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アン・ファディマン『本の愉しみ、書棚の悩み』(草思社)

 私の本棚、あなたの本棚

 いま私たちが親しんでいる「文庫本」の起源を探ると、500年以上前のイタリア・ヴェネツィアに辿りつきます。グーテンベルクの活版印刷術が発明されてから約半世紀後。なぜ「海の都」ヴェネツィアに、片手に乗せられるサイズの美しい小型本が生まれたのか――その誕生秘話を書いて下さった(「考える人」2014年夏号、特集「文庫――小さな本の大きな世界」)、ミラノ在住のエッセイスト内田洋子さんからメールをいただきました。特集の感想が述べられた後に、こんな文章がありました。
 
〈イタリアには就学前の子供たちのために、一流の画家たちが絵を描いた絵本シリーズがあります。開いた絵本の上で、幼い子供たちが昼寝できるくらい大型の本。
 ページは、そういう子供の力でも簡単にちぎれるようになっています。
「本は大切なものなのに」と憤慨した私が言うと、
「すばらしい絵に興奮して、自分のものにしようと無意識に引きちぎる。するとバリバリと楽しい音がする。紙があっての本であり、本があってこそ楽しい音がする。そういう毎日が待っていることを、子供たちに知ってもらいたい」
 そのような返事を出版社の社長はしたのです。
 何年か経って友人宅で、本文が引きちぎられてなくなり、表紙だけが残ったその大型絵本を見たときに、それをゴミと思わずに本棚に取っておく親も大変な人だ、と感心しました〉
 
 本は大切なもの。しかし、付き合い方はさまざまで、こうしなければならない、という厳格な決まりがあるわけではありません……。内田さんのメールを読みながら、思い出したのが本書です。引用が続きますが、ご辛抱下さい。
 
〈生まれて八ヵ月のころ、息子は本当に本をむさぼっていたといえる。本を与えると、それをかむのだ。『おやすみなさい、おつきさま』のそりかえったページには、ヘンリーのDNAが埋めこまれている。三ページ目と八ページ目の角がちぎれているところを見ると、ヘンリーのなかにも『おやすみなさい、おつきさま』の一部が、永久に組みこまれたと思われる。むろん本を食べた子供はヘンリーだけではない。フィラデルフィアの偉大な書籍商、A・S・W・ローゼンバックは、『不思議の国のアリス』の初版本の数がすくないのは、その多くが食べられてしまったからではないかと推測している〉
 
 今回取り上げるのは、こんな愉快なエピソードが満載された、本と読書をめぐるエッセイ集です。ちなみに、幼くして「本をかじる」ことにめざめたヘンリーは、1歳半になると実際にページを食べることからは卒業して、おいしそうなものの絵を見ると、それをページからもぎとって、むしゃむしゃ食べるまねをしたそうです。

 母親である著者自身、4歳のときに、父親所有のポケットサイズの全集でよくお城をつくったといいます。「兄とわたしは積み木ももっていたが……本のほうがずっとぐあいがよかった。濃いダークブルーで、子供の手にぴったりの大きさだったし、たての長さに比べてさほど厚みがないので、トランプと同じように門やはね橋をつくるのに最適なのだ。……子供が本を積みかさね、逆さにし、ならべかえて、本に指紋をいっぱいつけるのにまかせるのは、子供を本になじませる最上の方法だと思う」。

 著者も夫も作家同士という夫婦ですから、もちろんそろって無類の愛書家です。ただ、それは職業的というよりも、「楽しむため」に本を手にした(積み木遊びに本を使った)子ども時代以来の本好きです。

「長年つきあってきた本、わが子の肌のようにその手ざわりや色やにおいになじんだ古い本とのかかわり」を大切にする著者は、どの本にも言い知れぬ愛着があり、それらを読んだ時からいまにいたる“本という人生”を丸ごと抱きしめようとしています。

 さて、ひと口に愛書家といいますが、その愛し方にはおおよそ2通りある、と著者は語ります。

 ひとつには騎士道的恋愛の信奉者。つまり、本そのものが、彼らにとってはこの上なく神聖で、叶うことなら「本を書店で買ったときのまま」に保つのが理想です。いわば宝物に対するプラトニック・ラブ――。ですから、傍線を引いたり、書き込みをして空白を汚すとか、読みかけの本を伏せておいて“本の背”を折るなどは、本を粗略に扱い、冒涜する行為に他なりません。

 一方、「本に書かれていることは神聖だが、本をかたちづくっている紙や布、厚紙、糊、糸、インクなどは、それらのことばをいれる容器にすぎない」という考えの愛書家もいて、彼らはその時々の気分と必要に応じて本を愛します。肉欲的な恋愛の実践者だ、と著者はいい、彼女の一家は明らかにこの系統に属しているのです。

 父親は、「飛行機のなかで読むペーパーバックをすこしでも軽くするため、読み終わった章は破りとってくずかごに捨ててしまう」。夫も「サウナのなかで本を読むので、熱ではがれたページが、強風に散る花びらのようにぱらぱら落ちる」。あるいは、歴史上の人物で言えば、アメリカ合衆国の建国の父であるトマス・ジェファーソンは、1572年に出版されたギリシャ語によるプルタークの作品集に英語の翻訳をさしはさむため、その貴重な初版本をばらばらにした……。

 また著者の知り合いの書評家は、旅先のユカタン半島で興味をひくような虫がとまるたびに、読みかけの『エドガー・アラン・ポー――小説と詩』の本をぱたんと閉じました。「どっさり昆虫がたまったので、ポーが税関をとおしてもらえないのではと心配した」そうですが、幸いそれは杞憂に終わったとか。本を読んだ痕跡は、傍線や書き込みだけとは限りません。
 
〈騎士道的恋愛主義者は、本というものは読むことしか許されないと思いこんでいる。なんともったいない。くさびやドアストッパー、糊づけしたり丸まった敷物を平らにするときの重しとして、彼らは何を使うのだろう? ……美術史家の友人は十代のころ、愛読していた『ダウレアのギリシャ神話』をドラムパッドにみたてて、レッドツェッペリンのパーカッションのリフを練習したそうだ〉
 
 騎士道的恋愛主義者からすれば目をむくような、許しがたい暴挙ばかりです。「装丁が色あせることをおそれて、日が落ちるまで妻にブラインドを上げさせない」、「気に入った本はすくなくとも二冊買って、一冊はページをめくるというストレスにさらさずにすむようにする」という人たちにとって、本は神聖にして犯すべからざる存在です。
 

 今回の「文庫」特集での座談会(「やっぱり文庫が好き!」)に出席してくださったブックデザイナーの祖父江慎さんが、自分は本を集中して読むのが苦手だったので、「ページをちぎって、それをポケットに折り畳んで入れて、木登りしながら読む」という荒技(あらわざ)を披露してくれましたが、「肉欲的恋愛主義者の困った点は、ばらばらになるまで本を愛してしまうことだ」と著者も認めます。現に、アップダイク『カップルズ』のペーパーバック版は、「十代の終わりに何度となく読み……いまや三つに分かれてしまったのをゴム輪でまとめてある」というのです。

 ところで、ともにプラトニック・ラブでない、という点で一致した夫婦であるにもかかわらず、トラブルの原因もまた本にあります。本の整理法、書棚の作り方となると、性格の違いが浮き彫りになって、話はまた別です。

 結婚して5年間、お互いの蔵書はそれぞれ別の場所で管理してきた二人です。たとえば同じメルヴィルの作品でも、『ビリー・バッド』は著者の管轄でロフトの北にあり、『白鯨』は夫の手元でロフトの南側に、というように12メートルの距離がありました。
 
 
〈わたしたちはこのロフトで結婚式をあげた。ひきはなされたメルヴィルの二作の目の前で。富めるときも貧しいときも、病めるときも健やかなるときも愛しあうことを誓うのは、むずかしくなかった。「他のすべての人から離れる」と誓うことにも、何の問題もなかった。だがお互いの蔵書をまとめ、重複しているものについてはどちらかの本を処分すること、という指示が祈祷書になかったのはさいわいだった。もしあれば、それは先にあげたものよりはるかに重大な誓いだ。そのくだりで結婚式が先にすすまなくなるという、由々しき事態を招きかねなかった〉
 
 それから5年。この2系列の蔵書の整理統合をする合意が生まれます。しかし、世の常として、ことは簡単には進みません。「彼のイングリッシュガーデン風の気ままなやりかたと、わたしのフレンチガーデン風の厳格な整理法とのあいだの、どこで妥協点を見出すかについて」折衝が繰り返されます。著者は主題別に本を分けた上で、文学作品は国別に分けることを主張。さらにイギリスの作品は年代順にして、アメリカのものは作家別にアルファベット順にすることを唱えます。結果として、万事に大雑把な夫の側が、「結婚生活に波風をたてまいという配慮」にもとづき譲歩しますが、「シェイクスピアの戯曲、ちゃんと年代順にならべてよ!」と呼びかけられた時ばかりは、「真剣に離婚を考えた」と語ります。

 大詰めは、ふたりのあいだで重複する本のどちらをとっておくか、という攻防です。白熱した論争は当然のことながら、大汗をかきかき、作業はともかく完了します。分かれていたメルヴィルの本もめでたく結ばれ、蔵書はきちんと整理されました。

 やがて、几帳面な著者のスタイルでまとまっていた書棚が、時とともに「エントロピーと夫という強力な連合軍の力」によって、次第に緩やかなものに推移していきます。けれども、この変化ばかりは、著者も好もしく受け入れます。
 
〈わたしの本と彼の本は、いまやわたしたちの本になった。ふたりは本当に結婚したのだ〉
 
 うるわしき「蔵書の結婚」! 本を読むのはすぐれて孤独な営為だとはいえ、一方でこうした感情の交流を生み出し、人と人をつなぐのもまた本の功徳です。

 両親の書棚の懐かしさ、あるいは曾祖母の持っていた1877年刊の本を読みながら、ひいおばあさんのことを知る喜び、また古本を通して「自分が一冊の本を順に所有していくおおぜいの人間のひとりであるという感覚」にひたる楽しさなど、著者の語り口に共感がこみあげます。

 ところで、内田さんのメールに登場したイタリアの出版社とは、1947年創立のFratelli Fabbri Editori社(ファブリ兄弟出版)です。たくさんの良い教育書、児童書を刊行したイタリアらしい個性のある出版社だったといいますが、今では名前こそ残っているものの、大手新聞社に吸収されて、かつての面白さはなくなったとか。
 

 子どもがちぎりたくなる大型絵本は、「Fiabe Sonore(フィアーベ・ソノーレ)」というシリーズで、「奏でる童話」とでも訳すのでしょうか(大型本は今はもうなくなってしまい、同シリーズの判型はB3変型くらいになりました)。ちなみに、バリバリと本のページを引きちぎって、ついに表紙だけにしたという子は、40歳を過ぎたいまも、本が大好きなオトナだそうです。
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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