Kangaeruhito HTML Mail Magazine 611
 
 豊島で考えたこと
 
 瀬戸内海に浮かぶ香川県の豊島(てしま)を50数年ぶりに訪れました。前回は小学校に上がったばかりの夏休みでした。遠浅の海と白い砂浜、初めて目にする島の生活がものめずらしくて、いまでも断片的な映像が目に浮かんできます。
 

 ところがその後、この島は大変な災難に見舞われます。もう忘れられているのかもしれませんが、1975年に始まったわが国最大の産業廃棄物の不法投棄事件、いわゆる「豊島事件」です。悪辣な業者と、その横暴を容認した香川県を相手どり、住民による25年もの長きにわたる反対闘争が起こります。ようやく県が行政責任を認めて住民に謝罪する、そして廃棄物を島から搬出して隣の直島の処理施設で無害化する、という公害調停が成立したのは、2000年6月のことでした。

 来年で、その調停成立から15年という節目を迎えます。現在、廃棄物の約8割の処理が終わったところですが、完全撤去という最終目標を達成するには、まだ大詰めの正念場が控えています。さらに、マイナスをゼロに戻すだけでなく、そこにプラスの価値を積み上げていくには、新たな発想と行動が求められます。

 今回の島行きは、冒頭に書いたように一種のセンチメンタル・ジャーニーでもありました。小学1年生の夏、知り合いの一家とここで数日間を過ごしました。スイミング・スクールなど何もない時代、年長の子どもたちにまじって、この海で水泳の真似事をしたことが数ヵ月後に運命を分けました。その年の11月23日の勤労感謝の日、遊びに行った大学構内の防火用水池に、過って落ちてしまったのです。

 一人でその周りを走っていた時、水たまりに足を滑らせたらしいのですが、防火用水とはいえ、表面は緑の藻が覆っているような不衛生な泥水のプールでした。もちろん背の届かない深さです。

 運が良かったのは、休日とはいえ、たまたま大学図書館から出てきた学生が、落ちた瞬間を目撃して、すぐに駆けつけてくれたことでした。そして、落ちていた枯枝のようなものを差し出してくれ、それに何とかつかまって助かったらしいのです。詳しいことは分かりません。ともかく落ちた瞬間にパニックになっていたら、そのまま溺れていたことでしょう。そうならなかったのは、夏に豊島に行ったからだ、「泳げる」という変な自信があったから助かった、運がいい、と親たちから何度も聞かされました。

 その後しばらくして、同じような子どもの事件が起きました。今度は運悪く助かりませんでした。以来、周囲には鉄条網が張り巡らされ、やがては池自体が埋め立てられました。ですから、私にとって、豊島は命を助けてもらった、恩義のある島です。それがあろうことか、悪辣な業者と行政の失態によって、とんでもない事件に巻き込まれたのです。1990年11月、兵庫県警がヘリコプターまで動員した大規模な強制捜索を行い、業者を廃棄物処理法違反の容疑で一斉摘発したというニュース映像を東京で見た時は、島の惨状に唖然とするばかりでした。

 今回は、住民運動を率いて闘った安岐正三さんともお会いしました。曽根英二さんの『ゴミが降る島』(日本経済新聞社、1999年)などでお名前はよく存じ上げていました。瀬戸内海国立公園の真ん中で繰り広げられた白昼堂々の“蛮行”に対して、住民側のリーダーとして反対を唱え続けた一人です。

 闘争の大きな岐路は、兵庫県警の摘発を受け、業者に有罪判決が下った後でした。「放置されたままの廃棄物を誰が回収するのか。業者は金がないと言い、香川県は自分たちに法的責任はないと言う。行政の誤りを認めないし、謝罪もしない。陳情、請願を繰り返しても、誰も何もしようとしない。不法投棄事件の時効まで、3年間塩漬けにされました」。

 そして、「もう99.9%ダメだ。このまま時効を迎えるしかない、という時に、頼る先はこの人しかいないと思ったのが、弁護士の中坊公平さんです。“鬼の中坊”と言われた人。私たちは彼を訪ねました。1993年9月25日のことです。時効までもうふた月を切っていた……」

 10月10日、中坊さんが初めて来島した時の様子を、曽根英二さんが取材しています。
 
〈中坊さんはハマチ養殖の安岐正三さんとともに、現場の北斜面を下りる。急な斜面で高さは七メートル以上ある。「こんだけの高さになってるわけや……。すごいね」。下りきった所は幅四メートルほどの堀状になっていて水が溜まっている。産廃の層から出る水が直接海に流出しないよう海べりの簡単な土盛りの土手との間にクッションとなる堀を業者が作っているのだ。
「ほんま臭いニオイしてるね」。豊島を多くの政治家や行政関係者が訪れたが、実際に産廃の斜面を下りたのは、これまで誰一人としていなかった〉(前掲書)
 
 このとき中坊さんは、「安岐さん、俺は64歳のおじいちゃんやで。下りて行くけどよう上がらんから、お前おぶってくれ」と言ったそうです。そして、産廃の山の一番底まで下りた時、こう尋ねたというのです。

「『ところでな。これほんまにお前、撤去できると思うか』。彼が私に聞くわけです。黙っとったですよ。そうしたら、『言え、怒らんから言え』ちゅうわけです。しようがないと思って、『できると思いません』と言いました。すると、『できると思わんことを、何で俺に頼むんや』って物すごい勢いで怒るわけです。『できるとは思わん。だけどわれわれが先祖から引き継いだのは、こんな島と違う。きれいな豊かな島やった。われわれは一所懸命に反対して、阻止しようとした。撤去しようとした。けれども、できなかった。こういうことになった。われわれは多分できんやろう。できんけど、指くわえてじっとしているようなことはしたくない。負けるやろうけど、闘う。一矢たりとも報いたい。一太刀なりとも浴びせて、それを後世に伝えたい。俺たちはできんでも、次の世代のやつがきっと取り返してくれる。そういうことだ』と言いました。すると中坊さんは、『わかった。ところで安岐さん、あなた金ないやろう』と言うわけです。ごっついおっさんですよ。『金ないやろう。あんた知恵ないやろ。あるんはなんや。命だけやないか。命は一つや、平等や。そしたら体張れ。ええか。それが約束や』と言う。『わかりました』と答えました」

 この話を聞きながら、思い出したのは中坊さんが戦った森永ヒ素ミルク中毒事件のエピソードです。後年、「私のまさに青春時代であった」と語り、それが弁護士人生の転機だったという事件。森永乳業徳島工場で作られた「森永ドライミルク」を飲んだ乳幼児の間に、1955年頃から「原因不明の奇病」が発生し始め、やがてこのミルクに有毒なヒ素が混入されていたことが判明したのです。

『中坊公平・私の事件簿』(集英社新書)を読むと、この事件の弁護団長を頼まれた中坊さんは最初二の足を踏んだ、とあります。「勝てる弁護士」として実績を積み、40歳で大阪弁護士会副会長に就任するなど、「一番勢いがあった」その時期に、国や大企業を相手どって闘うようなことになれば、せっかく順風満帆で来た弁護士稼業に差し障りが生まれるのではないか、と。そこで、同じ弁護士であった父親に相談をすると、74歳になる父は43歳の息子に向かって、こう諭したというのです。
 
「情けないことを言うな。お父ちゃんは公平をそんな人間に育てた覚えはないぞ。この事件の被害者は誰や。赤ちゃんやないか。赤ちゃんに対する犯罪に右も左もない。お前は確かに一人で飯を食えるようになった。しかし、今まで人の役に立つことを何かやったか。小さい時から出来が悪かったお前みたいな者でも、人様の役に立つなら喜んでやらしてもらえ」(同)
 
 弁護団長を引き受けた氏が、そこで最初に実践したのは、被害者の家を見てまわることでした。毎週、土日を使って1年間、本格的に被害者の実態を調査しました。すると、“ぼんぼん育ち”の自分がまったく想像もしなかった世界が、そこにあるのを目撃します。
 
〈手足の動かない体を屈め、ベークライト製の皿に注がれたお茶を嘗めるように舌で飲み干して幸せそうに微笑む被害児。近所の子供らに「アホー」と蔑(さげす)まれ、水や砂をかけられても笑っていながら、自分の家に戻るなりわっと母親に泣きすがる被害児。「被害児」といっても、みんな一七歳、一八歳です。そして、そういった子供の世話をする母親たちが、ヒ素が混入されたミルクを製造販売した加害者ではなく、ミルクを飲ませた自分自身をひたすら責め続けるという悲哀。罪なくして罰せられ、地を這うようにして生きる被害者家族の現実はあまりに惨(むご)かったのです〉(同)
 
 こうして全身全霊を傾けてこの事件に取り組んだ中坊さんが、1973年5月31日の第1回口頭弁論で見せた気迫は凄まじいものでした。すべてを暗記し、原稿に一度も目をやることなく、一語も間違えずに終えたという弁論。「四〇分近い弁論を終えた時、裁判官の表情に変化が表れ、この事件の真相を理解しはじめてくれていると実感しました。激しい喜びと感動が込み上げてきたことを昨日のことのように思い出します。私にとって、終生忘れることのできない冒頭陳述です」。

 この事件を機に、自分は「世の中には不条理に泣く人があまりにも多いこと」に目覚め、“公平”という名前のように、「自分個人のためではなく、少しでも公のために何ができるかということを問い直していくのが正しい生き方だと思うようになった」といいます。

 そして徹底した現場主義――。「現場に足を運び、五感を総動員すれば問題の本質が見えてきますし、法律だけに頼らない迫力、説得力が出てきます。(略)事件を繙(ひもと)く本質は法律にあるのではなく現場にあります。現場の中に小宇宙があり、現場に神宿る」と。

 2013年5月3日に中坊さんは亡くなりますが、前年の暮に京都の住まいに呼ばれた安岐さんが最後に言われた言葉も、この人らしいひと言です。「俺は最後にきれいになった豊島が見れない」と涙をボロボロこぼしながら語りかけました。「ええか、お前。見届けてから俺のところへ来い。最後にきれいになったところを見届けてから、俺のところに来て報告せい。ええな、それまで来るな。わかったな」――。

 東京でも、昨年の「偲ぶ会」(7月1日)に続いて、今年も8月25日に「一周忌の集い」が開かれました。ある出席者が言いました。「中坊さんなら、いまの日本の状況をどう認識し、いかなる処方箋を用意し、行動するかと問い続けることが大切だ。単に偲ぶ対象ではなく、これからも“生きていてほしい”人だ」と。そう、ご当人も言っているに違いありません。「懐かしがっているだけではあきません。あんたらがしっかりせんと」――叱咤する声が聞えてきます。

 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)
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