Kangaeruhito HTML Mail Magazine 590
 
 暮しは低く思いは高く
 
 ながい間、お世話になった先輩編集者が、5月30日、84歳で亡くなりました。総合雑誌がもっとも輝いていた時代に編集者として活躍し、変転する戦後の時代思潮に対してつねに批評的な問いを投げかけながら、多くの筆者を励まし、世に送り出した粕谷一希(かすやかずき)さんです。
 

 
〈1955年に中央公論社に入社。「中央公論」編集者だった60年代、国際政治学者の高坂正堯(こうさかまさたか)を論壇デビューさせたほか、政治学者の萩原延寿(のぶとし)、永井陽之助、劇作家の山崎正和さんらの論文を積極掲載し、左翼全盛の論壇に現実主義的路線を打ち立てた。66年にはイタリアで塩野七生さんと出会い、「ルネサンスの女たち」の執筆を勧めて作家デビューへ導いた。
 78年に中央公論社を退社した後は、雑誌「東京人」「外交フォーラム」の編集長を歴任。学術とジャーナリズムを結ぶサントリー学芸賞には79年の創設から関わり、新進の論客発掘に努めた〉(読売新聞、2014年5月31日朝刊)
 
 1930年(昭和5年)に東京で生まれ、15歳で敗戦を迎えました。「このとき、自分の中に確かなものを持っていなければならない、と確信した。『自分が納得するまで、自分で自分の考え方をはっきりつかむまで、人の言うことを安易に鵜呑みにはすまい』と自らに誓ったのである」と語っています(『作家が死ぬと時代が変わる――戦後日本と雑誌ジャーナリズム』日本経済新聞社、2006年)。

 また、この語り下ろしの回想録が刊行された直後のインタビューでは、次のような発言もしています。
 
〈戦争中の新聞や軍人の言うことはでたらめ極まりなかったけど、占領軍及びそれに同調する連中の言う事が簡単に信じられるのかということですよね。時代の風潮の中で使われる言葉というのはインチキ臭いんですよね。だからといって、デモクラシーが悪いというわけじゃない。ただ、デモクラシーであれば人間の社会は万々歳かというとそうでもなくて、ある若い世代に保田與重郎が好きな人間がいて、「戦後の教育はデモクラシーということだけ教えたけど、人間の高貴さについては教えてくれなかった。保田與重郎の書いたものにはそれに対する答えがある」と言うんですね〉(週刊読書人、2006年12月1日)
 
 保田與重郎を知らない世代がほとんどのいまでは、この発言のニュアンスは伝わりにくいと思います。言葉を換えれば、古来の日本人の根幹をなしてきた美徳――人間の誇りや品格、公に対する倫理感などをシンボリックに語ったものです。つまり、戦前・戦中を支配したファナティックな主張に対してはリベラリズムの寛容さを、また戦後ジャーナリズムでもてはやされた進歩的言辞や言論人に対しては根源的な違和感、懐疑を呈するところに、氏の思想的な営み、人生を貫くバックボーンがありました。

 とまれ、粕谷さんのなし遂げた業績や人となりについては、いまから現れるであろう他の追悼文に譲ることにして、ここでは個人的に、ささやかな思い出を述べて、「総合的な知」を夢見た一人の先輩を偲びたいと思います。

 そもそも、この人のコラムを読まなければ、雑誌の編集者なるものに興味を抱いたのかどうか、というような“衝撃”がありました。家庭教師のアルバイト先で、その家のご主人が見せてくれた創刊間もない1冊の雑誌。たまたまそこで目にした見開き2ページのコラムが、粕谷さんとの出会いでした。

 見知らぬ筆者の肩書きは「中央公論編集長」とあり、そのコラムが毎号待ち遠しくなりました。めったに手にすることのなかった総合雑誌の編集長が、どういう目配りで世の中を捉えているのか。哲学、歴史、文学から社会科学全般まで、どういった関心領域を持ち、日々どういう人たちと接しながら、情報を選択的に構成しているのか――「状況'75」と題する「時代精神」のスケッチを通じて、雑誌編集者の知的生活を次第に興味深く感じるようになったのです。

 いま、そのコラムをほぼ40年ぶりに読み返して、まず驚いてしまいます。「状況'75」というのは通しタイトルで、1975年3月号の初回は「地鳴りの中で」という題がついています。「川崎市を中心として関東一円に大地震の警告が発せられている」という書き出しで、「映画『大地震』は満員の盛況である」と続きます。そして、
 
〈地震ほど嫌なものはない。ある程度の予測がついても、われわれはこれまでの日常的な営みをやめるわけにいかない。……軌道修正は難しいのである。しかし災害がやってくれば、われわれの日常性は吹き飛ばされ、列島の亀裂は日本の社会の亀裂となってその回復には膨大なエネルギーと歳月を要するだろう。
 そうしたことを予感しながら、われわれは生きている。いわば足許の大地が絶対安定、安全だという前提を内心では疑いながらも、安定し安全であるかのように振舞っている――〉(「選択」1975年3月号)
 
 小松左京の『日本沈没』(1973年)以来、大規模災害への社会的不安が広がっている時代でしたが、まさか「3・11」を経た2014年に、こんな文章に“再会”するとは思いもしませんでした。論旨はそこから、60年代~70年代の日本、および世界の政治・経済・社会の“地殻変動”を概観します。そして直近の大きな出来事――日米のジャーナリズムが引き金となった2つの政治スキャンダル、すなわち「ワシントン・ポスト」の若手記者2人によるウォーターゲート事件の追及と、「文藝春秋」の「田中角栄研究~その金脈と人脈」による政界の激震に触れながら、時代状況はますます流動化の一途をたどっていると論じます。人は「誰しも見通しのつかない不確実性の中に立っている」と。
 
〈ある賢人は、人間をexpendable hero とprofessional survivorに区分してみせた。賢人は陰に隠れるか逃げ出すことしかないかもしれない。しかしはたして今日のような世の中で逃げ切れるものかどうかは疑わしい。
 もし押し出されて責を負う立場に立たされてしまったらどうしたらよいのか。事態の進展を最後まではっきりと見据えてゆくより方法はあるまい。
“夢もなく、怖れもなく”
とは、遠くルネサンス人の諺に言っていることである〉(同)
 
 ぼんやりとその日その日を過ごしていた大学生には、じゅうぶんに刺激的な文章でした。おとな感覚の人間洞察、悲劇性の予感、そして歴史に対するまなざしがとりわけ新鮮でした。以後、「魔女狩りの群」、「技術的知性の彼方へ」、「ある種の頽廃について」と書き継がれていき、7月号は、流行作家・梶山季之の“憤死”から書き起こされる「高度成長の文化的後遺症」です。
 
〈神技に近い量産と生活の膨張とビッシリ詰ったスケジュール。流行作家、タレント、政治家、経営者、官僚、集団のリーダー、およそこの高度成長期に関与した人々の過去十数年間の生活は、多かれ少なかれ、似たような相貌を帯びてはいなかったろうか。ウナリを立てて廻転してゆく社会はたしかに日本を変えた。経済大国日本は出現した。しかし、達成した価値の裏側で失われた価値は何であったのだろうか〉
 
 こう述べたところで、池田内閣のブレインであった下村治氏の経済哲学(最近また見直されていますが)や、「停滞的英国」への憧憬を語ってやまなかった歴史家・萩原延寿氏のこと、『産業社会の病理』を著した気鋭の社会経済学者・村上泰亮氏の所論に触れた後、次のように記します。
 
〈フロウとストックということがよくいわれる。フロウの膨張で二十日鼠のように回転していたのが、成長期の日本人ではなかったか。知的ストックは、よく耕され、栽培され、発酵させられなければ成熟したものとはならない。……
 私はなぜか、敗戦直後発刊されたアテネ文庫の「生活は貧しくとも志は高く」という発刊の辞をなつかしく思い出す〉
 
 40年前の指摘は、言うまでもなく、そのまま今日のテーマです。粕谷さんの先見性を物語るものなのか、それともこの国の問題解決能力を疑わせる例証なのか(それだけ難しい問題であるのか)はさておき、引用されたフレーズは、言うまでもなく英国の詩人ワーズワースの“plain living , high thinking”です。

 私に初めてこの言葉を教えてくれた人は、「暮しはつましく、思いは高く」と訳していました。アテネ文庫の発刊の辞は、粕谷さんが敬愛してやまなかった西洋史学の鈴木成高(しげたか)さんの手になると言われます。いわゆる京都学派のひとりとして、大東亜戦争を「世界史の哲学」の立場から合理化した戦犯という判定を受け、京都大学を追放された鈴木さんが、戦後、“出版人”として世に送り出したシリーズのひとつがアテネ文庫でした。

 いままですっかり忘れていましたが、粕谷さんと最初に会った頃、このフレーズについて話したのを懐かしく思い出します。そして、なんとも不思議な縁(えにし)を感じるのは、「考える人」の創刊理念もまた、この詩句によっているということです。「シンプルな暮らし、自分の頭で考える力。」――。
 
〈考えてみると、鈴木成高氏は歴史家であり歴史思想家(もしくは歴史哲学者)であっただけでなく、卓越した出版プロデューサーではなかったかという想いが近年になってますます強まっている。それはおそらく京都大学を追われたことも作用したものであろう。……
 ――明日の日本もまた、たとい小さくかつ貧しくとも、高き芸術と深き学問とをもって世界に誇る国たらしめねばならぬ。「暮しは低く思いは高く」のワーヅワースの詩のごとく、最低の生活の中にも最高の精神が宿されていなければならぬ――。
 アテネを範として明日の日本を考えていた鈴木成高氏の悲劇は、今日から眺めるとき、最高のアイロニーの表現となっているが、アテネ文庫を手にした当時の学生たちは、まことにその通りだと考えていたのである〉(「鈴木成高と歴史的世界」、『創文』1998年8月号)
 
 ここに述べられた「卓越した出版プロデュサー」の献辞を、いま粕谷さんにも捧げて、心よりご冥福をお祈りします。合掌。
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
Copyright 2014 SHINCHOSHA (C) All Rights Reserved