、全身を耳にして、それをひと言も聞き漏らすまいとする状況は、必ず何らかの瞬間に訪れるものです。もちろん、その時に自分自身が発語する側にまわることも十分あり得ます。

 成功例、失敗例、運命を分けた言葉の例には事欠きません。しかしながら、本書を読みながらもっとも心惹かれたのは、誰からも期待されない(関心は持たれていたかもしれませんが)中で語られた言葉、です。リチャード・ニクソン。ケネディとの大統領選では一敗地にまみれ、やがて第37代米大統領として、ベトナム戦争終結、米中国交回復、ニクソン・ショックという世界金融システムの変革を成し遂げますが、「ウォーターゲート事件」の発覚とともに、立場を追い詰められ、1974年8月9日、大統領職を辞任し、家族とともにホワイトハウスを去ります。

 本書にあるのは、ホワイトハウスに別れを告げる直前に、自分のもとで働いてくれたスタッフたちに向かって行ったスピーチです。大統領弾劾の議決成立が確実視される中で、退陣を決意。「在任中に辞任する初の大統領」として、職員の前に失意の身をさらした時です。
 
〈とても大事な人に死なれたとき、選挙に落ちたとき、敗北を喫したときなど、すべては終わりだ、と私たちは考えるものです。
 まちがいです。それは始まりにすぎないのです。決まってそうなのです。若い人たちはそのことを知らなくてはなりませんし、年長者だって知らねばなりません。
 そう知ることが、私たちをつねに支えるのです。なぜなら、偉大さは、万事がうまくいっているときに現れるものではありません。偉大さは、あなたがたがいくつもの打撃、いくつもの幻滅を味わうときにおとずれ、あなたがたの真価が問われるからです。なぜなら、あなたがたがこのうえなく深い谷間に置かれてはじめて、このうえなく高い山上に立つのはいかにすばらしいことか、知ることができるからであります〉
 
 読みながら、ふと思い浮かんだ文章があります。ボブ・グリーンの『アメリカン・ビート』(河出書房新社)の中の一篇です。何げないエピソードから「人生の姿に似たものを取り出す手つきが鮮やか」(沢木耕太郎)なボブ・グリーンは、日本でも人気の高かった米国のコラムニストです。

 彼は失脚後のニクソンを、事務所に訪ねます。事前に手紙を書き、自分はあなたを批判する若者のひとりだったことを正直に告げました。ニクソンが大統領職にあった時期に大学生活を送った人間は、「ニクソンが嫌いだという感情をむきだしにしてはばからなかった世代」でした。一方で、彼がホワイトハウスを去った後、「この時期のアメリカの政治ドラマのなかで、ニクソンに匹敵するような政治家はひとりとして存在しなかったこと」を否応なく認めざるを得ませんでした。それがニクソンに会いたい、という動機でした。

 約束の時刻にマンハッタンの事務所を訪ねると、探しあてた部屋のドアには何も書かれていなくて、鍵がかかっていました。中から女性が出てきて、招き入れられると、そこにはシークレット・サービスがひとり、傍目にも退屈しきっているのが分かる様子で、『ナショナル・ジオグラフィック』誌を読んでいました。大統領時代の写真が飾られたその部屋で、約束の時間までしばらく待つ間、電話は一本も鳴りませんでした。

 対面した67歳のニクソンは「ブルーの背広を着て、相変わらず少し猫背」で、神経質そうな印象でした。「机の後ろには、アメリカの国旗と合衆国大統領の標章をあしらった旗」がありました。そして沈黙を怖れるかのように、ニクソン“大統領”がひたすら話し続けるうちに、やがて質問は核心に近づきます。大統領職にあった時、人々が口にしていた侮蔑的な言葉をどう受け止めていたか――。少し長くなりますが、そのまま引用します。
 
〈「感情なんてやっかいなものを持ってたら、とてもこれまでやってこれなかっただろうな」彼がいった。「いまでもはっきりと覚えていることがある。大統領に就任して間もないころ、ヴァージニア州のウィリアムズバーグで演説していたんだ。確かそのとき初めて、二万五千人の兵力をヴェトナムから撤退させることを発表したのだと思う。そのとき、ひとりのいたいけな少女が、たぶん十六歳か十七歳くらいだろう、目の前に現われて私の顔にツバを吐きかけたんだ。『人殺し』と叫んでね」
「私はシークレット・サービスから借りたハンカチでツバをふきとり、話をつづけてスピーチを終わった。あれはきつかった」
 この話をすることによって、彼はにわかに元気をとりもどしたようだった。おそらくニクソン以外の人間だったら、その話の中心点は、その少女にツバを吐きかけられた事実だったろう。しかしそのときニクソンの声は高まり、「あれはきつかった」といったとき、彼の口元がはっきりと引き締まるのがわかった。たぶんニクソンがいおうとしたのは、自分はどんな虐待を受けようとも、傷つくことはないということだったのだ〉(「ニクソンの孤独」)
 
 インタビューは予定の時間を遥かにオーバーして、2時間近く続きました。この対面をニクソンは「喜んでいるふう」でした。「これまで彼の身にふりかかったことを考えると、ニクソンはこういう機会にほとんど恵まれなかったのではないだろうか。そんな気がした」とあります。

 ホワイトハウスを去る直前と、去った後の、スピーチにまつわる二つの逸話から、あの時代と人間ニクソンの生々しい姿が浮かんできます。

 キャロライン・ケネディ新駐日大使の着任という華やいだニュースもあり、いままたJFKへの憧憬と郷愁がかきたてられています。一方、「堅苦しくて非情な」と言われたリアリスト、ニクソンの影は薄く感じられます。1960年、運命を分けた大統領選前のテレビ討論会。輝くばかりに日焼けし、スマートで、新鮮で、清潔なケネディと、顔は病的に青く、痩せて、悪役面をしたニクソン。テレビの前の視聴者にとっては「汝の述べしこと、聞くこと能わず。汝の存在、巨大にして眼前に迫りくれば」――だったに違いありません(デイビッド・ハルバースタム『メディアの権力』、サイマル出版会)。

 その選択の可否は措くとして、本書にニクソンの言葉が残されていたことに心が震えます。11月に出た米国民による歴代大統領の評価(ギャラップ社調べ)では、74%が「傑出している」「平均以上」と答えた第1位のケネディに対して、11位のニクソンは15%、「悪い」という答えはケネディの3%に対し、ニクソンは52%でした。
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
* 「考える人」の特集「人を動かすスピーチ」では、向井万起男氏が本書を活用しながら、「歴史に残る名スピーチ」を寄稿しています。是非ご一読下さい。
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