Kangaeruhito HTML Mail Magazine 583
 
 麗子の祖父、劉生の父
 
 会期の最終日にギリギリ間に合って、岸田家三代の展覧会を見ることができました。世田谷美術館で開かれていた「岸田吟香・劉生・麗子 知られざる精神の系譜」展です。

 幕末から維新にかけて縦横無尽の活躍をした「鬼才」岸田吟香(ぎんこう)と、その息子であり、愛娘をモデルにした「麗子像」で知られる大正期のカリスマ洋画家・劉生(りゅうせい)、さらに劉生の娘で演劇人・画家・文筆家として、やはり表現者の道を歩んだ麗子――この親子3代の血脈をたどる、非常に見応えのある展覧会でした。

 中でも秘かに期待していたのは、めったにお目にかかれない貴重な資料を通して、岸田吟香の躍動ぶりをこの目で確かめることでした。岸田吟香といっても、もはや馴染みのない名前かもしれませんが、これほどバイタリティに溢れる明治の傑物もいませんでした。いまでいう起業家であり、近代ジャーナリズムの先駆者であって、「気が多かった」ことも確かでしょうが、ともかくこの人の事績を並べれば、「日本初」のオンパレードになるのです。
 
  • 日本初の鉛活字の作成。
  • 日本初の本格的な和英辞書「和英語林集成」の刊行。
  • 日本初の民間新聞「新聞紙」の創刊。
  • 日本初の“社会部記者”にして、従軍記者。
  • 「広く人に読ませる」ことを意識した平易な口語体の考案者。
  • 日本初の液体目薬「精錡水(せいきすい)」の製造販売で大成功した実業家。
  • 「精錡水」の巧みな宣伝で衆目を集めた広告デザインの先駆者。
  • 美術を中心としたメセナ(芸術文化支援)活動の推進者。
  • 社会奉仕、社会福祉活動のパイオニア。
  • 上海訪問は実に8回に及ぶ日中友好の開拓者。

 他にも、北海道函館の氷製造販売、越後での石油採掘、盲学校の設立、江戸横浜間の蒸気船定期航路開拓など、まだまだ手がけた事業は数多くありますが、どうしてこれほどのマルチタレントが誕生したのかは、いまだに不思議でなりません。

 幼名は岸田辰大郞(たつたろう)。岡山県北部の美作国(みまさかのくに)の庄屋の長男として、1833年(天保4年)に生まれています。幼い頃から神童と呼ばれた吟香は、やがて江戸に出て漢学を学びますが、幕末の混乱の中で風呂屋の三助をやったり、大工の手伝いをやったり、ついには深川の妓楼で箱屋をつとめるなど、社会の周縁的なところを遍歴します。ただ、そのまま「脂粉の巷」に埋没するつもりはなく、かたわら蘭学を学んでいました。その時、たまたま目を患い、町医ではいっこう良くならないのに業を煮やし、駆け込んだ先が神奈川で施療所を開いていたアメリカ人宣教師ヘボンのところだったのです。

「ヘボン式ローマ字」にいまもその名をとどめるヘボンですが、今日ふうにいえばヘップバーン。幕末の日本人にはどうにも発音しづらくて、それがヘボンとなり、本人も「平文」と称していました。「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーン、アカデミー主演女優賞4回受賞のキャサリン・ヘップバーンという二人の有名映画女優がいますが、キャサリンのほうは、わがヘボン博士の一族にあたります。ペンシルバニア州フィラデルフィア近郊の出身。プリンストン大学で神学を学び、ペンシルバニア大学で医学を学んだプレスビテリアン派教会の宣教師で、1858年に日米修好通商条約が調印された後、教会が日本に送り込んできた人物です。

 ここまでのあらましは、三好徹『近代ジャーナリスト列伝』(中公文庫、品切れ)を下敷きにしながら述べているのですが、そもそもこの本で初めて岸田吟香という快男子を知り、それですっかりファンになりました。

 さて、ヘボンは受診してきた大男(吟香は180センチ、90キロの巨漢でした)と話すうち、この正体不明ながら「ちゃんとした教育をうけているように思われる」若者は、いま自分が進めている辞書編纂の助手に使えるのではないかと考えます(ヘボンが辞書を作ろうと思い立ったのは、布教の障害となる言葉のカベを克服するためでした)。

 吟香に異存はありませんでした。ただちに深川を引き払い、ヘボンの家に移り住みます。そして午前中は診療を手伝い、午後は辞書編纂に取り組み、治療と英語の勉強に明け暮れます。吟香が「新聞」の社会的意義に目覚めるのも、この時期のことでした。

 とまぁ、こんな調子で一代記を語っていたら、面白すぎてとても終らないのが吟香の困ったところです。ちなみに、「吟香」という号は、芸者の使い走りをするうちに、姐さんたちから「銀公」と呼ばれて重宝がられていたからだとか。真偽のほどは分かりません。

 ともかくこの型破りの人間が近代日本にもたらした功績のうちで、もっとも大きなひとつに新聞人としての活動があることは間違いありません。草創期の「海外新聞」、「横浜新報もしほ草」などを経て、1873年(明治6年)9月、現在の毎日新聞の前身となる「東京日日新聞」に入社し、初代主筆に就任します。そして翌年、明治政府初の海外出兵である台湾出兵が持ち上がると、即座に吟香は呼びかけます。
 
〈「戦争というのは最大のニュースだ。国民の全部が関心をもって読む。西洋の新聞では、こういう時は必ず従軍記者を出す。わが社は他社に先がけて送り出そうではないか」
 吟香は、いまでいう社会部記者の感覚で新聞を作ろうとしている。戦争の是非の論説はどの新聞でも行うだろうが、読者が欲しているのは、政論ではなく、現実の戦闘のなまなましいレポートである。そのためには、どうしても従軍しなければ、生のニュースは書けない〉(三好徹、前掲書)
 
 ところが、これに応募するものが誰一人として現れません。せっかくの名案も断念せざるを得ないかと思った時、「いや、諦めることはない」、「ぼくが従軍記者になろう」――巨躯をゆるがすようにして、吟香が名乗りを上げるのです。

 こうしてわが国初の従軍記者が誕生します。しかも、「軟派記事を書かせたら及ぶものがいなかった」と言われる才筆だけに、自分の目で見、耳で聞いたことを、臨場感あふれる文章にして次々と書き送ってきます。短文ながら、挿絵もまじえたわが国初の従軍記事は、たとえば次の一文です――。
 
〈岸田吟香生蕃の地を経過せしに、途中或る渓流を渉らんとて、股引を脱ぎ靴を取りてまさに水中に歩し入らんとする際、たちまち一人の土人来り合せて背負ひ渉らんと云ふ、これを謝し断れども強て進むる故、その背に乗らんとすれば、渠(か)れ力弱くして立つこと能はず、遂に思を止む。蓋し土人元より力弱しとも吟香亦常人より甚だ肥大なればなり〉(同)
 
 つまり、現地人が吟香を背負って渓流を渡ろうとしたが、あまりの巨体であったゆえに、立つこともできなくて諦めたという笑い話です。こんな調子ですから、「東京日日新聞」の評判は高まる一方で、部数は一気に5000部以上増えて1万5000部の大台にのったと言われます(創刊時は1000部でした)。まさに吟香の独壇場でした。

 ところで、今回の展覧会で何より嬉しかったのは、その彼の傑作と呼ばれる記事に初めて接することができたからです。それは明治11年、12年の天皇の地方巡幸に同行した際の“雑報”で、三好徹氏は次のように解説しています。
 
〈なかでも十一年のそれは、吟香の持味を存分に発揮したもので、ことに、雨の中を、駕籠で箱根ごえした「風雨中箱根を越ゆるの記」は、雑報記事の模範とまでいわれた。
 吟香は、三島でやとった駕籠にのって箱根の難所をこえるのだが、むろん、外へは一歩も出ずに、十数時間を風雨の音だけを聞きながらすごした。
 そのくせ、彼の文章を読むと、箱根の嶮がまるで目の前にうかぶように書かれているのである。といって、彼は、デタラメを書いたわけではなかった。「駕籠は逆さまに向くやうにて頭より膝の方が高くなり……かごやの息杖カチカチと石に触るはすでに箱根の坂口に掛りたるなるべし」というように、自分の感覚でつづるのだ〉(同)
 
 当時、主筆を務めていた福地桜痴(ふくちおうち)は大いに感心して、社員たちに「これを読め」と命じたといいます。明治天皇の様子をいっさい記すことなく、豪雨をついて箱根を駕籠で越えていく経緯を、リズミカルに、ユーモラスに、迫真的に綴っていますが、引用されているのは上記の箇所だけ。いったい全文はどのようなものか、いつか読みたいと願っていました。その「東京日日新聞」1878年11月11日に掲載された記事が、今回展示されていたのです。現代風表記に改めて、その一部を紹介します。
 
〈サア駕丁(かごかき)はやく遣れと急がせ又れいのヒヨイヒヨイと登るに頭は棒にコツコツ当り両膝は天に朝して屈て伸ばすこと能はず坂はますます嶮しく雨はますます烈しく漸々高き処に至るに従がひ風さへ強く吹き来り谷底より吹き揚る風には下より雨を吹き込まれ上より来る山おろしには松の露やら涙やら顔も身体もビツシヨリ濡れて寒きこと玄冬の如く手も足も冷え通りたれども引纏うべきケツトも持たねばガタガタ振へながら縮り居るに舁夫(かごや)ども、寒い寒いと云ひつつ、折り折り竹杖を取り落すは手が亀(かぢ)かんで持てぬなるべし〉
 
 さて、その後の名文記者の半生は、ヘボン博士直伝の「精錡水(日本初の点眼薬)」の製造販売で財をなす一方、そこで得た利益を訓盲院設立のために寄付したり、さまざまな慈善活動、あるいは美術家などの支援、書籍の出版、日中交流など、あいかわらず八面六臂の活躍ぶりです。どこを切っても「文明開化」の時代をエネルギッシュに生き抜いた先駆者の面貌が現れます。

 そして晩婚であった吟香が14人なした子どもの中で、58歳の時に生まれた第9子の4男は、「生れる子供が男子だったら、『劉生』と名付けるように」と言いおいて上海に出かけた間に誕生しました(岸田麗子『父 岸田劉生』中公文庫)。名前は北宋初期の画家・劉道士に由来するとされ、生まれながらにして画家になることを運命づけられていたのが劉生です。

 実は、山藤章二さんのあまりに見事な戯画が現れて以来、劉生の代表作である「麗子像」は故・大平正芳首相の顔がダブって現れ、印象がかなり歪められていました。小沢昭一さんが激賞したように、「あれを見てると元の麗子の顔がどうしても思い出せないのよ!!」と呆気に取られるパロディーの白眉。
 

 しかし、さすがにオリジナルの「麗子像」は、圧倒的な迫力でした。その重厚さに大平首相の“顔”も消し飛びました。そして、ここに描かれた麗子自身が、38歳で早世した父の遺志を継ぐように、自らも画家の道に進むのですが、1962年(昭和37年)、彼女も48歳で急逝します。

 展覧会のタイトルにある「知られざる精神の系譜」とは、「それぞれの個を貫き通したこの稀有なる親子三代の物語」――3者に共通する「独りわが道をゆくことを恐れなかった生き方」を指すものです(主催者「ごあいさつ」より)。さらに言えば、それぞれが深い愛情と敬意に結ばれた魂の継承者であったという点です。

 ところで、数年前にちょっとしたブームになった「卵かけご飯」は、吟香が全国に広めたという説があります。生卵に生醤油をたらして溶きほぐし、それを熱々のご飯にかけて食べるという単純きわまりないレシピ。今回の展示でも、どこかに岸田家代々の味として紹介されていないかと探してみましたが、どうやらこちらの「系譜」は見当たらないようでした。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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