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小長谷正明『医学探偵の歴史事件簿』(岩波新書)

 歴史の鍵を握った「疾患」

 今回は肩の凝らない気軽な1冊です。著者は国立病院機構鈴鹿病院の院長をつとめる現役の神経内科医。これまでにも『ヒトラーの震え 毛沢東の摺り足――神経内科からみた20世紀』、『ローマ教皇検死録――ヴァティカンをめぐる医学史』(ともに中公新書)などの著作があり、歴史上の人物と病気の関係や、それに絡んだ興味深いエピソードの数々で、読者を大いに楽しませてくれました。

 その期待がさらに高まったのは、冒頭の一行――いきなり「ロンドンのベーカー街二二一B」が登場して、名探偵シャーロック・ホームズの話で始まるからです。
 
〈ホームズの生みの親コナン・ドイルは眼科医であり、エジンバラ大学での恩師、外科学教授ジョゼフ・ベル博士をモデルに、鋭い観察眼のホームズを創出したという。ホームズは、それまでの犯罪捜査が捜査官の思い込みや自白の偏重になりがちだったのを、事実に基づいた科学的手法と推理によって事件を解決に導いていった。
  
 本書は、書物の渉猟や街並みの徘徊でふと心に留まった歴史上のエピソードを、医学の目を通して見た二六篇の事件簿である。ホームズのように先入観を避け、事実に基づいたなるべく新しい研究をもとに、ポワロのように灰色の脳細胞を働かせて考えてみた。紹介するエピソードは、古代エジプトや記紀の時代から現代世界までにわたる〉
 
 著者の関心をとらえた26の歴史的事件は、5つのカテゴリーに分類されます。ひとつは20世紀後半の政治家たちについて、次には近代日本の歴史に関わる医学的な事件について、3つ目は医学の発展に貢献したナイチンゲールやキュリー夫人などの紹介、そしてルイ17世ら王様たちのメディカル・ヒストリー、最後の5つ目がツタン・カーメン、倭建命(やまとたけるのみこと)、ジャンヌ・ダルクといった人々の「いにしえの病を推理する」という構成です。

 1980年、史上最年長の69歳で第40代の米国大統領に当選したロナルド・レーガンは、在任中からしばしば健康問題を取りざたされました。就任3ヵ月後に銃撃され、「心臓直近に達した銃弾の摘出術」を受けたことに始まり、85年に大腸がん摘出術、87年には前立腺肥大のための摘出術、また鼻の皮膚がんの切除も受けています。それでも89年1月までの2期8年間、国民に愛されながら任期を全(まっと)うしましたが、その半年後に落馬して頭部を強打。晩年の氏を襲ったのは、アルツハイマー病でした。

 1992年には物忘れが病的になり、94年2月、83歳の誕生パーティがワシントンで催された際は、病状はかなり進行していました。けれども、「その晩の、サッチャー元英国首相をはじめ二五〇〇人もが集まったパーティでは、いざ演説を始めるとスイッチが入ったかのように澱みなくスピーチを行った。しかし、パーティが終わるとまた元のボーッとした状態に戻ってしまった」といわれます。

 その秋、アルツハイマー病と診断された大統領は、11月5日、国民にあてた手紙という形で病状を公開し、世界を驚かせました。そして自分はこの診断を受け入れ、余生を家族とともに過ごしたいと伝え、ナンシー夫人へのいたわりをにじませながら、自分を大統領として迎えてくれたアメリカ国民への感謝を述べ、最後をこう結びました。「今、私は人生の日没への旅を辿りはじめようとしています。私は、アメリカには、その先にはいつも明るい夜明けがくることがわかっています」。

「いかにもガンマンが夕陽に向かって去っていくような、西部劇風のヒロイズム」を漂わせていますが、在職中の2期目にはすでに「軽度認知障害(MCI)」が始まっていたという証言もあります。それについて、著者はこう見立てます。
 
〈案外、物事を深く考えなくなったことが幸いして、レーガンはぶれることなくソビエト連邦を「悪の帝国」呼ばわりし、ひとたび好感を持ったならばゴルバチョフをホワイトハウスの政権内でただ一人応援し、冷戦に勝利していったのかもしれない。とすれば、軽度認知障害が、彼にヒロイックな勝利感をもたらしたことになる〉
 
 対照的にヒトラーのパーキンソン病のもたらした害悪ははかりしれません。また、人一倍猜疑心の強かったスターリンが、年齢を重ねるにしたがってその歯止めを失った結果、粛清の嵐が吹き荒れました。こうなると医師も命がけです。彼を「パラノイアの疑い」と診断した精神科医が直後に「謎の死」を遂げたのはもちろんのこと、医師たちは次々と「スパイ」や「意図的な誤診」の咎(とが)で獄につながれます。

 挙句が、1953年3月初めの出来事です。収監中の医師のひとりに尋問官が尋ねます。「要人の一人が卒中で倒れているが、君なら誰を専門家として推薦するか?」――医師は思いつく7、8人の名を挙げますが、全員が囚われの身でした。
 
〈その卒中の要人はスターリンだった。三月二日に別荘の居室で、右片麻痺と発語不能状態で発見された。娘、スベトラーナはそこで見たことを回想録に記している。「父が臥せっていた大広間には、大勢の人がつめかけていた。この患者を見るのがはじめてという医師たちがてんてこ舞いのさわぎを演じていた。」治療に当たるべき主治医は投獄されており、にわかに招集された医者たちが、ヒルに吸血させ、酸素吸入をし、ハッカとカフェインを飲ませたという。多少とも治療らしかったのは、肺炎に用いたペニシリンくらいだった。三月五日にスターリンは七四歳で死亡し、剖検で左の大脳出血が確認された〉
 
 逆に、1930年(昭和5年)に東京駅で狙撃された浜口雄幸首相の命を救い、1936年(昭和11年)2月26日未明、陸軍の青年将校に4発の凶弾を浴びた鈴木貫太郎侍従長(予備役海軍大将)を救出した塩田広重博士の功績ははかりしれません。「二・二六の死に損ない」による、後の鈴木貫太郎内閣を担保し、日本を内乱状態でなく、戦争終結に導いたという文脈です。

 また興味深かったのは、終戦時に「徹底抗戦」、「聖戦完遂」を叫んで“独自行動”に走ろうとした厚木基地をめぐる逸話です。著者の父君小長谷睦治(むつはる)氏は、この時、海軍航空部隊の主力である第三航空艦隊参謀で、その役目がら、この「反乱事件」の対応にあたりました。ところが、この反乱の首謀者である厚木基地の海軍大佐が、実はその前に南方戦線でマラリアに感染しており、8月18日、40度を超す高熱を発します。そして20日、高熱で錯乱状態になったところを強制的に海軍病院に収容し、これによって反乱は回避されるのです。

 28日、米軍の第一陣が厚木に進駐したとき、それを最初に迎えた日本軍将校は、着陸した米軍機の一番近くにいた父君であった(それが軍歴の最後のページを飾った)という偶然も生まれます。

 それにしても、アメリカ軍が南方戦線で各地の蚊を採集してマラリア媒介の可能性を調査し、抗マラリア薬の準備も怠りなかったのに対して、防疫態勢においても兵士の健康管理においても、日本軍は格段に劣っていました。
 
〈この戦争では二三〇万人の日本兵が亡くなったが、戦闘による直接的な戦死者数よりは、戦病死者数のほうが多く、南方ではマラリア罹患による体力消耗のため、戦闘不能の兵士が続出し、逃亡過程での餓死につながったと言われている。
 例えば、南太平洋のソロモン諸島に投入された兵員三万二〇〇〇人のうち、八五〇〇人が戦死し、餓死と病死が一万二三〇〇人、そのうち四〇〇〇人がマラリアと言われている。……上陸した米兵が目にしたのは塹壕の中で高熱で震えている日本兵であったとも言う〉
 
 近親者の秘話として、もうひとつ興味深かったのは、昭和天皇に侍従長として仕えた著者の叔父上、山本悟氏の証言です。もともとは自治省の官僚で、“表”の宮内庁から“奥”の侍従職トップへの異動は、「本人のみならず、親類縁者みな驚いた」という人事でした。前年の昭和62年9月、天皇陛下が宮内庁病院に入院され、東大の医師によって「腫瘤形成性慢性膵炎」という非常に珍しい病名の手術をされて約半年後のことでした。

 以後、陛下の再入院、崩御、大葬、そして新帝即位の大礼、大嘗会(だいじょうさい)など、昭和平成2代の天皇のお側に仕え、平成8年暮に退官の日を迎えます。「宮内官は黙して語らず」をモットーに、寡黙な精勤ぶりを貫きましたが、それでも、著者が聞き出したひと言ひと言は味わい深く、上質のユーモアを湛えています。
 
〈何が大変だったかって? お上は神様みたいな方だから、いや神様だから、われわれのように痛いの苦しいのとおっしゃらない。そばからうかがっていて苦しいのにちがいないと思うのだが、口にされない。自分のそういうことを口にされないように教育されてお育ちになったのだ。だから、お上の症状がわからなくて困った〉

〈おととしの手術でまず驚いたのは、神武天皇以来、玉体にメスが入ったことはないという話だった。次に驚いたのは、大学のドクターの口が軽かったことだ。マスコミを避けて宮内庁病院に入院したのに、ベラベラしゃべっている。医者の守秘義務はどうなっている? 陛下は、ご本人の知らない所見や検査の予定などが報道されていると、かなりご不満だった〉
 
 ……こういった「歴史事件簿」が次々と紹介されるのですから、興味は尽きません。さらに詳しくは、本書で確認していただきたいと思います。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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