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 与那原恵さんのこと
 
 5月16日、第2回河合隼雄物語賞・学芸賞の受賞作が決定しました。物語賞は角田光代さんの『私のなかの彼女』(新潮社)、学芸賞が与那原恵さんの『首里城への坂道――鎌倉芳太郎と近代沖縄の群像』(筑摩書房)です。選評や受賞の言葉は、7月4日発売の「考える人」夏号に掲載されますので、詳しいことはそちらをご覧いただきたいと思います。
 

 京都で開かれた選考会には私もオブザーバーとして参加しました。選考の議論そのものも興味深かったのですが、今回、面白かったのは受賞作決定後の記者会見でちょっとしたハプニングが起こったことでした。こうした場合の通例にしたがい、選考委員の代表――物語賞は上橋菜穂子さん、学芸賞は山極寿一さんが授賞理由を発表したのですが、会見に臨んでいた記者から「せっかくなので」と要望があり、そこに居合わせた他の選考委員からも「ひと言」ずつコメントが披露される運びになったのです。

 30年くらいこうした席に臨んできましたが、脇で傍聴していた選考委員にいきなり発言が振られたのは初めての経験です。異例といえば異例ですが、聞く側としてこれほど興味深い展開はありません。ちなみに、物語賞は他に小川洋子さん、宮部みゆきさん、学芸賞は鷲田清一さん、岩宮恵子さん、中沢新一さんという願ってもない顔ぶれです。贅沢きわまりない「ひと言」を楽しむことができました(*)。

 さて、私は学芸賞のほうの選考に立ち会ったのですが、受賞作が決定したところで、選考委員が協議して授賞理由を以下のようにまとめました。与那原恵さんの作品についてです。
 
〈授賞理由――首里城復活をはじめとする琉球文化再生の立役者である鎌倉芳太郎の寡黙で情熱を内に秘めた人生を物語性豊かに蘇らせた作品。周囲の人々、そして作者の鎌倉への愛にあふれている。河合隼雄を感動させるに違いない一冊〉
 
 鎌倉芳太郎(1898~1983)といっても今日ではほとんど知られていない、地味な存在です。「寡黙で情熱を内に秘めた」とありますが、凄い人だということは聞いていても、どういう来歴の、どういう人柄なのかは不明でした。しかしながら、もし鎌倉芳太郎という人物がいなければ、いま世界遺産に登録され、国内外のたくさんの観光客でにぎわう首里城が、あのような形で復元されることはあり得ませんでした。

 鎌倉は首里城を2度の危機から救ったのです。最初は、明治政府のいわゆる「琉球処分」(1879年)によって琉球王国の流れをくむ「琉球藩」が「沖縄県」となった後、1924年(大正13年)に首里城正殿を取り壊し、そこに神社を建てようという計画が持ち上がった際です。この報を知るや、鎌倉はすばやく反応し、動きを未然に封じたのです。

 2度目は戦後になって、沖縄戦の戦火で焼失した首里城の復元が図られた時です。鎌倉が必死で集め、守り抜いた史料と写真が決定的な役割を果たしました。1992年(平成4年)、復元がなり、「赤く輝く城が青空の下にすがたを見せた」時、鎌倉自身はすでに没していましたが、彼の尽力の上に「琉球文化」の象徴はよみがえることができたのです。

 さらに彼は、琉球美の粋といえる紅型(びんがた・沖縄独自の型絵染め)研究の第一人者であるばかりか、自らも60歳になる頃から紅型の染色を始め、わずか15年で人間国宝に認定された稀有な作家です。「琉球紅型」の復興に全力を尽くすとともに、伝統文化の流れに彼独自の“色”を加えたのです。

 そういう主人公に対して、著者は惜しみない愛情を注ぎます。いとおしむような筆致で彼を、また鎌倉を支えた有名無名の人々を浮き上がらせます。鎌倉芳太郎という「まれびと」に与う限りの助力を惜しまなかった同時代人たちとの濃密な関係は、忘れがたい印象を刻み、深く読者の心を揺さぶります。

 鎌倉自身は沖縄の人ではありません。香川県出身で、1921年(大正10年)に東京美術学校(美校)図画師範科を卒業し、美術教師として赴任したのが沖縄でした。そして首里の座間味(ざまみ)家に下宿し、そこの「あやあ」(お母さま)のツルから首里言葉を学んだことが、彼を一級のフィールドワーカーの位置に押し上げました。微妙な感情表現、しぐさをふくんだ優美な首里言葉を吸収することで、琉球王国の伝統と精髄がごく自然に鎌倉のからだに浸透したのです。

 晩年の鎌倉は、「結局、私は本土からの旅人」との自己認識に至ったようですが、「彼はだれよりも深く、ひろく、琉球と対話をした旅人だ」と、著者は最大級の賛辞を捧げています。いまからおよそ90年前、23歳の新米教師として、首里の丘にそびえる城への坂道を毎日歩いたのが鎌倉でした。その彼が歩いた道をたどりながら、同じように坂道をのぼり、着実に筆を進めたのが著者です。そして、それは鎌倉の足どりを追いかける旅であるとともに、著者自身の家族の記憶をたどる旅とも重なります。
 
〈鎌倉芳太郎をはじめて知ったのは、一九七二年、沖縄の「本土復帰」の年にサントリー美術館で開催された「50年前の沖縄」展を父といっしょに観にいったときだ。首里城、円覚寺の山門、赤瓦がつらなる首里の町並み――。大きなパネルに引き伸ばされ、白と黒のコントラストがきわだつ圧倒的な写真。南国の湿気や匂いまでも感じられるような写真を父は一点一点じいっと見つめ、言葉を発することもできずにいるようだった。かつて彼の身近にあった風景のなかに、じぶんやしたしい人が写っているのではないかと探しているようにも思えた〉(『首里城への坂道』あとがき)
 
 著者が両親のふるさとである沖縄を初めて訪れたのは、1971年(昭和46年)の夏、中学1年生の時です。その年の春に、52歳で亡くなった母親の墓参りが目的でした。「ものごころついたときから、両親に日本とは違う歴史と文化を持つ『沖縄』を祖先の物語とともに教え込まれていた」(『美麗島まで』、文藝春秋)という著者ですが、「沖縄を初めて訪れて、私は沖縄人であることを明確に意識するようになった」(同)といいます。

 その5年後に父親が他界し、著者は19歳の時から沖縄への旅を繰り返すようになります。大正末期から昭和初期にかけて、20代から30代の鎌倉が精力的にフィールドワークした島々をくまなく歩いたといいますから、本書はずいぶん以前から、無意識のうちに準備され、ゆっくりと熟成された幾重もの物語が縒り合わさって生まれた「大きな物語」だということもできるでしょう。

 かねてから与那原さんの著作には親しんできましたが、今回の受賞が決まった後で、『わたぶんぶん わたしの「料理沖縄物語」』(西田書店)を読み返しました。

「わたぶんぶん」とは、沖縄の言葉で「おなかいっぱい」の意味だとか。副題にある『料理沖縄物語』とは、エッセイストとして活躍し、とりわけ食や衣、演劇についての名文で知られる古波蔵保好(こはぐらほこう)さんの書名から取られています。母方の大伯父にあたり、「たくさんのものをわたしにのこしてくれた」という、著者にとっては格別の存在です。

 瀟洒なつくりのエッセイ集で、料理にまつわるいろいろな記憶を通して、もうこの世にはいない人、会えない人、いつかまた会いたい人たちのしぐさや表情、言葉を鮮やかによみがえらせた1冊です。両親のこと、古波蔵さんのこと、母方の祖父やその弟で詩人・山之口貘との交流で知られる画家の南風原朝光(はえばるちょうこう)のことなど、かけがえのない人たちが次々と現れます。
 

 そして個人的に、いつも与那原さんに感謝したいのは、彼女の文章の力でいまだにあたたかく心の中でよみがえる、新宿・成子坂下の沖縄料理店「壺屋」のおばちゃんの思い出です。
 
〈はじめてその店をおとずれたのはわたしが二十代なかばのころだから、おばちゃんは六十代なかばだっただろう。東京に沖縄料理店はかぞえるほどしかなく、壺屋のことを知って姉とのぞいてみたのだ。八人も座れば満杯という店だった。小柄でちょっとふとめ。真っ白いかっぽう着。髪はガチガチのパーマをかけて、無愛想なおばちゃんがいた。店はお世辞にもきれいとはいえず、壁に飾ってある真っ赤な沖縄の花を描いた油絵の汚れぐあいが店の年月をしのばせた。……
 おねがいした豆腐チャンプルーをたべておどろいた。すごくおいしい。豆腐はしっかり炒りつけてあるし、あぶらの甘みがほのかにあって、さっぱりした味つけ。おいしいです、といってもおばちゃんはウンというだけ〉
 
 光景がありありと浮かびます。私自身が初めて行ったのは、1978年(昭和53年)春、大学でもらった卒業証書を片手に、友人に案内されたのが「壺屋」でした。たしかに無愛想で、口ぐせは「バカヤロ」。客であっても態度が悪いと「お前、出て行け」と追い返される。沖縄通を気取った軽薄才子はフンと鼻で笑われる。その実、とてもロマンチストで、初対面の人とはどう口をきいたらいいか分からない「極度のハジカサー(恥ずかしがり屋)」。

 店の入口には「本日休み」の札が出ていて、理由を聞けば「だって、ひとりのときに知らないひとが入ってきたらこわいよ」と。つまり、ここは店主の個性をしたって集まる“少数精鋭”の常連に守られた「不可思議な」(これもおばちゃんの口ぐせ)空間でした。

 初めて行った日、与那原さんらの顔を見たおばちゃんは、あんたたち沖縄の子なの? と聞きました。そう、自分たちは東京生まれだけど、両親は沖縄出身、と答えると、「お父さんとお母さんの名前はなんというの?」と尋ねます。戦前から東京に暮しているおばちゃんは、昔からの沖縄出身者をたいてい知っているらしいのです。
 
〈父の名をいって、母は南風原里々(はえばるりり)というのですけど、両親ともずいぶん前に死にました…と話したとたん。
 おばちゃんは「あんた、里々ちゃんの娘なの」とものすごく大きな声でいって、こちらがびっくりしてしまった。さらにカウンターにあった徳用マッチを箱ごと投げつけて、そのあとウェーンと泣き出したのだ。どうしたの、母のこと知っているのですかと聞いても、ウェーンと泣いたまま。そしてやおら顔をあげて「コップにビールをつぎなさい」〉
 
 こんな衝撃的な出会いから壺屋の常連となった著者の描くおばちゃんの姿は、本当に生彩に富んでいます。口ぶりもそのまま、料理の味も懐かしく、おばちゃんが興にのって唄をうたう(お世辞にもうまくないのですが)夜のざわめきもありありと伝わってきます。そのおばちゃんが病を得、ついに店じまいをする最後の日まで通っていたのも与那原さんです。そうそう、突然「ボルネオに行きたい」と言い出したおばちゃんの旅行に付き添ったのも与那原さんでした。

 ある時期から、仕事の忙しさにかまけてすっかり足が遠のいてしまった私自身は、友人から漏れ聞く話をのぞけば、著者の文章によっておばちゃんの晩年の様子を想像するばかりです。おばちゃんは、『わたぶんぶん』の中でもトップと中盤とラストの要所をしっかり占めていて、本書の主役のひとりです。本名は大嶺ヨシ子さん。彼女が保ち続けた品格、大切にしていた誇りを、著者のように細やかに、あたたかにすくい取ってくれた人がいたことにいつも感動を覚えます。

 決してセンチメンタルにはならず、あのおばちゃんの躍動感も、可笑しさも、そして切なさ、哀しみ、怒りまでを、しっかり受け止めていたのが著者でした。「わたしが死んだら骨は沖縄の海に流してくれないかな」という希望通りにはいきませんでしたが、壺屋でもらったカラカラ(酒器)をひとつ、波照間(はてるま)島へ向かう船上から、著者は海に「ぽーんと投げた」といいます。
 
〈カラカラが沈んだ場所がしだいに遠ざかる。わたしのまえには青い海がひろがり、船は波間をすすんでゆく。陽がかげるまで、あとどれくらいの時間があるのだろう〉
 
 まだまだ続く著者のこれからの旅が楽しみです。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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