Kangaeruhito HTML Mail Magazine 568
 
 帰って来た「オケ来た」
 
「オーケストラがやって来た が帰って来た!」と題する一夜限りのコンサートが、先週12月11日に行われました。

 世界が激動し、世の中が騒然としていた1972年(昭和47年)は、私が大学に入学した年でもありました。2月のニクソン訪中、連合赤軍によるあさま山荘事件、札幌で冬期オリンピック。5月に沖縄の本土復帰、そして「日本赤軍」を名乗るグループによるテルアビブ空港乱射事件。6月、沖縄返還を花道に佐藤首相の退陣。8月にミュンヘンオリンピックが開幕、パレスチナゲリラがイスラエル選手団の宿舎を襲撃……。

 そんな年の10月1日、やがて伝説のテレビ番組となる「オーケストラがやって来た」は静かに始まりました。日曜日の午後2時半(のちに午前11時からに変更)からの30分間。創設間もない新日本フィルハーモニー交響楽団が全国各地をまわりました。そして1983年3月27日まで、全544回続いたこの番組を、いまだに懐かしがる人たちは絶えません。

 指揮台の上で飛び上がってタクトを振っていた山本直純さんが、今回のコンサート・プログラムの表紙を飾っています。レナード・バーンスタインが主宰していた「ヤング・ピープルズ・コンサート(若い人たちのためのコンサート)」から発想を得たという萩元晴彦プロデューサー(テレビマンユニオン)のもと、番組の企画、構成、司会をすべて担っていたのが山本さんでした。

 ともかく楽しいのはもちろんのこと、毎回何かしらの“驚き”があり、真剣で熱のこもった番組でした。「ぼくのおふくろなんかもそれを見て楽しむようになった」(*1)と小澤征爾さんが語っているように、クラシック音楽の魅力をお茶の間に届けた功績ははかりしれません。そもそもニューヨークでバーンスタインの助手を務めていた時代、小澤さん自身が「若い人たちのためのコンサート」のミーティングに毎回出席していたといいます(*2)。ですから、小澤さんは帰国する度に必ず番組に出演し、世界の名演奏家たちを登場させることにも労を惜しみませんでした。「小澤征爾なくしてこの番組はあり得なかった」と萩元さんが言うほど、小澤さんは終始一貫、協力的でした。

 今回の会場となったすみだトリフォニーホールに、どこかしら“同窓会”的な雰囲気が漂ったのも無理はありません。それぞれの人の中に、番組の思い出がしっかり宿っているからです。一方で驚いたのは、若い人たちの中に、山本直純という人間をまったく知らない人が多かったことです。無理もないのですが、どうしようもない淋しさを感じました。

 番組プロデューサーの萩元さんは、自由学園で山本さんの2年上級にあたります。戦時中にもかかわらず、子どものオーケストラがあり、礼拝の際に賛美歌を歌っていたというこの学校では、ときおり食事の時間に和音の聴音コンテストをしたといいます。その時、いくらでも正解を続ける子どもがいました。「この子は物凄いやんちゃ坊主で生傷のたえ間がないほどでしたが音楽は抜群でありました」(萩元晴彦『赤坂短信』、創世記)。名前は言うまでもなく、この子が小学生オーケストラの指揮者でもありました。

 父親が作曲家・指揮者の山本直忠氏で、幼時より徹底した音楽の英才教育を受けていたこの子の横顔をもっともよく伝えるのは、岩城宏之さんが著した『森のうた 山本直純との芸大青春期』(講談社文庫)でしょう。芸大に入学してきたばかりの威勢のいい1年生が、1学年上の岩城さんに向かって、「オメェ、どんな風に音楽をやってきたんだ?」と尋ねます。そしてその様子を見てとると、「ヨーヨー、オレの小学校二年のときの日記を、今度見せてやらァ」、「何となくオメェの音楽教育は貧しそうだから、これ読むと何かの参考になるかもしれねぇヨ」と言って持参してきた古ぼけたぶ厚い皮表紙の日記帳に、岩城青年は文字通り打ちのめされます。
 
〈ぼくはけふおとうさまにつれられて、やまだかずを(山田一雄)せんせいのおうちにいきました。せんせいはベートーベンのだい一かうきやうきよく(第一交響曲)が どうしてこのやうなハーモニーではじまるかををしへてくださいました。らいしうは だうにふぶ(導入部)ぜんぶのことををしへてくださるとおつしやいました。そして、だいいちがくしやう(第一楽章)のおしまひまで ピアノでひけるやうにしておいで、とおつしやいました。いつしようけんめいべんきやうしやう〉(カッコ内は引用者)
 
「ナオズミは、天才的な耳を持っていた」と岩城さんの回想は続きます。恩師・渡邉暁雄さんによる聴音テスト。先生が気まぐれにたたいた和音を聞いて、「上から三番目の音の、五度下の音を声に出してごらん」という質問に、ナオズミはこともなげに正解を連発します。
 
〈こんなことをできるやつは、日本に何人といないだろう。完全無欠な絶対音感教育の、しかももともと天才的な感覚を持っている人間でなければありえない。
 テストをする先生自身、絶対にできないに決まっている。これは断言できる〉
 
 今回のコンサートでは懐かしのテレビ映像が流れました。在りし日の直純さんの笑顔がスクリーンに大きく映し出されます。ステージでは、彼が作曲した「交響譚詩 シンフォニック・バラード」、編曲したフォスター「夢路より」、「金髪のジェニー」などが、斎藤秀雄門下の後輩・井上道義さんの指揮によって演奏されます。そして本来ならば、この番組のもう一人の主役であった小澤征爾さんがここで登場して、母校、成城学園初等学校合唱部の子どもたちによる「児童合唱と管弦楽のための組曲『えんそく』」(阪田寛夫作詞/山本直純作曲)を披露してくれるはずでした。ところが、直前まで合唱指導にあたっていた小澤さんが風邪のためにダウン。代わって井上道義さんが、子どもたちとお揃いのTシャツ姿で登場し、かなり難度の高いこの曲を見事に聞かせてくれました。

 作曲者、編曲者としての山本さんの力量には、改めて息を飲むばかりです。その合間に「オケ来た」の有名な場面が紹介されます。萩元さんも詳しく書き、直純さんもその感激を綴っている、名場面中の名場面――ヴァイオリンの巨匠アイザック・スターンが山田耕筰作曲「からたちの花」を演奏した時の映像です。

 これはひとつの事件でした。この時のドラマを4幕仕立てにするならば、小澤さんの口利きで「スターンがやって来る」という話が決まったところが第一幕。そこから番組スタッフが大騒ぎとなるのが二幕目。そして三幕目は、来日したスターンをホテルに訪ねるところです。直純さんが「当たって砕けるよりない」と、巨匠に向かって直々に、日本の名曲を是非聞かせてほしいと告げる場面です。スターン氏は、直純さんがアレンジした「からたちの花」の譜面を手にすると、アップライト・ピアノの前の椅子に直純さんを座らせ、そして楽譜に見入ります。
 
〈ボクがうながすようにピアニッシモで、あの歌のメロディーの前奏を弾き始めると、驚くべきことが起こった。
 生まれて初めてこの曲の楽譜を見たスターンが、百年も前からこの曲を歌っている歌手のように、まことに流れるように、そして感慨を込めて、いとも美しく、甘くせつなくメロディーを弾き始めたのである。
 そのヴァイオリンの音は、ボクの伴奏に乗る――というよりも、母親が歌声で子どもを抱きかかえるように、ボクの拙いピアノをすっぽりと包み、ボクはまるで甘いおいしい霧の中で静かに踊らされている夢遊病者のようにこの曲を弾き終わり、スターンのヴァイオリンも同時に、その夢のような音色の最後の名残りをほのかに漂わせながら、最後の一音が消えた。なみいる者は、まさに催眠術からさめやらぬ風情で、生唾を飲み込んで立ち尽くしていた〉(山本直純『オーケストラがやって来た』実業之日本社)
 
 4幕目は、実際の収録風景です。額に玉のような汗を浮かべて演奏するスターン氏。流れる旋律は、直純さんを包みこんだ、あの「からたちの花がさいたよ――」です。それに合わせて、柔らかくピアノを奏でる直純さん。指揮する小澤さんの真剣な表情。完璧な時間がそこに生まれます。

 放送が、空前の大成功をおさめたことは言うまでもありません。
 
〈わが日本の名曲が、静かに巨匠の名器から流れ、消えていったあの感動は、ボクに、音楽を一生の仕事として死ぬまで追い求めてゆく決心を新たにさせ、そして数百万の言葉や文字よりも、さらに雄弁で、美しく、価値あるもの、それが音楽であり、すべての人間を感動させ、すべての心に問いかけ、あらゆる人々から愛され親しまれる、それが芸術であることを、何よりもはっきりと、強く語ってくれた〉(同)
 
 直純さんは、感動の言葉を費やします。

 ただ、この芝居をどう締めくくるか、劇作家によって多少趣向が変わるかもしれません。最後の場面は、やはりこの夜の打上げのパーティになるでしょう。スターン氏、小澤さん、直純さんを中心にきわめて楽しい、至福のひと時が過ぎていきます。その時、スタッフの一人が萩元さんに言います。「萩元さんも今夜はプロデューサー冥利につきるでしょうね」と。

 萩元さんは首を横に振ります。「これで儲かっていればね……」。巨匠の出演、名演奏によって番組の声価は高まったかもしれない。しかし、儲かってはいない――。「超一流の芸術家を招き、彼らにふさわしい場をつくり、それで儲けてこそ初めて一流のプロデューサーと言える」――萩元さんはこう心の中で呟きます(*3)。

 それにしても、小澤・山本という二人の姿は眩しい限りです。小澤さんが指揮を始めようと決意した中学三年生のとき、斎藤秀雄先生が言ったのは、「一年間は直純につけ」というひと言でした。スコアの読み方から各楽器の扱い方まで、「直純さんは音楽家としての基本的な才能がすごくあるんです。いい耳を持って、人をまとめる力があって。……ボクの最初の先生は直純さんだったわけです」と小澤さんは述べます(同、小澤征爾「直純さん、ありがとう」)

 そして、小澤さんが24歳でヨーロッパへ“音楽武者修行”に出かける時、「音楽のピラミッドがあるとしたら、オレはその底辺を広げる仕事をするから、お前はヨーロッパへ行って頂点を目指せ。征爾が日本に帰ってきたら、お前のためのオーケストラをちゃんと日本に用意しておくから」と言って送り出したのも直純さんでした(同)。

 そんなことを思い出しながら座席に坐っていると、思わずこみあげてくるものがあって、目頭が熱くなりました。小澤さんはさらに語っています。「彼のあの大振りの指揮は、一見派手に見えるけど、実はオーソドックス。……基本はぼくと同じ斎藤メソードなんです」。
 
〈あの大振りを、直純さん以外の人がやってごらんなさい。ただのラジオ体操になってしまう。耳で聞いて、楽員にポイントをわかりやすく伝えるのが指揮だとしたら、彼の才能はものすごかった。というか、彼の持っている音楽、ね。彼ほど一般の人とつながる才能を持っていた音楽家はいません〉(同) 
 
 最後の言葉がとても重要です。直純さんの類稀なる天才の凄さは、音楽の素人たちに、彼自身の中にある“音楽”を噛み砕いて理解させる能力を備えていたことだと思います。

 学生時代は24時間一緒にいたというほど、ともに音楽に青春を捧げた岩城宏之さんも語っています。「ぼくはナオズミの才能のすごさには、まったく太刀打ちできず、とにかく彼に追いつこう、というのだけがぼくの学生生活だった」(前掲『森のうた』あとがき)。そして、「大きいことはいいことだ」のコマーシャルの大ヒットや、映画「寅さんシリーズ」の名テーマ曲など、「大衆に愛される音楽に邁進した」ナオズミはたしかに彼の一面ではあるけれども、一方で「ナオズミの音楽家としての本質、彼の指揮法への真剣な探究心を、今の人たちにも知ってもらいたい」と強調しています。

 ナオズミさんも、岩城さんも、萩元さんも亡くなり、時の流れに逆らうことはできません。しかし、直純さんとの黙契、あるいは「オケ来た」での時間をふたたび生き直そうとしているのが、夏のサイトウ・キネンで若手の指導を続けている盟友・小澤征爾さんなのかもしれません。
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