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ひのまどか『戦火のシンフォニー レニングラード封鎖345日目の真実』(新潮社)

 しかし、ミューズは黙らなかった

 サンクトペテルブルクは、元来が自然発生的な都(みやこ)ではなく、ピョートル大帝という強大な専制君主によって建設された人工的な首都でした。バルト海の東端、フィンランド湾の東詰めにあって、ヨーロッパ最大のラドガ湖から流れ出るネヴァ川の河口に位置する荒涼とした三角州に、まるで魔法のように現出した壮麗な空間。それはロシアの大地から西欧世界に向かって開かれた「窓」であるとともに、皇帝の強固な意志を体現し、近代への夢を具現化した劇場的(神話的)な都市でした。

 つまりペテルブルクは、地政学的にも歴史的にも社会的にも、まさにロシアのフロンティアを意味しました。ロシア革命を経、首都機能はモスクワに譲り渡し、また第一次世界大戦後にはレーニンの名にちなんでレニングラードと改称されましたが、ヨーロッパへの玄関口としての、シンボリックな町であることに何ら変わりはありませんでした。
 

 ペテルブルクは世界でもっとも幻想的な都市である、とドストエフスキーが定義したように、この町はさまざまな文学者の想像力をかきたて、ロシア文学の黄金期を創出しました。社会主義の時代に突入し、たとえレニングラードと名前は変わっても、文学、美術、音楽、演劇など、文化の花ひらく町という基本的な性格は、この町を愛する人々の誇りや確信としてたくましく継承されてきたのです。

 その町が1941年8月30日から、1944年1月27日まで約900日間(正確には881日間)、ナチス・ドイツ軍によって完全包囲されました。英国と戦端を開いている以上、「ドイツは決して二面戦争には打って出ない」と踏んでいたスターリンの大誤算でした。すべてのライフラインが断ち切られた町を、連日、激しい砲撃と空襲が襲います。食糧難から飢餓へ、そして無慈悲な自然の猛威であるマローズ(酷寒)の訪れ。苛烈きわまりない極限状況に追い込まれ、餓死、凍死、傷病死と、この間にソ連政府の発表によれば63万人、推定では130~150万人の市民が犠牲となりました。

 著者は2003年にサンクトペテルブルク(1991年に旧名に戻った)を訪れた際、「戦争博物館」に立ち寄ります。正式名称は「ショスタコーヴィチ記念第235番中学校内、民間博物館」といい、名称が示す通り、この都が生んだ天才作曲家ショスタコーヴィチにちなんだ博物館です。なかでもショスタコーヴィチが大祖国戦争(独ソ戦のソ連側の呼称)の勃発直後から、“愛する故郷レニングラードと愛する市民のために”作曲した「交響曲第七番〈レニングラード〉」が、ナチス・ドイツの完全包囲下のこの町で初演されたことを記念する、世界でも類を見ないユニークな博物館だったのです。

「交響曲第七番」が大きな歴史的・政治的・社会的背景をもって生まれた作品であることはある意味で常識でした。しかし、著者を驚愕させ、感動させたのは、この曲が「レニングラード封鎖」のさなかに、どういう人たちの努力によって、いかにして初演されたかという事実を目のあたりにしたことです。筆舌に尽くしがたい悲惨な状況と、ほとんど不可能と思われる困難の連続の中で、指揮者エリアスベルクとラジオ・シンフォニーの楽団員たちの協力、献身、勇気によって、それは奇跡的に成し遂げられたのです。にもかかわらず、世界中の音楽愛好家に、この事実はほとんど知られていません。

 1960年代に入って、第235番中学校の教師と生徒たちの呼びかけから開館に漕ぎつけたこの博物館には、実に2万点に及ぶ貴重なオリジナル・コレクションが所蔵されていました。しかし、著者が訪れた際には、8年前に学校が他に移転したために、「旧校舎は水も出ない、トイレも使えない、電気は来訪者がある時だけ展示室(中略)のみ点灯する、といった侘しい状態」にありました。
 
〈この年サンクトペテルブルクは「建都三〇〇周年」の祝いに沸いており、私もその取材で行っていたのだが、どの劇場も宮殿も、通りも店も、世界中からの観光客で溢れ返っていた。それだけに一層、泥が積まれた敷地内に立つこの廃校は、博物館ごと世間から忘れ去られた観があった〉
 
 胸をつかれた著者は、「この人たちの姿を知らずして〈第七番〉の歴史的意味は語れない」という“使命感”から本書に取り組みます。他の仕事に区切りをつけた2009年から本格的な調査を開始し、原文資料を読むためにロシア語を新たに学び、また現地では多くの関係者や証言者を直接取材し、この1冊をまとめ上げました。労作だということは言うまでもありませんが、人間が絶望的な状況に置かれた時に、音楽は何の役に立つのか、音楽家は何をなすべきか、というまっすぐな問いかけが、この作品をさらに感動的にしています。

 封鎖の初期、ベルリンの放送局が流す「レニングラードは今日か明日にも陥落する」というヒトラーのプロパガンダ演説を聞いて、ソ連側はそれを覆す有効な手立てはないものか、と思案します。「ヒトラーの野蛮なプロパガンダに対抗する、文化都市レニングラードならではの、文化的プロパガンダはないものか?」――と。

 思いは、必然的に「音楽」に行き着きます。ラジオ・シンフォニー楽団員の半数は、開戦時に軍隊や人民義勇軍に徴兵された状態であり、残るメンバーは40名足らずでした。しかも彼らとて、防空防衛隊の任務に就いたり、要塞建設に動員されたり、バラバラの状態でした。それを再結集し、エリアスベルクの指揮のもと、同盟国イギリスに向けたラジオ・コンサートが挙行されます。曲目はチャイコフスキーの「交響曲第五番」。

 コンサートの翌朝、押しかけてきた市民たちは、口々にその感激を語ります。ラジオ委員会にとっても嬉しい驚きでした。「今は音楽どころではない、と思っていたが、人々はいつでも、どんな状況でも、音楽を求めていることが分った。音楽が幸せな時を呼び戻し、心の支えになってくれるからだ」

 党上層部も考えを改めます。「これは最高に効果的なプロパガンダだ。町は敵が言いふらしているような絶望的な状況ではない、町はドイツ軍の手に握られているのではないということを、世界に、全土に、ベルリンに伝えられる絶好の手段だ。何しろオーケストラが戦火の町に残っていて、立派に演奏しているのだから」

 その数日前には、ショスタコーヴィチがラジオを通して呼びかけていました。

「一時間前、私は新しい大規模な交響曲の第二楽章のスコアを書き終えました。もし私がこの作品を立派に書き上げ、第三、第四楽章を完成することができた時には、これを〈交響曲第七番〉と名付けることになるでしょう。戦争と、レニングラードを脅かす危険にもかかわらず、私は最初の二つの楽章を非常に早く仕上げました。……
 私の交響曲は完成に近付いています。完成した時には新作とともに再び放送に出ます。そして私の努力に対する皆さんの厳しく親身な評価を待ちます。
 同朋の音楽家の皆さん、友人の皆さん、私たちの芸術は大きな危険に晒されています。私たちの音楽を守りましょう。私たちがこの町に捧げる感謝と誠意と献身は、何者も滅ぼすことはできません!」

 けれども、10月に入り、酷寒の季節が近づくとともに、ショスタコーヴィチは党本部の要請を受け入れ、クイビシェフ(現在のサマーラ)に疎開します。移住先で彼が作品を完成させるのは、この年の暮、12月27日のことでした。アパートに知人たちを集めると、「第七番」の完成を告げ、ピアノで全曲を弾いて聴かせます。

 レニングラードに留まっていたラジオ・シンフォニーの楽団員たちは、「白い地獄」の責苦に日増しに追い詰められていました。市民にとって「ラジオの声は命の声、ラジオの音は命の音だった」とはいえ、ラジオ・シンフォニーの活動もやがて中止されます。1月8日には電気が完全に止まり、ラジオは沈黙します。

 しかし、13世紀にドイツ騎士団の侵攻を撃破した時代から、近年のフィンランドとの「冬戦争」まで、氷上作戦の豊富な歴史と経験を持つソ連軍は、凍結した湖の氷上道路を使って物資輸送を行い、また疎開計画を実施して、この苦難を辛うじて耐え抜きます。そして、「何か音楽をやらんか!」という現地指揮官の号令一下、3月3日には生死の境をさまよっていた音楽家たちが集められ、オーケストラ復活に向けた動きが再開されます。

 その頃、完成された「交響曲第七番」は3月5日にクイビシェフで、3月29日にはモスクワで初演されていました。いずれもレニングラードにラジオ中継は届きませんでした。「『レニングラードのための交響曲』は、その言葉とは裏腹にレニングラードを置き去りにしていた……」のです。

 新生ラジオ・シンフォニーが産声を上げるのは4月5日。若き芸術監督は、強い決意を表明します。「あの空襲と砲撃の中で、ドミトリー・ドミトリエヴィチ(ショスタコーヴィチのこと、註)がこの交響曲をレニングラードに捧げる、とラジオで語った言葉を人々は忘れていない。〈第七番〉はクイビシェフとモスクワで初演されたが、これらは単なる音楽的イベントに過ぎない。ここレニングラードで演奏される時こそが、真の初演だ。それが実現した時、包囲の町レニングラードは精神生活のピークを迎えるだろう!」

 それを聞いた同志は、秘めた思いは同じであるにせよ、「現時点では、それは不可能に近い課題だ。オーケストラは復活したが、音楽家たちの肉体的困難は計り知れない。今は何もかも欠乏している。パン、水、電力、楽団員の数、体力、能力……。現状では、オーケストラにショスタコーヴィチの交響曲を演奏する力はない」と答える他ありませんでした。

 芸術監督は引き下がりません。「できないはずはない。諦めてはいけない」と強く反駁。4月6日、彼らはショスタコーヴィチに宛てた手紙をしたため、楽譜の入手と、「レニングラード初演」に向けての協力を要請するのです。
 

 詳細は本書に譲りますが、この途方もない計画が紆余曲折の末に実現するのは8月9日です。7月1日にようやく届いたスコアにパート譜がついていなかったり、曲が巨大編成であることに打ちのめされたり、いくつもの障害を必死の思いで乗り越えて、8月9日をめざします。その間、7月9、11、12、15日にはノボシビルスクで、疎開していたムラヴィンスキー指揮のレニングラード・フィルが「第七番」を演奏します。また一方では、ドイツ軍が再びレニングラードに向けて攻勢をかけてくることが確実視されました。

 電力は絶対的に不足し、不十分な機材やマイクしか揃いませんでしたが、ラジオ放送の録音技師たちも、どうやったらこの新しい交響曲の正確な響きをとらえることができるか、命がけの戦いをしていました。

 そして当日。最大収容人数1500名のフィラルモニー大ホールに、オーケストラがいよいよ登場します。
 
 
〈楽団員たちの服装はまちまちだった。軍人音楽家は各々所属する部隊の制服を着用し、それ以外の楽団員は手元にある黒っぽい上下で、精一杯正装していた。皆、痩せていて顔色は悪かったが、目は輝いていた〉
 
 この日の歴史的な演奏は、電力不足のために録音されませんでした。“幻の名演”がどういう印象を人々の胸に刻んだかは、立ち会っていた人たちの証言として本書にあります。ここでは、敵方であるドイツ兵捕虜たちの言葉を引きたいと思います。赤軍の尋問に答えて、彼らが異口同音に語ったというのです。

「我々は塹壕の中でいつもレニングラードの放送を聞いていたが、一番驚き、戸惑ったのは、フィラルモニーやスタジオからの音楽放送だった。もし町が、このとてつもない状況の中でクラシック音楽のコンサートをやれているのだとしたら、一体ロシア人はどれだけ強いんだ? そんな敵をやっつけることはとうていできない、と思い、恐ろしくなった」

 本書は極限状況の瀕死の町で、それでもショスタコーヴィチの超大作「交響曲第七番〈レニングラード〉」を初演した無名の英雄音楽家たちへのオマージュです。「大砲が鳴る時、ミューズは黙る」というロシアの諺は、ここで見事に覆されました。非常時に音楽は不要なのではなく、「町が生き続け、負けないためにも必要です。……戦う精神を捨ててはいけません」(第一ヴァイオリン奏者)ときっぱり主張した彼らの信念の正しさが証明されたのです。

「しかし、ミューズは黙らなかった」――音楽兵士を讃えた「戦争博物館」は、こう名付けられています。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*[写真協力] ひのまどか/戦争博物館〈しかし、ミューズは黙らなかった〉/ヴィクトル・コズロフ(エリアスベルク研究家)


読んで聴いて感動を10倍に! ショスタコーヴィチ作曲、交響曲第7番《レニングラード》第1楽章(約26分)が無料で聴けます!

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2014年6月30日までの限定公開!
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