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佐々木幹郎『東北を聴く――民謡の原点を訪ねて』(岩波新書)

 唄の霊験を求めて

 自分の身体のどこを掘っても「民謡」の水脈にぶつかることはないだろう、と思っていました。そもそも民謡のテーマとなるような自然環境から縁遠い町中に育ちました。民謡のメロディーに親しむ機会もなく、日曜昼の「NHKのど自慢」で民謡をうたう人が現れると、不思議なものを見るように眺めているのが常でした。

 それでも、例の「会津磐梯山」の囃子詞(はやしことば)は、なぜか最初から気に入って、以来ふとした拍子に、つい口ずさんでいるのです。

 小原庄助さん なんで身上つぶした
 朝寝朝酒 朝湯が大好きで
 それで身上つぶした
 ア もっともだ もっともだ

 そんなにいいものなら、「朝寝朝酒朝湯」を早く味わってみたいものだと子ども心に思いつつ、はてさて「小原庄助さん」とは実在の人物なのか、いつの時代のどんな人なのかが気になりました。

 どうやらこれには諸説があるようで、本書もその点には深入りしていません。ともあれ、芸者出身の小唄勝太郎が1934年(昭和9年)にビクターから「端唄・会津磐梯山」をうたってレコード化したことで全国的に知れ渡り、ここで初めて登場した「小原庄助さん」も一躍有名人になりました。そして、この小唄勝太郎のうたった歌詞ですが、著者ならずとも「なんともよくできている」と感心させられる内容です。
 
〈会津磐梯山の周辺は、金山などの宝の山である。戊辰戦争で忠義を尽くして散った白虎隊がいる。そんな会津のおはら庄助さんは、破産してしまった。朝寝朝酒朝湯が大好きだったから仕方がない。しかし、会津盆地にそびえる鶴ヶ城のまわり、夏の風もほがらかに吹く。東山温泉から便りが来たから、また行かねばならない、もちろんお酒を飲みにである〉
 
 つまり、朝寝朝酒朝湯を少しも反省していないという、「たいした」歌詞なのです。「『公』への忠義と『私』の破産が矛盾していない。こういう歌詞をうたうには、相当の勇気がいったに違いない。実際に発表当時、会津では非難轟々(ごうごう)だったらしい」とあります。

 いきなり上機嫌な話題から入ってしまいましたが、本書は津軽三味線の奏者、2代目高橋竹山と東日本大震災後の東北の被災地を、地元の民謡をうたいながらともに旅した記録です。詩人である著者は、東日本大震災の犠牲となった夥しい数の死者の霊のことを考えていました。死者の魂を招き寄せ、その土地に生きる人々の言葉で惨禍を語り、死者の霊を鎮魂するための新たな語り物は作れないか、という思いを膨らませていたのです。
 
〈「竹山さん、一緒に東北へ門付け芸に行きましょう」とわたしが思わず言ったのは、そういう願いがあったからだった。東北の被災者たちそれぞれが体験し、いまも体験している凄まじい、想像を絶する物語を聞いて、その言葉を編みながら、津軽三味線の新しい語り物を作る。それをやりたい、何年かかってもいいから作りたい、と思ったのだった。二代目竹山は、すぐさま応じた。「いつ、行く? わたしはいつでもいいよ!」〉(「瓦礫の下から唄が聴こえる」、佐々木幹郎「同題エッセイ集」所収、みすず書房)
 
 初代高橋竹山とは、1973年(昭和48年)に渋谷の小さなライブハウス「ジァン・ジァン」で始まった定期演奏会が、大きなブームを呼んだ津軽三味線のカリスマ演奏家です。当時、衝撃を受けた若者の一人に、20代の著者もいました。「ピンク・フロイドを好きだったわたしが、何の違和感もなく、民俗音楽としてではなく、民謡でもなく、現代の音楽として、竹山の津軽三味線」を聴き、目を開かれたといいます。

 2歳の時に麻疹をこじらせて半盲目となった初代竹山は、世間からは「ホイド(乞食)」といやしめられながら、「ボサマ(盲目の三味線弾き)」として門付け芸をしながら東北一帯を歩きました。そして、埋もれていた津軽民謡を掘り起こすとともに、民謡の伴奏楽器=「唄の付き物」とされてきた津軽三味線の常識を覆し、現在のように、三味線の独奏がメインとなるような変革をもたらしました。「撥で叩きつけるのではなく、悲しみが力となるような、メロディアスな」音楽世界を開拓し、津軽三味線の新しい独奏曲を次々に編み出していったのです。
 

 2代目高橋竹山を私が取材したのは1997年春――1月に2代目を襲名した直後でした。東京江戸川区の寿司屋に生まれた三味線好きの女の子が、17歳の時に初代のレコードを聴いて、「どうしてもこの人の弟子になりたい」と思い詰めました。何度も断られたにもかかわらず、「何かうたってごらん」と言われてうたった「鯵ヶ沢甚句」で認められ、18歳の時から6年間の内弟子生活が始まります。1979年に自立。その後も師匠とともに国内外で演奏活動を続け、初代がなくなる1年前に2代目竹山を襲名したのです。
 

 印象的だったのは、彼女がロングドレスにハイヒール姿で舞台に立つことでした。初代はもちろん和服でしたが、その師が繰り返したのは「今の人は今の服を着ろ」という言葉。舞台衣装の話にとどまらず、伝統の世界をただ踏襲するのではなく、「今」の音を響かせよ、という初代らしい前衛精神の教えだと2代目は理解していました。

 さて、詩人と2代目高橋竹山による東北への旅の目的は、新しい津軽三味線による「口説き節」(語り物)を作りたいということでした。初代高橋竹山によれば、津軽三味線の「口説き節」の源流は「琵琶語り」だとのこと。
 
〈琵琶の語り物で有名なのは『平家物語』だが、このような語り物が日本に生まれたのは、無数の死者の霊がこの国に浮かんだときであった。源平合戦の死者。そして数々の疫病(祟りと呼ばれた)や飢饉による死者。それらを鎮魂するためにも数々の語り物は生まれた。盲目の琵琶法師たちがそれを伝えた。文字など知らない庶民には、琵琶とともに演奏される口語りの物語こそが圧倒的な力になった〉(同)
 
 旅の始まりは2011年の9月末。秋の稲穂が東北自動車道の周囲に黄色い波を打ち、緑の樹木がゆっくりと紅葉に向かっている季節でした。けれども、かつてのように、この風景を抱きしめることはできません。この地に降り注いだ放射能のことを思い、震災の犠牲となった人々の霊について考えをめぐらせながら、釜石、大船渡、陸前高田といった町の仮設住宅や公民館をまわります。竹山さんが津軽三味線の独奏と民謡を披露し、著者が竹山さんの伴奏で詩を朗読するイベントでした。
 

 そんな平成の「門付け芸」の前後には、各地で被災した人たちの物語に耳を傾けました。大船渡のライブの後で聞いた地元女性の話が最初に出てきます。津波のさなか、仕事先から慌てて自宅に戻ろうとしていました。惨状がいやでも目に入ってくる道中、「許してください。今日だけわたしは悪い人になってます。すみません」と神様に謝りながら、ひたすら家をめざして急ぎます。その時、たしかに聴いたというのです。
 
〈唄うたってる声が聴こえてきましたよ。
 潰れた家の下から。
 でも、わたしはそっちのほう見ませんでした。
 見ませんでした。声だけ聴きながら。いま思えば、それは民謡じゃなかったかな、と思ったんですよ。
 八戸小唄だったと思いますよ。……
 助けを求めていたんではなかろうかなと思いました。
 見ませんでした。つらかったです。かなしかったです。
 泣き泣き歩きました、山を〉
 
 思いがけない“歴史”との出会いもありました。1933年(昭和8年)3月3日、三陸沖大地震の津波の際、岩手県九戸郡野田村の旅館に泊まっていた「目のめーさんない」初代高橋竹山の背を押して、夜道を高台まで避難させてくれた地元女性の証言テープです。方言のままの記録と、共通語による翻訳版とが併記されていて、まるで唄が聞こえてくるようです。
 
〈東日本大震災が起こったとき、わたしが一番欲したのは、東北の声を聴くことだった。濃密な東北弁の声を聴きたかった。文字ではあらわすことのできない、生活のニュアンスがつまった方言で、地震と津波で失われたものが何であるのか、これから何十年にもわたって続く放射能汚染の恐怖と、したたかに向き合うための、ことばを探した。求めているのは文字ではなかった。あくまで、本能的に声を探していた〉
 
 牛の話も登場します。「牛方節(南部牛追唄)」につらなる「野田の撫で牛(ベコ)」という伝説です。200年ほど前の夏の盛り、盛岡の寺の境内に、一頭の背赤の牛がフラフラになって逃げこんできます。追いかけてきた牛方が怒り狂って折檻しようとしています。事情を聞くと、この牛が暑さのために衰弱してしまい、牛方の言うことを聞かず、川に入って身を横たえた。すると、他の牛たちもその真似をしたために、背に乗せて運んできた塩がすべて水に溶けて流れたというのです。怒り狂う牛方を和尚がなだめて説教すると、牛方もようやく反省しますが、牛は境内にうずくまったまま息を引き取りました。牛方はその供養のために、うずくまった姿に似せた南部鉄製の牛を寄進し、以来「撫で牛」が「塩の道」のシンボルになった、というのです。
 
〈東日本大震災のあと、福島第一原発による放射能汚染で、三陸地方の牛たちの多くは殺された。強制避難地区の牛たちは、牛小屋につながれたまま、飢餓で死んだ。いま、「牛方節」を聴くとき、わたしたちは東北の牛たちと人々との長い歴史を思う。牛には何の罪もない。新しい「撫で牛」が生まれるべきときなのかもしれない〉
 
 この地域ならではの信仰、生活に根ざした祈りについて、ふと考えさせられる話が続きます。

 さて実は、本書を米子までの日帰り出張に携えて出かけました。何げなくそうしたまでだったのですが、帰りに羽田空港に降り立った瞬間にハッとしました。たまたま数日前に読んだ、著者の3月9日のツイッターにこう書かれていたからです。
 
〈羽田・弁天橋。かつて、この橋は狭く、赤い鳥居はもっと遠くの空港側にあった。ここで一人の無名の若者が、戦争に反対するデモのなかで死んだ。1967年10月8日の死者。47年後の3月8日、死者と同期だった友人たちと一緒に、この橋を訪ねた〉

〈羽田・弁天橋のたもとに白い机があった。わたしたちはその机を囲んで坐り、花束を置いた。3年後の50周年をめざして「10・8山崎博昭プロジェクト」が始動した瞬間。ここから何が生まれるのか、まったく未知数だが〉
 

 
 この事件があった当時、私は中学生でした。佐藤栄作首相のベトナム訪問阻止を叫ぶデモ隊と機動隊が弁天橋において衝突し、京大生・山崎博昭さんが亡くなりました。学生運動における死は、60年安保闘争の樺美智子さん以来であり、「10・8(ジッパチ)」は衝撃とともに記憶に刻まれました。たまたま従兄弟が、この亡くなった山崎さんとは高校、大学と同級生だった関係もあり、個人的にも忘れることができない出来事です。著者もまた、かつて「声をかぎりに/橋を渡れ/橋を渡れ」(「橋上の声」、詩集『死者の鞭』所収、構造社、絶版)と書いた「死者と同期」の一人です。

 47年後もこの死者の魂と言葉をかわしている姿に、改めて胸を衝かれたのです。そこにいない「若者」に呼びかける人の姿と、瓦礫の下から聴こえる唄に耳をそばだてている詩人の影が、いつの間にか重なります。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
 
*薈田純一氏の写真を除き、記事中写真は著者提供。
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