Kangaeruhito HTML Mail Magazine 571
 

三宅菊子・阿奈井文彦『商売繁盛――昨今職業づくし』
(中公新書、絶版)

 時代の証言者

 正月休みに本の大処分を敢行しながら、書棚の奥からようやく探し出したのが本書です。初版が昭和51年(1976年)8月25日。手許にあったのが昭和54年(1979年)1月30日刊の第4版でした。

 およそ35年ぶりの再読となりましたが、期待にたがわず、面白さはまったく変わりません。登場するのは48人。さまざまな商売の人たちが、それぞれの語り口で、仕事の紹介や苦労話、はたらく喜びを語っています。いまの若い人たちにはチンプンカンプンの不思議な仕事も含まれています。自動改札になる前の駅の改札係、荷物を運搬する赤帽さん、エントツ屋、井戸堀り。きっとイメージが浮かばないでしょうね。矢切の渡し、学生帽を扱っている早稲田の帽子屋、紙芝居屋、チリ紙交換あたりも、さてどうでしょう。

 なぜ、この本を急に読みたくなったかといえば、「考える人」最新号で「はたらく」特集を組んだからです。いつの時代にも自分の仕事に誇りをもち、楽しげにはたらいている人たちがいます。そんな人たちの話を読んだり、聞いたりしていると興味の尽きることがありません。本書もあっという間に読了してしまいました。

 48話すべてを紹介したくなりますが、以前読んだ時に気に入ったらしく、○印をつけていたのが、「やげん堀中島」社長、中島徳太郎さんの「七味唐辛子の味」の一節です。
 
〈そうやって、一袋200円で売って――あたしは、200円の値を絶対上げないつもりなんです。こういうもんは、庶民のものですからね、いくらいい品だからって、高くはできない。で、わずか200円で、ソバがうまいとか、お新香の味がよくなった、と食卓にアクセントがつけば、あたしはそれで満足なんです。
 かくし味っていうでしょ。うまい芸人てものは、芸を見せない。七味唐辛子の味だって、極端にいえば芸術と同じですよ。なにがどううまい、じゃなくて、なんとなくうまいってのがいいんだ。江戸ッ子は宵越しの金を持たない、地味な結城をスッと着る、これが江戸ッ子気質でしょ。関東文化ってものを追い求めて行くと、江戸ッ子の哲学がそこにあるんだ。
 見せないところに気を遣う、そういう江戸ッ子になりきるには、修養がいりまさぁね。あたしは、企業を大きくして金儲けようなんて思っちゃいませんよ。“いい唐辛子屋のおじいちゃん”でいられれば満足なんで。――とかなんとか偉そうなこと言っちゃって。ま、どんな商売でも、一つの道に徹するのがいいんじゃないですか。成り上っちゃいけませんや〉
 
 浅草新仲見世のお店の3階で収録したとあります。こういう江戸ッ子が健在だったのですね。

 元々の記事は「婦人公論」1975年2月号の「近況・心境」という欄に掲載されたもので、「近況・心境」はいまだに続いている同誌の定番コラムです。大文字のジャーナリズムと小文字のそれがあるとすれば、「近況・心境」はいうまでもなく、後者の代表格です。1998年3月にこの雑誌をリニューアルした際も、編集長だった私がこの欄の存続を決めたのは、人気があったことはもちろんですが、このインタビュー記事自体に“プロの仕事”を感得して、早くその域に達したいと思った若いころの原体験がありました。

 それと、こうした記事をもしタイム・カプセルに入れておくならば、ン百年先の未来人はきっと面白がって読むに違いないと思ったからです。つまり、その時代、時代の証言者――。

 格別の“再会”もありました。前々回のメールマガジン(No.569)の最後に、今回の特集に登場する銭湯ペンキ絵師・田中みずきさんのことに触れました。真白き富士の嶺を描く彼女の製作風景写真を、特集のタイトル・バックに使ったという話です。
 

 丸山喜久男さんはその道の大先輩で、背景広告社社長です。取材した1975年当時、都内に銭湯は約2500軒で、そのうち2200軒が背景画(つまりペンキ画)のある風呂屋さんでした。絵描きは10人ほど。だから1人で約200軒の絵を描く勘定になりますねえ、と。

 田中さんの話では、いま都内の銭湯は720軒程度。専門の絵師は3名ということです。両者を読み比べると、世相の変化、時代の流行りすたりを感じます。まず丸山さん――。
 
〈昔はいろんな絵を描いたものですよ。私は、もう、40年やってますけど、男湯には、こう海辺に天女の舞い姿、女湯には、浦島太郎とね、凝ったものです。……戦後まもなくのころですよ、同業者のなかで、男湯にヌードを描いたのがいまして、それも遠景にね、岩風呂にはいってるのであればよかったんでしょうけど、大きなヌードを前面に描いたんですなあ。評判になりましたけど、警察がやってきましてね、「女のヌードを、男がハダカになって見るのは、よくないんじゃないか」ということで、ええ、すぐ描きかえたようですよ。いまでも、女湯と男湯の絵はちがうんです。女湯には、子供さんが多いこともあって、漫画のハイジだとか、仮面ライダーを描いてみたり、パンダを描いてくれと、これは注文がありましたね〉
 
 いまやAKB48や東京スカイツリーの絵を“売り”にしている銭湯もあるそうですが、若い田中さんが研究に精を出すのは、富士山を中央に配した伝統的なスタイルです。丸山大先輩をして「富士山、こりゃむつかしい。というのは、誰でも知ってる山ですからね、下手な絵は描けない。形がむつかしいです」という難題に、敢えてチャレンジするのがアッパレと思います。
 
〈時々、周囲に「この仕事が辞められないんだな」と思う人がいますが、それって私自身のことでもあるんです。すごく儲かるわけでもないし、体力面も大変だし。でも、そういう苦労を上回る喜びがあるんでしょうね〉
 
 後輩、田中さんの言葉です。

 もうひとつ懐かしかったのは、浅草・満寿屋(ますや)の原稿用紙の話。当時、舛屋常務の川口ヒロさんが語っています。いまや原稿用紙に万年筆で書かれた生原稿を扱うのは、私たち編集者にとっても稀ですが、ついこの間まで、多くの著名作家に愛用されたのが、満寿屋でオーダーメイドした原稿用紙です。
 
〈いい紙がない時代にはそれで苦労したし、紙がよくなれば、ご注文に合ってないって叱られて。作品ができないのは原稿用紙のせいだ、なんて叱られたこともあるんですよ。
 でもね、一字一字苦労して書いてらっしゃる先生方のこと思えば、私も苦労のしがいがあります。この紙で、あの芸術が生まれるんだなぁなんて思って……。
 川端(康成)先生は黄の入った朱。お年と共にマス目が大きくなりました。作品の枚数の割には紙をたくさん使ってくださったようですね。高見(順)先生がすごくむずかしかった。グレーの色が、ちょっとちがってももういけないんですからね。丹羽(文雄)先生はグレーとグリーンの中間の色で罫はふつうのルビつき。昔の美濃版て、ちょっと大きいんですよ。……
 ただひとりだけ、ダメだったのが三島由紀夫先生。「恥ずかしいんだけど、コクヨ使ってるんです。ぼくは旅行が多いし、あれだとどこでも買えますからね。かんにんしてください」なんておっしゃって、とうとう1回も注文してくださらなかった〉
 
 作家相手に特注で用立てる場合は1回4000枚とか4500枚とかが最低数量だと聞いたことがあります。1冊の単行本がだいたい原稿枚数350枚くらいですから、そら恐ろしい分量です。それを使い切るのにさほどの時間を要さない作家がたくさんいることにも驚かされました。

 そのことで逆に印象深かったのは、最近の津村節子さんの話です。津村さん愛用の原稿用紙も満寿屋特製のものですが、手持ちが次第に少なくなってきたので、そろそろ注文しなければ、と思ったところで「何枚頼めばいいか考え込んでしまった」というのです。大きな仕事のケリもついたし、「これからの仕事は恐らくエッセイを細々書くくらいだろう……その程度なら、死ぬ迄にあと二百枚もあればいいか」と。
 
 
〈満寿屋に、二百枚註文する時に、もうこのくらいで間に合うと思うと言ったら、
「何をおっしゃいます。これからもどんどんお書き下さらなくては」
 と言われた。そして送られて来た二百枚の原稿用紙は、これまで長い間御贔屓にして戴いたので贈らせていただきます、と請求書はなかった〉(連載「時のなごり」第22回「原稿用紙」、「波」2013年7月号
 
 ところが、新しく始める連載のことをすっかり失念していたことに気がついて、さらに300枚を注文します。前の200枚と合計500枚の代金を払いたい、と言い添えて――。すると、注文の翌日に届いた原稿用紙に添えられていたのは、追加300枚分の1割引きの請求書だった、という話。

「前の二百枚分を一緒に送金するのは好意を無にすると思い、いい作品にせねば、と思った」とあります。こういう細やかな人情の機微も、未来人に読ませたい貴重な時代の証言だと思うのです。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
Copyright 2014 SHINCHOSHA (C) All Rights Reserved