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幸田文『おとうと』(新潮文庫)

 奮闘する姉

 昭和から平成のかけての「日本の家族」のことを考えていたら、無性にこの本が読みたくなりました。書棚にある初版本は昭和32年(1957年)9月27日、中央公論社刊。装幀は谷内六郎さんで、もともとは函に赤い帯が巻かれ、小林秀雄氏の評がありました。
 
〈幸田文氏の「おとうと」は、大変個性の強い作品である。人生の入口で、病気の為に挫折して了(しま)う弟の不安定な行動や夢が、鮮やかに描かれている様だが、実は、この鮮やかさは弟を見守る姉の心の鮮やかさなのである。弟によって、惜し気もなく消費される青春は、姉の秘め、抑えた、心の象徴であり、その意味で、これは寧(むし)ろ「姉」と呼ぶべき作であって、又、それが為に、「姉」の世界は、生きようとする意志の緊張で苦しい様な一女性の世界になる。それが、よく表現されている、と思った〉(『小林秀雄全作品 第21集 美を求める心』新潮社所収)
 
 
 
 現在もっとも入手しやすい新潮文庫版が第76刷ですから、半世紀以上にわたるロングセラーです。この作品が「婦人公論」に連載されたのは、昭和31年1月号から翌年9月号まで。前年、1年にわたって「新潮」に連載された初の長編小説『流れる』の余勢を駆ってのことでした。

 父・幸田露伴が亡くなったのは、戦後間もない昭和22年(1947年)7月30日、作者42歳の時でした。旧知の編集者に勧められ、露伴の思い出を綴った『父―その死―』(中央公論社、1949年)、少女時代を回想した『みそっかす』(岩波書店、1951年)などを刊行するや、たちまち随筆家として脚光を浴びます。ところが、文豪の娘で「小説風な随筆」をものする「想い出屋」であることを潔しとせず、「このまま私が文章を書いてゆくとしたら、それは恥を知らざるものですし、努力しないで生きていくことは幸田の家としてもない生き方なのです」と表明して、“絶筆”を宣言。いくつかの職を経た後、名を伏せて柳橋の芸者置屋に住み込みの女中として奉公します。“露伴ばなれ”の賭でした。

 そして、その体験をもとにした『流れる』(新潮社、1956年)を上梓すると、すぐさま成瀬巳喜男監督が映画化し、それが同年の芸術祭文部大臣賞に選ばれます。さらに原作が新潮社文学賞、日本芸術院賞を受賞し、またたく間に小説家としての地歩を固めます。

 驚くのは、早くも1958年に中央公論社から全7巻の全集が刊行されていることです。黒い函入りで、浦野理一氏がこの全集のために考案した「幸田縞」の布装幀という、贅を凝らした造本です。文壇的には大きな波紋(少なからぬ先輩女性作家たちの間に羨望、怨嗟の声)が広がったと聞きます。しかし、そうした異例の出来事が世に文章を発表し始めてからわずか10年ほどの作者の身の上に起こったのです。当時の幸田文の文業の勢いがわかるというものです。

 さて、結核のために19歳で亡くなった3歳年下の弟を追慕した、作者2作目の長編小説『おとうと』は、多くの名場面で知られています。わけても書き出しの描写の鮮やかさは、久々に読み返しても見事です。
 
〈太い川がながれている。川に沿って葉桜の土手が長く道をのべている。こまかい雨が川面(かわも)にも桜の葉にも土手の砂利にも音なく降りかかっている。ときどき川のほうから微かに風を吹きあげてくるので、雨と葉っぱは煽られて斜になるが、すぐ又まっすぐになる。ずっと見通す土手には点々と傘(からかさ)・洋傘(こうもり)が続いて、みな向うむきに行く。朝はまだ早く、通学の学生と勤め人が村から町へ向けて出かけて行くのである〉
 
 雨に煙る晩春の朝方、隅田川の土手道の光景です。ここを通って女学校と中学校へ向かう姉と弟。続いて、彼らの家庭のありさまが述べられます。
 
〈不和な両親を戴(いただ)いていることは、子供たちにとって随分な負担である。ことにそれが夫にとっては二度目の妻であり、子たちにとっては継母であり、その継母はまた痼疾(こしつ)の病気もちであり、さらに経済状態がおもしろくないとこう悪条件が揃っていては、二進(にっち)も三進(さっち)も行きはしない。それでもその四人の家族のうち誰か一人が優しく譲る気象であったら、すべてはその一ヶ処が抜け道になって、あるいはきりぬけられたかもしれないが、まずいことに四人が四人ともそれぞれに我(が)の強い気象だった〉
 
 
 作者は5歳で生母を亡くし、7歳の時に3つ上の姉を喪います。そして、8歳の時に父が元学校教師の後妻を迎えるのですが、気が強く、敬虔なクリスチャンの彼女は、露伴の飲酒癖にも嫌悪を示し、およそ反りの合わない夫婦でした。さらに継母にはリューマチの持病があるために、家事一切は16歳の時から文が担当することになりました。

 作中主人公は「げん」、弟は「碧郎(へきろう)」と命名され、物語は大正10年春、げんが女学校4年生、碧郎が中学1年生のところから始まります。二人とも通学に1時間以上要する上、毎朝げんがご飯を炊き、弟にも食べさせ、自分も食べ、手早く後片付けをしてから二人分の弁当を詰めなければならないため、「いつも大概すれすれの滑りこみ」になりました。

 放課後うちに帰るとすぐ、夕食の支度にかかります。晩酌する父親向きのものと家族の惣菜を用意し、後片付けを済ませると9時になります。宿題をするにも眠くなっています。その他、重労働のポンプ井戸の水汲みや、休日には洗濯、掃除がどっさりと待ち構え、弟の着物の仕立て直しも“家事”の範疇に含まれます。

 ちなみに、実生活において薪割り、米研ぎ、洗濯、火炊き、雑巾がけ……基本はすべて「家事の名人」である露伴から直伝で厳しく躾(しつけ)られました。
 
〈掃いたり拭いたりのしかたを私は父から習った。掃除ばかりではない、女親から教えられる筈であろうことは大概みんな父から習っている。(略)おしろいのつけかたも豆腐の切りかたも障子の張りかたも借金の挨拶も恋の出入(でいり)も、みんな父が世話をやいてくれた〉(「あとみよそわか」、『父・こんなこと』新潮文庫所収)
 
 そんなハードワークをこなす気丈な姉の目から見て、華奢できかん気のくせに弱虫の弟は、頼りなく、不憫でなりません。姉と弟の関係は、書き出しの一節に続く、こんなやりとりに見て取れます。
 
〈「きのうあんた橋のところでふりかえって笑ったわね。あれどういうわけなの、機嫌がなおった知らせなの?」
 弟はちょっとてれた様子で云う。「そうじゃないよ。ねえさんがかわいそうだったんだよ。」
「なぜ?」
「なぜって、とぼとぼしてるみたいだったからさ。」
「あら、あたしとぼとぼしていた?」
「うん、そう思ったんだけど、後ろ向いてみたら汽車みたいにごおって云ってた。」ちょこざいなことを云う碧郎である。汽車のようだったとは何事か。第一ねえさんがかわいそうとか、とぼとぼしているとか、よくも云えたものだ。とは云うものの姉は弟を、弟は姉をよく了解していることがこれで証明されたにひとしいのである〉
 
 ところが弟には次々と厄介なことが起こります。同級生を骨折させたことで歯車が狂い出し、不良少年のグループにつけこまれます。ついには万引で放校処分を受けてしまいます。別の学校に入学することはできましたが、次第に遊びぐせが嵩じていき、ビリヤード、スカール漕ぎ、モーターボート、借馬乗り……。そして、ある秋の夜、弟は家に帰ってきませんでした。父、母、姉たちは三者三様の心配をしながら一夜を明かします。
 
〈三人は三人とも蒲団にはいって待っていた。締りは一晩じゅうしてなかった。かわりかわりにお手洗へ立った。しとどの露になって夜は明け、碧郎は帰らなかった。朝食の膳の父はいつもと変らなかったが、げんはその顔を見ることができなかった。父の憂いは母やげんと比較にならない深さのようだった。
碧郎はその夜、童貞をどこかへ捨てていた〉
 
 その弟が、二年後に肺病を宣告されます。医師の説明を受けたのはげんでした。「なぜもっと早く医者に診せなかったのか、なぜ両親とも揃っている家庭でありながらこんなに悪くしてしまったのか」、「眼に文字がなく知識に疎く、生活に追われきっている人たちならいざ知らず、書物に親しみ文筆をもって立っている人の家」で、なぜこれほど手遅れになるまで気がつかなかったのか――若い医師の言葉が、げんの身には堪えます。

 結核は当時、「金食い病気」と言われていました。最高の医療を続けるとなれば、よほどの覚悟が必要です。父の資力では追っつかないだろう……。
 
〈げんは父親が貧しいことも、貧しいけれどかならず碧郎を入院させてやるだろうことも、咄嗟(とっさ)に確信と云っていいほどに思った。同時に、今まであまり考えてもみなかった自分が無収入だということも、いたく思い知った〉
 
 彼女は病室の床に蒲団を敷いて泊まり込み、感染の恐れも覚悟の上で、弟に付き添うことを自分の責務と考えます。看病の様子は切なく、寂しく、圧倒的な描写が胸を締めつけます。

「胸のなかがどぶみたいなんだ。メタン瓦斯(ガス)がぶつぶつ云ってるのと似ているんだ。煮えるんだか沸くんだか、たしかにいやなものがぶつぶつ云っている」と見舞いに現れた父親に弟がつぶやきます。容態の悪さは明らかです。こみ上げる思いをこらえ、「頼むよ、げん」とひと言告げて帰って行く父の横顔。その心中をいたわるげんの姿がまた哀しく映ります。

 いったん病状が落ち着いたかに見えた碧郎でしたが、病は容赦なく二の矢を放ってきます。再入院した時点で、勝負の帰趨ははっきりしました。ある日、弟は姉に島田髷に結って見せてくれないかと言い出します。「どうせおれはねえさんの結婚式の姿なんか、見ないで終ってしまいそうだもの。どんなかな、案外似あうかもしれない」。

「道化っ気」が起きた姉は、快活に「やってみようか。お嫁さんのしたくの予行演習しちゃいけないってことないものね」と応じます。弟がその髪を評します。「ねえさんの島田はかわいいって形容する島田じゃないけれど、りっぱって云えるよ。(略)ただ忠告しておくよ。ねえさんはもう少し優しい顔するほうがいいな。りっぱと愛嬌とどっちがいいか知らないけど、気楽に口が利(き)けるような顔をしていてもらいたいな」。

 それを遺言にしたかのように、病状は悪化し、やがて臨終の時を迎えます。19歳と9ヵ月の人生。姉は最後まで気丈に振る舞い、弟の最後のお浄めもつとめます。自分がしっかりしなければという意識が彼女を支え、渾身をふりしぼって一家を支える姉の姿が余すところなく描かれます。
 

 幸田文の文章が昭和30年代の日本で広く受け入れられ、愛読された背景はなんだったのか、と考えます。結核の恐ろしさがまだ生々しい記憶として残っていたことも確かですが、戦前の空気、いや明治の匂いを色濃く残した家庭像と、激しくうつろいゆく世相の中で、精いっぱい渾身の力をふるって生きようとする主人公に共鳴した人たちの支持ではなかったかという気がします。高度経済成長が本格的に始まる前の日本人にとって、彼女の精神と肉体に刷り込まれ、息づく挙措の一切が、文章の折り目正しさ、言葉のきめ細やかさと相まって、憧れと懐かしさと親しみの入り混じった魅力として感じられたのだろうと想像します。
 
 
「考える人」編集長 河野通和(こうのみちかず)

 
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